〇〇は罪か? を聖書に問う愚かさ


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〇〇は罪か?を聖書に問う愚かさ

ルカ 15:11-32, ヨハネ 8:7-11, 31-32, 14:6

永原アンディ


 今日は詩編のシリーズを離れたお話をします。“Sin”についてお話しします。なぜあえてSinという英語を使ったかというと、日本語の漢字の「罪」は、宗教的な戒律の違反と、現代の法律違反の両方の意味で使われているからです。つまり宗教的戒律違反についてお話ししますということです。とはいえ、聖書に書かれている時代は法律の罪と宗教的罪とは一体でした。

宗教には、禁じられていてそれを破ることは罪とされることがあります。例えばユダヤ教やイスラム教には、細かい食物規定や行動に関する制限があります。仏教にも戒律があります。戒律は宗教によって違うし、同じ宗教を信じていても、その守り方には程度の差があります。キリスト教にはどんな戒律があると思いますか?キリスト教は何を罪とするのでしょうか?

 大学生の頃、あるキリスト教の出版社でアルバイトをしていたのですが、ある同僚が別の同僚に「あなたはまだ罪を犯していますね?」といわれてびっくりしました。後から聞いてみると喫煙が臭いでバレたというのです。以前には酒臭くて同じことを言われたということでした。40年以上前の話です。礼拝の帰りに映画見るのは(安息日なので)マズいという雰囲気もありました。女性が牧師になれない教派が今よりもずっと多かった時代です。つまり、それらは社会的には合法でも、キリスト教では罪という理解する人が多かったのです。

 そして今一番の争点は、同性愛を含む性的少数者をめぐる問題です。それは罪かどうか?という議論が盛んになされています。

しかし、神様は個別の事柄が罪かどうかを考えるより、罪とは本質的に何かということを知ることを求めておられます。

A. 聖書は何を罪と呼んでいるのか?

1. 律法違反としての罪

日本語の聖書に「愛」という漢字は500回くらい出てきます(旧240、新283)が、「罪」はどのくらいだと思いますか?
「罪」は「愛」の倍の約1000回(旧726、新307)です。カッコ内の数字は出てくる節の数なので実数はもう少し多いことになります。
愛は旧約と新約とほぼ同数(旧240、新283)です。ただ新約の分量は旧約の1/3以下ですから新約の方が出てくる頻度としてはかなり多くことになります。一方「罪」は、旧約聖書で多く使われていることがわかります。新約聖書だけで見ると「罪」と「愛」はほぼ同じくらいの数です。

このことでわかることは、「罪」が主に旧約聖書の律法違反を意味する言葉であったということです。

皆さんは十戒をご存知だと思います。神様がモーセを通して民に与えた戒めです。しかしそれはとてもアバウトなものなので、日常生活に適用するためには細則が必要となりました(ちょうど憲法の理念を実現するために法律が必要なようにです)。この後から神様は次々とモーセに法を与えます。細かい規定がここから始まり、次の書、レビ記には詳細な規定が書かれています。

ユダヤ人にとっては戒律と法律は律法として一つのものであり、ユダヤ人はこの律法の下に生き、律法に触れれば規定に従って裁かれました。

2. 初代教会の罪理解

イエスの時代になると、同じユダヤ教社会の中でもライフスタイルが変わり、律法の規定にはさらに多くの細則が加えられ、これを破る人、守れない人は罪人として軽蔑されていました。しかし日々の暮らしで精一杯の普通の人々には細分化された律法は完全には守れませんでした。反対に、宗教的な知識を持ち経済的に恵まれていた人々は、守れない“罪人”を軽蔑していました。イエスがそのような時代に来られ、表面的に律法を守るだけで、神様の求める愛や正義を行わない律法学者、ファリサイ人を強く非難したことが福音書に記録されています。イエスが律法について、罪についてどう考えておられたかは後半で詳しく見てゆきたいと思いますが、その前に初代教会が罪をどう考えていたかを見ておきましょう。11人の使徒やパウロたちがどう見ていたかということです。

