互いに愛し合うとは

Vincent van Gogh, Public domain, via Wikimedia Commons

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互いに愛し合うとは

ルカ 10:25-37

池田真理


 2021年最後の日曜日になってしまいました。コロナが始まってから、時間の流れが本当に早く感じます。まさかこんなにコロナとの戦いが長引くとは思っていませんでした。コロナは、全ての人にとって、人とつながるとはどういうことかを改めて考えるきっかけをくれていると思います。それは、イエス様から「互いに愛し合いなさい」と言われている私たちにとって、とりわけ大切な課題を与えられているとも言えると思います。
 でも、人とつながることも、互いに愛し合うことも、それが具体的に何を意味するのか、何をしていればそれができていると言えるのか、私たちは分かっていないことが多いのではないかと思います。ルカによる福音書10章25節から読んでいきます。

A. 私たちの愛は乏しい (25-29)

25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26 イエスは言われた。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」27 彼は答えた。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。

 人と助け合い愛し合って生きることが大切だということは、誰でも知っています。でも、それを正しく理解して実行できる人は多くありません。私たちは皆、この律法の専門家のように、あまりに狭い範囲でしか愛し合おうとしません。自分の家族、友人、同じ民族や人種、同じ教会の人、同じ宗教の人、そういう狭い範囲で互いに支え合っていれば、それでいいのだと満足してしまいます。そして、その外にいる人たちのことには無関心だったり、自分たちの中に入ってきてほしくないと思ったり、敵意すら持ったりします。でも、中で愛し合っているのだからいいじゃないかと、自分を正当化します。

 私たちは限界のある人間で、全ての人を平等に愛することは不可能です。それでも、私たちが自分たちの愛の乏しさに囚われないで、本当の意味で人を愛し、人とつながっていくヒントを、イエス様は教えてくれました。


B. 本当に人を愛するとは (29-37)

29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎたちはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、瀕死の状態にして逃げ去った。31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36 この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37 律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

1. 良いサマリア人になること

 このたとえ話はユダヤ人に向けて語られたものなので、ここで登場する追い剥ぎに襲われた人というのも当然ユダヤ人だと考えられます。そばを通りかかったのに見て見ぬふりをして立ち去った祭司とレビ人(びと)というのもユダヤ人です。一方で、襲われた人を助けたサマリア人は、ユダヤ人とは敵対関係にあった民族です。歴史的に言えば、元々はユダヤ人もサマリア人も同じイスラエル民族から出ましたが、サマリア人は先住民族との混血を受け入れたことで、ユダヤ人から軽蔑されていました。でも、このたとえ話は、そのサマリア人が瀕死の状態のユダヤ人を助けたという話です。
 イエス様は、このたとえ話を通して、同胞を見捨てたユダヤ人と、敵なのに彼を助けたサマリア人、そのどちらが人を愛することを実践したか、と問いかけています。その意図は、本当に人を愛するということは、相手が誰であろうと関係ないということを教えるためでした。相手が誰であろうと、自分を苦しめてきた敵であろうと、傷ついて倒れていたら、その人がまた立ち上がれるように助けることが、本当の愛です。そこには、自分自身の傷を抱えたままで、敵を許すという葛藤を乗り越え、自分の時間と労力を惜しまない姿勢があります。人をそのように突き動かすのは、相手が誰であろうと、神様に愛されている大切な人で、傷ついて倒れたままにしておいてはいけないという確信です。
 イエス様は私たちにも、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われています。私たちが本当に人を愛し、人とつながっていこうとするなら、この良いサマリア人の行動を見倣わなければなりません。
 ただ、これだけでは非常に道徳的で、真面目に取り組めば取り組むほど、私たちは自分の限界に愕然とするしかないかもしれません。でも、このたとえ話にはもっと広い意味があります。

2. イエス様に傷を癒やされることによって

 まず、このたとえ話には、当時のユダヤ人社会に対するイエス様の批判が表れています。倒れている同胞を助けない祭司とレビ人(びと)というのは、どちらもユダヤ人の中では身分の高い祭司階級に属する人たちです。イエス様は、彼らの偽善を見抜き、彼らによって苦しんでいる多くのユダヤ人がいることに憤られていました。
 私たちは皆、このような状況が現代にも当てはまると、よく知っているんじゃないでしょうか。権力もお金も持っている人たちは、弱者に対して無関心な人が多いように思います。世界の政治も日本の政治も、様々なレベルの社会組織においてもそうです。
 また、階級の差は関係なく、当然助けてくれるはずの同胞が助けてくれないということが、私たちの身の回りには溢れています。学校や職場でのいじめ、家庭内での暴力や虐待など、本来は助け合うための関係が一方的に傷つける関係になってしまっています。また、特定の相手がいないにしても、様々な理由で社会の中で傷つき、疲弊して孤立してしまう人たちが多くいます。その人たちの存在に気が付きながらも、無関心でいるとしたら、私たちは倒れた同胞を見捨てた祭司とレビ人と同じです。
 そして、私たちは皆、程度の差はあっても、他人の無関心や攻撃によって傷つけられた経験を持っています。皆さんの中には、実際にいじめや暴力を経験したことのある方も、生きることに疲れてしまったという方もいると思います。私たちは、他人を傷つけてしまう存在であると同時に、他人から受けた傷によって倒れてしまう、弱くて矛盾した存在です。だから、このたとえ話の中で追い剥ぎに襲われて瀕死の状態にされたユダヤ人は、私たちの姿でもあります。
 では、私たちを救ってくれる旅の途中の良いサマリア人とは誰なのでしょうか?それはイエス様です。イエス様は、神様でありながらこの世界に旅に来られた方です。また、人間が神様を裏切ったという意味で、イエス様にとって人間は敵とも言える存在です。でも、イエス様は傷ついて倒れている私たちを憐れみ、私たちの傷を癒やし、私たちを背負って、ご自分のいる安全な場所まで運んで、休ませてくださる方です。
 私たちは、自分自身がまずイエス様に癒される必要があることを知らなければなりません。そして、イエス様が一方的に注いでくださる憐れみを知る必要があります。それによって初めて私たちも、相手が誰であろうと見返りを求めずにその人を大切にするということの意味を知ることができます。

