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宗教家でも革命家でも政治家でもなく友
待降節第二日曜日・イザヤ 11:1-5, 42:1-4
永原アンディ
A. 預言されていた「救い主(メシア)の登場」(イザヤ 11:1-5)
1 エッサイの株から一つの芽が萌え出で その根から若枝が育ち
2 その上に主の霊がとどまる。知恵と分別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れる霊。
3 彼は主を畏れることを喜ぶ。その目の見えるところによって裁かずその耳の聞くところによって判決を下さない。
4 弱い者たちを正義によって裁き 地の苦しむ者たちのために公平な判決を下す。その口の杖によって地を打ち その唇の息によって悪人を殺す。
5 正義はその腰の帯となり真実はその身の帯となる。(イザ 11:1-5)
1. エッサイの根から育つ若枝 (1, マタイ1章参照)
1 エッサイの株から一つの芽が萌え出で その根から若枝が育ち
エッサイはダビデ王の父です。ダビデはイスラエル史上最も信望の厚かった王ですが、ダビデ王朝の栄光は長く続きませんでした。
その後、イスラエルでは占領者を撃退し王国を再建する救世主(メシア)が待ち望まれていました。そしてメシアはダビデの家系から出ると預言されていました。
しかしイザヤの時代のイスラエルでは、かつてはダビデという芽が出て栄えたのに、今は見るかげもなく、生きているのか枯れているのかわからない切り株のような状態だったわけです。
イザヤはこの古株から新しい希望を預言しました。そしてそれは700年後、ダビデの世からは1000年後、イエスの誕生として成就しました。
ある人の誕生が長い間、待ち望まれ、やがて成就するというモティーフは、アブラハム/イサク、ハンナ/サムエル、ゼカリヤ/ヨハネなど、聖書ではイエス誕生を暗示する出来事として多く紹介されています。
イエスの誕生が何世代にもわたって待ち続けられていた出来事だった、ということは、私たちが多くの問題を抱えたこの世界で、どのように神の国の完成とイエス様の再臨を待ち望むべきなのかについてのよい示唆を与えてくれます。
忍耐することが好きな人はいませんが、神様を信じる人の忍耐を神様は決して無駄にはなさいません。
私たちも、神の国に迎え入れられるまで、つまりこの地上の歩みにおいては苦しみ、悲しみ、悩みに付き合っていかなければなりません。
しかし私たちにとって耐えられないことは一つもありません。新しい若枝として現れたイエス様は、インマヌエル:共におられる方として私たちを常に導いていてくださるからです。
2. 神様の霊に満たされた方 (2、ヨハネ1:32-34)
2 その上に主の霊がとどまる。知恵と分別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れる霊。
救い主をさすメシアという言葉の元の意味は「油そそがれた者」です。イスラエルの王は即位する時、その頭に油そそぎを受けるのです。ともし火の燃料である油は働きの力となる聖霊を象徴しています。
王として世を救うことは、神様の霊に満されていなければ出来ない困難な役割です。ダビデもサウル王の後継者として預言者サムエルに見出され、油そそぎを受けて王となりました。
イザヤはここで、やがて来る救い主が単なる地上の権力を握る王以上の存在であることを預言しているのです。
その方は型式的に油がそそがれるのではなく、油が象徴する霊が、彼の上にはっきりとどまると言ったのです。
もちろんバプテスマのヨハネもこの預言を心に留めていました。だからイエスに水のバプテスマを授けた時に聖霊が注がれるのを見て、イエスが神の御子であることを認めました。
そしてヨハネは証しした。「わたしは、”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネ1:32-34)
この主の霊は「知恵と分別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れる霊(2)」です。この霊に満されてイエスは十字架に至る困難な道のりを歩み通されました。
そして今、聖霊はキリストの体としてこの世界に遣わされている教会、私達一人一人と共におられます。
3. 正しい裁きをなさる方(3-5、ヨハネ5:30、ヨハネ9:39)