彼らにはユダヤ教を捨てて新しい宗教「キリスト教」を始めたという意識はありませんでした。ですから、ユダヤ教との連続連続の中で、律法についての考えは個人差がありましたが、特にユダヤ人の多い教会では、律法は守るべきこととして保持されていたようです。しかしそれは、イエスの考えからすると後退してしまっていたと私は考えています。それではイエスの考えを福音書の彼の言葉を手がかりに確かめてみましょう。


B. イエスは罪をどう観ていたのか?

1. イエスは律法をどう観ていたのか?

福音書のイエスは、律法を形式的に守ることを批判していました。律法が形式的に守られることを求めるものではなく、神様の意思を行うために与えられたものであること。しかし、それを完全に守ることができる人はいないこと。いろいろな機会に話されました。

ヨハネによる福音書の8章にこのようなエピソードが記されています。(8:7-11) 律法学者やファリサイ派の人々が、姦淫の罪で捉えられた女性をイエスの前に連れてきて、律法では石で打ち殺せと命じられているがイエスはどう考えるかと問うたのです。

しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」(ヨハネ8:7-11)

古代ユダヤの律法では、姦淫は石で打ち殺さなければならない大罪でしたが、イエスはそれを宣告できるのは罪を犯したことのない者だけだとして、彼女に「私もあなたを罪と定めない」と言われました。

社会のルールとしては刑罰が必要であっても、神様に対する罪のことに関して人は他人をとやかく言えないのだと釘を刺したわけです。

イエスは、律法の理解を律法主義から奪い返して原点に戻そうとなさったのです。しかし当時の宗教家らは、自分達の律法観を否定する反律法主義者、神に対する反逆者としてイエスを処刑してしまいました。それが十字架の出来事です。

2. 教会は何を罪としてきたか?

そのイエスに従って歩み始めた新約聖書の時代の初代キリスト教会は、罪の本質をイエスに教えられていましたが、先に触れたように、ユダヤ教の律法の実践を否定することはありませんでした。また当時の広いギリシャ・ローマ文化とサブカルチャーとしての古代ユダヤ文化、両者の影響のもとで、律法を尊重し、たとえば女性が教会で教えることを禁じたことは、今世紀にも一部の教会で受け継がれています。アルコール飲料はもちろん、聖書が書かれた時代には存在しなかった喫煙の習慣もそうでした。一方で、聖書が書かれた時代には一夫多妻も、奴隷の所有は宗教的にも何ら問題のないものでしたが、今それを勧める教会はありません。また「同性愛」という概念は20世紀初頭に初めて歴史に登場します。それを喫煙同様に「聖書はそれを罪と定めている」というのは誤りなのです。

3. 正しい問いは「〇〇は罪か?」ではなく「罪とは何か?」

 私たちはユダヤ教徒ではありません。旧約の律法の下にはいません。誰もユダヤ教の食物規定を気にかけている人はいません。それなのに特定の事柄だけを取り出して、聖書は、私たちにとっても〇〇は罪だと言っているというのは矛盾しています。また、私たちは新約のパウロの全ての教えに従っているわけでもありません。

 それはつまり私たちが、「〇〇は罪」という基準は普遍的ではなく、時代や文化や地域によって異なり、変化するものだということを知っているからです。

 十戒の「殺すな」はとても素晴らしく聞こえますが、それはあくまでも同胞の中に限られた話です。同じ旧約の中には、敵を皆殺しにすることが命じられている部分があります。

 聖書は神様の言葉です。しかし、書かれている表面上の言葉が全て神様のという意味ではありません。人間の言葉を通して、つまり表現としては時代や文化の限界の下で書かれたものなのです。ですから考慮しつつ神様の真意を理解しなければなりません。そうでないと、かつては先住民を迫害し、奴隷制を肯定し、女性差別を黙認し、今、性的少数者や他の宗教を信じる人々を「罪人」と決めつけるキリスト教の黒歴史に加担することになります。

