❖ 見る
❖ 聴く(礼拝・日本語/英語訳)
❖ 読む
神様の選びの不思議(前編)
ローマ 9:1-13
池田真理
今日からローマ書9章に入っていきます。この章は全体で同じ一つのテーマについて語っているのですが、今日と次回で前編と後編の2回に分けて読んでいくことにしました。そのテーマとは、「神様の選び」です。
私たちは普段、神様が誰を選ぶかは人間には分からないので、誰が選ばれるのか選ばれないのか考えるのは無駄で、神様は全ての人を愛しているという事実を知っていればいいと考えています。でも、今日からしばらく読んでいく聖書の箇所は、なぜ選ばれない人たちがいるのか、ということに注目しています。それは、神様はその人たちのことを見捨ててしまったのか、そうだとしたら神様は全ての人を愛しているわけではないのか、という疑いに発展します。注意して読んでいかないと、誤解してしまう難しい箇所です。少しずつ読んでいきます、まず1-5節です。
A. 神様が選んだ民が神様を拒んでいる現実 (1-5, 申命記7:6-8)
1 私はキリストにあって真実を語り、偽りは言いません。私の良心も聖霊によって証ししているとおり、2 私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。3 私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています。4 彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。5 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる方。神は永遠にほめたたえられる方、アーメン。
ここには、ユダヤ人であるパウロが、同胞のユダヤ人の多くがイエス様を拒んでいるという現実を深く嘆いていることが、率直に書かれています。イエス様は、ユダヤ人が何千年もの歴史を通して語り継ぎ、信じてきた、旧約聖書の神様ご自身なのに、当時、そのユダヤ人の多くがそのことを認めませんでした。
旧約聖書の申命記7:6-8には、神様がユダヤ人をご自分の「宝の民」として選ばれたと書かれています。今日は長くなってしまうので読むのはやめますが、週報にも載せましたので後で読んでみてください。
それなのに、その神様に選ばれた民の多くは、神様がイエス様としてこの世界に来られた時、神様を拒みました。そして、ユダヤ人以外の外国人(異邦人)がイエス様のことを喜び、信じるようになりました。その現実は、神様がご自分の民であるユダヤ人を捨てて異邦人に心変わりしてしまったかのようでした。もし本当にそうだとしたら、もう旧約聖書は意味がなくなりますし、神様はご自分の言葉を取り消すことがあるので誰も安心できないということになります。もちろんそうではないということを、これからパウロが説明していきます。
でも、この問題は現代に生きる私たちにどう関係があるのでしょうか?私たちは、パウロの時代にイエス様を信じた人たちと同様に、多くのイエス様を信じていない人たちの中で生活しています。私たちは選ばれ、彼らは選ばれていない、または、少なくともまだ選ばれていない、というのは、事実です。でも、神様は「私を信じるなら愛してあげよう」とは言いませんでした。イエス様は、ご自分を信じない罪人たちのためにこそ、十字架で死なれました。信仰のあるなしは神様の愛の条件ではありません。
私たちはつい、「選ばれている」と言われると、特別に愛されていると感じ、反対に「選ばれていない」と言われると、愛される対象から外されてしまったと感じてしまいます。でも、神様の場合、選ぶことと愛することは全く別のことなのだと思います。神様は全ての人を等しく愛しているけれども、全ての人を選んでいるわけではないのです。
では、神様の選びとは何なのか、パウロの説明を聞いていきましょう。6-9節に進みます。
B. 民族や血縁ではなく、約束に基づく選び (6-9)
6 しかし、神の言葉が無効になったわけではありません。実際、イスラエルから出た者がすべてイスラエルなのではなく、7 アブラハムの子孫がすべてその子どもというわけでもありません。かえって、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる。」8 すなわち、肉による子どもが神の子どもなのではなく、約束による子どもが子孫に数えられるのです。9 約束の言葉は、「来年の今頃、私は来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。
1. 神様はイシュマエルを選ばずイサクを選んだ
ここでパウロが言おうとしていること自体は単純です。イスラエル(またはユダヤ人)は神様に選ばれた民だが、旧約聖書の歴史を辿れば、同じイスラエル民族また血縁の中でも、選ばれた者と選ばれなかった者がいたじゃないか、ということです。その代表的な例として、アブラハムの息子たちの中でも、長男イシュマエルは家族から追放され、次男イサクが神様に選ばれたという話をしています。そして、だから神様の選びというのは元々、民族や血縁関係に基づいているのではなく、約束に基づいているのだ、と教えています。
では、神様の約束とはなんでしょうか?それは、人間には不可能なことを可能にし、人間の悪意も超えていく、神様の力です。アブラハムと妻のサラは高齢で、サラは不妊の女性でしたが、神様は奇跡を起こし、イサクが生まれました。また、サラは神様を信じず、自分の奴隷のハガルにアブラハムの子イシュマエルを生ませましたが、自分にイサクが生まれると、今度はハガルとイシュマエルを家族から追放しました。とても不信仰で自分勝手で、ひどいことをする人です。でも、神様はそんなサラの悪意さえも、イサクを選ぶという約束を実現するために用いたと言えます。