3 彼は主を畏れることを喜ぶ。その目の見えるところによって裁かずその耳の聞くところによって判決を下さない。
4 弱い者たちを正義によって裁き 地の苦しむ者たちのために公平な判決を下す。その口の杖によって地を打ち その唇の息によって悪人を殺す。
5 正義はその腰の帯となり真実はその身の帯となる。(イザ 11:1-5)
この世界に不公平はあふれています。当時はもっと酷かったのです。女性や子供の人権はないに等しいものでした。パウロはローマの市民権を持っていましたが、町田に住んでいる人は皆、町田市民というのとはわけが違います。それは庶民には持てない特権だったのです。
ローマの支配下にあったイスラエルでも一握りの人々が富と権力を独占し、そしてそれ以外の人々には十分な人権が認められてはおらず、神様が求める正義は行われてはいませんでした。
わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネ5:30)
イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(ヨハネ9:39)
イエスが正義をもって正しく裁く方として来られて世界は変わり始めたのです。しかし完成までにはまだまだ遠い道のりのように見えます。
なぜ人は正しい裁きをすることが出来ないのでしょうか?それはすべての人に利己心があるからです。個人的、集団的(家族、民族、国家)利己心が正しい裁きを妨げ、そのしわ寄せは社会的弱者に押し寄せます。
けれども正しい裁きをなさるイエスの心を受け継いで、主の正しい裁きを担ってきた人々が、少しずつ神の国を前進させています。さまざまな人権回復運動をイエスに従う人々が担ってきました。
イエスの福音は人々の魂にだけ救いを与えるものではありません。心も体も救う力があるのです。
私たちがどんなにイエス様の素晴らしさを宣べ伝え、人々の魂に心を砕いても、正義に無関心であるならイエス様の弟子とはいえません
今ある不公平に対して、私たちには発言し働く責任があるのです。
B. 期待はずれの救い主(メシア)?
今日はもう1箇所、同じイザヤ書から紹介したいと思います。42:1-4です。
1a 見よ、私が支える僕 私の心が喜びとする、私の選んだ者を。
1b 私は彼に私の霊を授け彼は諸国民に公正をもたらす。
2 彼は叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない。
3 傷ついた葦を折らずくすぶる灯心の火を消さず忠実に公正をもたらす。
4 彼は衰えず、押し潰されずついには、地に公正を確立する。島々は彼の教えを待ち望む。(イザ 42:1-4)
1. 当時の人々にとってイエスは期待はずれのメシアだった (イザヤ 42:1-4)
イザヤ書40章以下は、そこに見られる時代背景から、ちょうど詩編のダビデの名が冠された詩のように、預言者イザヤ自身ではなく、彼の思想を受け継ぐ者によると多くの学者が考えています。しかしこの部分は最初に紹介した11章と共に読んでみると、イエスがどのような方なのか、なぜ当時の人はイエスを受け入れることができなかったのかを明らかにしてくれます。
最近読んできたローマ書でも、神様の選びについて学んできましたが、神様の選びは能力も、功績も一切関係ありません。11章がダビデの家系と言わず、一介の羊飼いであったその父親のエッサイから出ると言ったのも、そのことをよく表しています。
11章も42章も主に選ばれた「僕」の性質がしるされています。42章は「僕の歌」と呼ばれるのですが、それが直接誰を指すのかは明らかではありません。しかし、11章がキリスト預言と認められているのと同様に42章もそう考えて差し支えないと私は思います。しかし42章の人物は、人々の期待するメシア像とはかけ離れた存在です。メシアは王のような存在であるべきで、僕のようであるはずはないと考えられていました。
イエスは、権力者や宗教家ではなく「神様の僕」として地上を歩まれました。そして従う者にもそれを求めるのです。2節、3節を見れば、イエスがなぜ、その社会の周辺的な人々、力のない者、少数者、被差別者を憐れみ、友となられたがよくわかります。そしてそのようなメシアあり方は、当時の、社会一般には受け入れられないことでした。そして彼らはついに預言されていたメシアを十字架につけてしまったのです。
2. 期待はずれのメシアが今も信じられているのはなぜ?