それはイエスの考えとは全く異なります。イエスの考えを知ることのできる、イエス自身がされた譬え話を紹介します。

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟のほうが父親に、『お父さん、私に財産の分け前をください』と言った。それで、父親は二人に身代を分けてやった。

何日もたたないうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ち、そこで身を持ち崩して財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めたそれで、その地方に住む裕福な人のところへ身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった。

そこで、彼は我に返って言った。『父のところには、あんなに大勢の雇い人がいて、有り余るほどのパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

そこで、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

罪とは、律法を形式的に守れないことではなく。神様に背を向けて歩もうとする人間の態度だということです。それは創世記3章の「原罪」と呼ばれるアダムとエヴァの行動に象徴される人の持つ根本的な性質です。それは利己心、自己中心と言い換えることができます。

「罪」を表すギリシャ語の元の言葉の意味は「的外れ」です。それが人を傷つけ、自分も傷つくことの原因なのです。しかし喜ばしいことに、それに気づいて帰ってくる者を神様は、使用人のような者ではなく子として迎え入れてくださいます。

それでは神様の元に帰る方法をイエス自身の言葉で紹介します。

イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」(ヨハネ8:31,32)

イエス・キリストを主と信じて従ってゆくことが、私たちを私たちの根本的な問題である罪から解放して、背を向けていた神様と和解する方法だということです。

さて、先ほどのイエスの譬え話には続きがあります。この出来事のお兄さんはどう反応したがが書かれています。読んでみましょう。

ところで、兄のほうは畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りの音が聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これは一体何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。』」(ルカ15:11-32)

これは人々を罪人と裁き、自分達は宗教的に優れていると思い込んでいた当時の宗教家に対するきつい皮肉ですが、それはキリスト教徒を自認しながら、あれは罪、これは罪、あの人は罪人と裁く人にも当てはまることです。もう〇〇は罪かという、まさに「的外れな」議論はやめて、罪から離れること、すなわち、もっとイエスに近づくことに心を向けましょう。

(祈り)神様、あなたが弱っている者を立ち上がらせ、迷っている者に歩むべき方向を教え、歩み出す力を与えてくださる方であることを感謝します。また、あなたの教えが禁止や命令ではなく、私とと共に歩みなさいという招きであることを感謝します。

あなたがそのように私たち一人ひとりを招いてくださる方なのに、招かれた私たち自身は他の人々を判断し、自分の価値観で人を裁きやすいものであることを知っています。そのような態度で人を裁くことこそ罪深い態度であることも知っています。この罪を赦された者として、できるだけこの罪から離れあなたの近くを歩みたいと思いますからどうか導いてください。私たちの主、イエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

私たちは旧約聖書の律法の下にはいません。また新約聖書のパウロの教えをそのまま守っているわけではありません。ある人々はある具体的な行動を聖書が罪としていると考えていますが、それは誤りです。法を犯すという意味での罪は、時代や文化によって異なります。聖書の教える罪とは「神様に背き自分を神として、つまり自己中心的に生きること」です。


話し合いのために

  1. 旧約聖書の律法を私たちはどのように受け取るべきですか?
  2. なぜ、〇〇は罪かを聖書に問うのは愚かなのですか?

子供たちのために(保護者の皆さんのために)

自分勝手、自己中心が、喧嘩などさまざまな問題を生むことを子供達も知っています。でも、それでは自己ではなく誰が力を持っても同じで、今度はいじめの問題が起こります。聖書は、中心であるべきはわたしたちを創られた神様、人としてご自身を表されたイエス様であることを教えて下さい。家庭でも同じです。本当のビッグボスはイエスであって、お父さんでもお母さんでもありません。