神様の約束は、神様の計画に基づいて私たちに与えられるもので、神様は必ず実行されます。私たちが「できない、無理だ」と思っても関係ないですし、人の悪意によって妨げられることもありません。私たちは、このような神様の約束、そして神様の計画、またそれを必ず実行する神様の力に基づいて、民族も人種も関係なく、「選ばれる」のです。
2. 選ばれなかったイシュマエル
では、神様に選ばれなかったイシュマエルのことを、私たちはどう理解すればいいのでしょうか?正確に言うと、アブラハムにはイサクとイシュマエル以外にも大勢の子どもたちがいましたが、イサク以外は全員家族の中から遠ざけられています。その人たち全員の足跡を辿ることはできませんが、少なくともイシュマエルについては、神様は彼のことも一つの国民の父とすると、アブラハムに約束されました。(創世記21章)そして、その約束通り、神様は追放されたイシュマエルを守り、イシュマエルは多くの子孫を残しました。彼の詳しい生涯の記録は聖書には残されていませんが、少なくとも人間的な価値観で言えば、決して絶望的に不幸な人生を歩んだのではありませんでした。また、イスラム教ではイシュマエルはとても大切にされていて、アラブ人はイシュマエルに起源を持つと言われています。イシュマエルは神様に「選ばれなかった」けれども、決して見捨てられたのでも滅ぼされたのでもありませんでした。むしろ、神様に愛され、守られ、人類の歴史の重要な一部分を担ったのだと言えると思います。
神様の選びについて、少し見えてきたような、逆に混乱してきたようなところですが、続きを読んでいきたいと思います。10-13節です。
C. 人間の行いによらない選び (10-13)
10 それだけではなく、一人の人、つまり私たちの先祖イサクと結ばれたリベカの場合もそうでした。11-12 まだ子どもたちが生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるようになる」とリベカに告げられました。それは、神の選びの計画が行いによってではなく、お召しになる方によって進められるためでした。13 「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
1. 神様はエサウを選ばずヤコブを選んだ
今度はイサクの息子、エサウとヤコブの話です。初めに、13節の衝撃的な言葉を説明しておきたいと思います。「神様はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と文字通り受け取ると、やはり神様は全ての人を愛しているわけではなく、神様に愛されない人、神様に憎まれる人がいるんだということになってしまいます。でも、この言葉は神様の感情を表しているのではなく、単に選ぶか選ばないかの行動を表していると考えることができます。単純に、「神様はヤコブを選び、エサウを選ばなかった」という意味です。
でも、この箇所の問題発言は13節だけではありません。11−12節は、二人の運命は生まれる前から神様によって定められていた、と読むことができます。もしこれが、神様は私たちが生まれる前から幸せになるか不幸になるか定めているという意味だとしたら、大変理不尽で不公平な話です。でも、そういう意味ではありません。神様が言われたのは、「兄は弟に仕えるようになる」ということです。
この言葉は、少し不可解です。というのは、創世記にあるヤコブとエサウの物語には、エサウがヤコブに仕えたという記録はないからです。むしろ、エサウを怒らせたと思ったヤコブが、エサウに大量の贈り物を送りつけてご機嫌を取ろうとした姿が印象的です。
神様が意味していたのは、何世代も後の時代に、おそらく500年くらい後に、エサウの子孫がヤコブの子孫に仕えるようになるということです。エサウの子孫はエドム人となり、ヤコブの子孫からダビデ王が生まれました。エドムはダビデの王国の属国になったので、「兄は弟に仕えるようになる」という言葉は実現したと言えます。人間には長い時間ですが、神様にとっては一瞬で、神様の大きな計画のほんの一部に過ぎないということだと思います。
では、なぜヤコブが選ばれ、エサウが選ばれなかったのでしょうか?その答えは、「誰にも分からない」です。神様にしか理由は分かりません。でも、一つだけ私たちにも確かなのは、ここでパウロが説明している通り、神様の選びは人間の行いの良し悪しには関係ないということです。ヤコブとエサウが生まれる前から、良いことも悪いこともしていないうちから、神様はヤコブを選びました。それはただ、人の想像をはるかに超えた、神様の大きな計画によります。
人間の行いの良し悪しという面で言うなら、ヤコブは卑怯でずるくて臆病でどうしようもない人です。父も兄もだまして、毛深いエサウになりすますために獣の皮をかぶるという恥ずかしいことまでしましたが、結局怖くなって逃亡しました。反対にエサウは、いいかげんなところもありますが、自分を貶めた弟を許して迎え入れた優しい兄です。なぜ神様がエサウではなくヤコブを選んだのか、人間の感覚ではとても不思議です。生まれる前から選ばれていたくらいの強烈な理由がなければ、ヤコブが選ばれるのは無理だったのかもしれません。
2. 選ばれなかったエサウ
ここで、イシュマエルと同様に、「選ばれなかった」エサウのことを振り返っておきたいと思います。もうお話しした通り、エサウもイシュマエルと同様に、神様に選ばれなかったけれども、エドム人という一つの民族の先祖となりました。アブラハム、イサクの後を継いだのは弟のヤコブで、エサウは先祖代々の土地を離れましたが、エサウもまた、神様に守られ、愛されて、生涯を終えたのです。やはり、神様の選びは神様の愛とは別で、神様に選ばれていないから滅ぼされるとか不幸な人生を歩むということはないのだとわかります。