イエスの意志は従う者に受け継がれ、前進している部分もありますが、現代の社会もその本質はイエスの時代と変わっていないように見えます。富んでいる人々は、正義より、自分の持っている株価や給料がさらに上がることの方がはるかに大切で、すでに自分の手にしている権利はできるだけ減らしたくはありません。個人間でも、国家間でも、人種間でも差別や格差は大きくなってゆくようにも見えます。
私たちの生活を便利にする技術、例えば原子力の利用、インターネット、GPSなどは、元々軍事的目的で研究され、生活に応用されるようになったものです。それらは個人の命や自由を奪い取る危険性を併せ持つ技術でもあります。実際20世紀後半は、核兵器を中心とした軍備拡大競争が激しく、いつ地球全体が破壊されてもおかしくないような時代でした。その緊張は少し和らいではいますが、今でも世界総人口の何倍もの人を殺すことのできる核爆弾が存在していることは変わりありません。それでも何とか世界が壊滅を免れているのは、神様の憐れみ以外の何ものでもありません。
世界を平和に導くリーダーシップは人間には期待できないことを私たちは思い知らされてきました。だからイエスに対する信頼は、彼に従って歩もうとする人々によって、絶えることなく受け継がれてきたのです。
3. で、あなたは誰に期待するの?
私たちが今、共に礼拝を捧げているのは、私たちの礼拝を受けてくださっているイエスに希望を置き、期待しているからです。しかし私たちは時々ピント外れにイエスに期待していることがあります。
イエスが宗教家のように価値判断の基準を示し、何が罪で何が罪ではないかを教えられ、自分は合格であると保証されることを期待します。
またイエスに革命家のように権力者から権力を奪い王になってもらい、弟子である自分の地位が保証されることを期待します。
また私たちはイエスを政治家のように、良い政策によって自分に富をもたらしてくれる方として期待します。
そのような誤った期待は決して実現しないので、失望して、イエスと同時代の人々同様にイエスに背を向ける人も出てくるのです。
しかし考え違いをしてはいけません。イエスはあなたの宗教指導者でも革命家でも政治家でもなく、友としてこられたのです。だから期待できるのです。イエスはあなたの思い通りになってはくれません。あなたに儲け話を持ってきたりもしません。あなたの敵を殲滅してもくれません。ただ、あなたの友となるためにこられたのです。
イエスは自分の損得を考えず、誰の顔色も伺わず、あなたに対して最善を尽くしてくださいます。共に笑い、共に泣き、あなたが望まないかぎり、決してあなたのそばを離れない方。イエスはそのような方として2000年前にこの世界に来てくださいました。
(祈り)神様、あなたが誰よりも近くにいて、私たち一人ひとりを理解していてくださることをありがとうございます。
イエスという一人の人として存在してくださったこと、私たちの問題を全部引き受けて命を差し出されたこと、死の力、罪の力に打ち勝って甦えられ、今聖霊として一緒にいてくださることをありがとうございます。
あなたが宗教家でも革命家でも、政治家でもなく、友でいてくださることが私たちの救いです。世の終わりまで、私たちの命の終わりの日まで、私たちの地上での歩みを導いてください。
あなたが友であることに気づいて、あなたを親友として歩む人が一人でも多く起こされますように、私たちの歩みをもっと輝かせてください。
イエス・キリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
クリスマスの一番大切な意味は「インマヌエル」(神様は私たちと共におられる)を知ることです。それは、様々な不安や苦しみの中で孤独を感じる時にこそ、神様が一人ひとりに教えてくれることです。神様はそのために私たちを互いに用いて、それぞれが神様を信頼し、人と共に生きることができるように、力を与えてくださいます。
話し合いのために
- あなたがひとりで悩んだ時、神様はどのように助けてくれましたか?
- どうすれば人に「神様は私たちと共におられる」と伝えることができますか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
誰にも言えない悩み、人に説明できない不安を、子供たちも持ったことがあるんじゃないかと思います。それは大人もみんな同じで、ヨセフもそうでした。神様はそんな時にこそ一緒にいてくださる方ですが、神様は目に見えないので、私たちが不安になるのは当然です。だから、目に見える誰か(家族や先生や友達)を通して、神様が語りかけてくださるのを期待しましょう。きっと、身近で意外な誰かが助けてくれるはずです。