3. 神様に愛されている確信を持つことによって

 では、なぜイエス様が祭司やレビ人のように私たちを見捨てるのではなく、良いサマリア人になってくださると断言できるのでしょうか?それは、イエス様ご自身が、追い剥ぎに襲われて瀕死の状態にされた人の立場になったことがあるからです。
 イエス様は、人々の病を癒やし、人から嫌われた人たちに寄り添い、弱い人々と共に歩んだ方でした。にもかかわらず、極悪人として当時最も残虐な死刑の方法である十字架刑に処せられました。そして、文字通り、服を剥ぎ取られ、殴られ、鞭を打たれて、十字架に架けられました。イエス様を慕っていた弟子たちは一人残らずイエス様を見捨て、イエス様の教えに喜んで耳を傾けていた群衆は残酷な野次馬になりました。十字架の上で、イエス様の体は傷つき、痛み、心は悲しみと絶望に満ちていました。そして、たとえ話と違い、イエス様には良いサマリア人は現れませんでした。瀕死の状態にされたのではなく、本当に殺されてしまいました。
 教会は、そのような死に方をされた一人の人が、実はこの世界を造られた神様ご自身だったのだと、2000年にわたって語り伝えてきました。神様は、イエス様を通して、私たちの苦しみや悲しみの全てを自ら経験して知っておられ、人間の残酷さと暴力性も知っておられます。その上で、私たちを赦し、愛してくださり、私たちの代わりに、私たちのために、自らの命を捧げてくださった方です。
 だから、イエス様は私たち全ての良いサマリア人です。人を傷つけ、人に傷つけられて倒れた私たちを、ただ憐れに思い、赦して、癒やしてくださる方です。イエス様が私たちを運んでくださる安全な宿とは、私たち一人ひとりの心の中にイエス様が作ってくださる場所のことです。どんな過去を持っていても、どんな厳しい状況の中にあっても、神様は私のことを知っておられ、赦して、愛してくださっているという確信を持てることとも言えます。

4. 傷ついたイエス様に仕えること

 それでは、最初の問いに戻って、人を本当に愛するとは、互いに愛し合うとは、どういうことなのでしょうか?それは、互いの中に、傷ついたイエス様を見ることです。誰かが苦しんでいるなら、イエス様も苦しんでいます。私たちは、その人を助けようとすることで、本当はイエス様に仕えています。私たちの愛は乏しく、私たちにできる傷の手当てはわずかですが、イエス様がその人と共に苦しみ、決して見捨てておられないという確信が、私たちの力になります。傷の癒やしにどれくらい時間がかかるのか、私たちにはわかりません。でも、誰かの傷が癒やされた喜びは、イエス様の喜びです。その時、天には迷い出た1匹の羊が見つかった喜びがあり、私たちもその喜びを共に味わうことが許されています。それは、死んでしまったイエス様が復活された喜びでもあります。イエス様を死から復活させられた神様は、人には救えないと思われるような深く傷ついて倒れた人のことも起き上がらせることができます。私たちは、互いに愛し合う中で、そのような神様の大きな愛と栄光を知る機会を与えられているとも言えます。

 最後に、今年最初のメッセージで聞いたイエス様の言葉を2つ読んで、終わりにしたいと思います。

「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」(ヨハネ13:34-35)

「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4-5)

(お祈り)主イエス様、あなたが私たち一人ひとりと共に、この一年を歩んでくださったことをありがとうございます。私たちは時に不安になり、あなたを見失う時もありました。でも、その度にあなたに代わる者はいないと知りました。私たちがあなたから離れることがあっても、あなたが私たちから離れないでいてくださることを、本当にありがとうございます。どうか、私たちがあなたなしには何もできないことを謙虚に認め、あなたを心から愛し、人に仕えて生きる喜びをもっと知ることができるように助けてください。イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

コロナは、人とつながるとはどういうことかを改めて考えるきっかけとなりました。本当に人を愛し、互いに愛し合うとは、相手が誰であろうと、苦しんでいる人と共に苦しみ、その人が神様に愛されていることを確信できるように、仕えることです


話し合いのために

  1. 良いサマリア人のたとえ話は、あなたにどんなことを教えてくれましたか?
  2. 今年一年を振り返って、神様はあなたに何を教えてくれましたか?

子供たちのために(保護者の皆さんのために)

良いサマリア人のたとえは、「困っている人を見たら助けてあげなければいけない」という道徳的な教えになりがちです。でも、このたとえ話で大切なのは、傷ついて倒れているのは私たち自身でもあり、イエス様は全ての人の良いサマリア人になってくださったという視点を持つことです。また更に、そう言える根拠はイエス様ご自身が傷つけられて殺されてしまったからであるということも大切です。子ども達が道徳的な教えだけでこのたとえ話を受け取らないように、話してあげてください。