D. 神様は私たちを何のために選ぶのか?
「心の貧しい人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである その人たちは慰められる。へりくだった人々は、幸いである その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである その人たちは神を見る。平和を造る人々は、幸いである その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害された人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである。私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:3−12
では最後に、神様の選びとは何なのか、今日までのところでの私の考えをお話ししたいと思います。鍵となるのは、神様は私たちを何のために選ぶのか、ということだと思います。
神様は、私たちを愛するために選ぶのではありません。神様は、私たちが神様を愛するために選ぶのだと思います。神様に愛されているのは全ての人に共通です。でも、神様を愛して、神様に仕える機会が与えられるのは、神様が選んだ人だけです。私たちは誰も、神様に選ばれなければ、神様を信じることも愛することもできません。旧約聖書で、神様はご自分が選んだ人々だけにご自分のことを知らせ、ご自分を礼拝するように教えました。そして、神様を愛し、隣人を自分のように愛する共同体になるように教えました。また、新約聖書では、イエス様は全ての人のために十字架で死なれましたが、イエス様が神様ご自身であると知るのは神様が選ばれた人だけです。イエス様のことを知って、共に神様に感謝を捧げ、礼拝する共同体に加わるために、神様は私たちを選ばれました。
こう考えると、神様の選びは私たちに与えられる特権ではなく使命と言った方がいいのかもしれません。特別に愛される特権ではなく、まして天国に行ける特権でもなく、神様を愛し、神様に仕え、互いに愛し合う共同体を作る使命です。
そのような使命を与えられていない人たちが、聖書の中にも私たちの周りにもたくさんいます。なぜその人たちが選ばれず、私たちが選ばれるのか、その理由は、イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウの物語でお話ししてきた通りです。私たちの生まれも育ちも性格も、人種も国籍も、個人としてどのように生きてきたかも、関係ありません。私たちには分からない、100年ほどの生涯では想像もできない、神様の大きな計画によります。また、選ばれなかったとしても、神様の愛は彼らと私たちに等しく注がれています。
この先のローマ書にはさらに、選ばれた人たちは選ばれていない人たちのために先に選ばれたということが言われています。また、次回は、神様は選ばれていなかった人たちの中からご自分の民を選ばれると言われています。神様の選びはますます不思議で、大きいです。
(お祈り)神様、あなたはこの世界を造られ、人類の歴史を知っておられ、私たち一人ひとりの歩みも全て知っておられる方です。あなたの前に、私たちの一生はどれほど小さいものでしょうか。それでも、あなたがイエス様としてこの世界に来られ、私たち一人ひとりと出会ってくださったことを、ありがとうございます。どうか、この教会が、あなたの恵みと素晴らしさを共に分かち合い、あなたを礼拝し、この世界にあなたの愛を伝えていける共同体になれるように、助けてください。主イエス様、あなたに心から感謝して、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
メッセージのポイント
私たちがイエス様を自分の主と信じて生きることができるのは、ただ神様の意志と計画によります。私たちの生まれや育ちや性格、どう生きてきたかも、関係ありません。人間の社会での常識や評価も、神様の選びとは無関係です。神様の選び方は一方的で、私たちには不公平にさえ感じるかもしれません。でも、そこに神様の私たちに対する愛と誠実があります。
話し合いのために
- イシュマエルとエサウが「選ばれなかった」ことについて、どう思いますか?
- 「神様の選び」とは何でしょうか?
子供たちのために(保護者のために)
おそらく、日本で生活している中では、子どもたちの周りにも保護者の皆さんの周りにも、イエス様を信じている人は多くないと思います。私たちは多くの人よりも先に「選ばれた」と言えます。でも、その選びは、私たちが他の人よりも優れていたから与えられたのではなく、私たちが内輪で独占するために与えられたのでもありません。神様が私たちを先に選んだのは、他の人たちと何も変わることのない私たちが、神様からいただいた愛を次の人たちに伝えていくためです。もしできたら、ヤコブの物語を創世記25-33章や絵本で読んでみてください。ヤコブは生まれる前から選ばれていたと書かれていますが、むしろそうでなければ神様の子と呼ばれるのは無理なんじゃないかと思えるほど、どうしようもない、臆病でずるい人だったと分かります。私たちが神様に選ばれたのは、ヤコブが神様に選ばれたのと同じ理由です