人間が過ちを繰り返しても

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人間が過ちを繰り返しても

ローマ 11:25-36

池田真理


 今日はいよいよローマ書11章の最後の部分、ローマ書の難しい部分の最後です。この箇所をどう解釈するか、学者の間でも意見が色々あって、今日私がお話しすることも一つの解釈に過ぎません。でも、ひとつ確かなことは、パウロはユダヤ人の救いを信じていたということです。パウロは、人間がどんなに同じような過ちを繰り返しても、神様の憐れみは決して変わることなく人間に注がれているということを信じていました。
 なぜパウロがそのように確信できたのかを探るために、今日は旧約聖書をたくさん開きます。いつも通り少しずつ読んでいきます。まず25-27節です。

A. 「全イスラエル」が救われる (25-27)

25 きょうだいたち、あなたがたにこの秘義をぜひ知っておいてほしい。それは、あなたがたが自分を賢い者と思わないためです。すなわち、イスラエルの一部がかたくなになったのは、異邦人の満ちる時が来るまでのことであり、26 こうして全イスラエルが救われることになるのです。次のように書いてあるとおりです。「シオンから救う者が来て/ヤコブから不敬虔を遠ざける。27 これが、彼らの罪を取り除くときに/彼らと結ぶ私の契約である。」

 ここでパウロは、「全イスラエル」が救われることの根拠として旧約聖書を引用していますが、これまでも度々そうだったように、元々の言葉をかなり自由に修正してしまっています。イザヤ書59:20-21aを読んでみます。

贖い主がシオンにくる。
ヤコブのうちで/背きの罪から立ち帰る者のもとに来る —主の仰せ。
これが彼らと結ぶ私の契約である —主は言われる。 (イザヤ59:20-21a)

大きな違いは、元々のイザヤ書では罪からの立ち帰りが贖い主が来ることの条件であるのに対し、パウロは罪を取り除いてくださる救い主が来ると言っているところです。
 パウロがそのように言い換えてしまった理由は、イエス様という贖い主がもう来られたからです。イエス様は、私たちが自分の罪に気が付いてもいないうちから、全ての人のために死なれました。それは、私たちが自分の努力で罪を悔い改めるのではなく、イエス様を信頼することによって救われるためでした。
 でも、このイエス様が下さった救いというのは、まだ完全に完成したわけではありません。イエス様がもう一度この世界に戻ってこられて、この世界が終わりを迎える時に、それは完成します。その時、「全イスラエルが救われる」ということが実現します。その「全イスラエル」とは、イエスを信じないままこの世を去った多くの人々のことも含まれると、私は思います。
 この箇所と関係の深いイザヤ書の27章にこうあります。

2 その日には/美しいぶどう畑の歌を歌え。
3 主である私はその番人。絶えずぶどうに水をやり/畑が荒らされないように/夜も昼も守っている。
4 私は憤らない。茨とあざみが私と戦おうとするなら/私は進み出て、それをまとめて焼き払おう。
5 それを望まないなら、私の保護の下に入り/私と和解するがよい。和解を私とするがよい。
6 時が来れば、ヤコブは根を張り/イスラエルは芽を出して花を咲かせ/世界の地の面をその実りで満たす。

神様は昔から、私たちの破滅ではなく救いを望んでおられる方です。私たちにできることは、ただその主を信頼して、終わりの日まで歩み続けることだけです。
 次の28-29節に進みます。


B. 神様の約束は取り消されることがない (28-29)

28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で愛されています。29 神の賜物と招きは取り消されることがないからです。

 パウロは、ユダヤ人の多くが福音を受け入れていないけれども、彼らは先祖たちのゆえに神様に愛されていることに変わりはないと言っています。これは、民族主義または血統主義に逆戻りしているわけではありません。そうではなく、イスラエル民族の父祖であるアブラハムやイサクに神様が与えた約束は、その約束を人々が忘れてしまったとしても、神様の方で取り消すことはないという意味です。その約束とは、アブラハムとその子孫は神様の祝福をこの世界に伝えるために選ばれ、神様は永遠に彼らの神であり続けるという約束です。

 創世記12章に、神様が初めてアブラハムに語りかける場面があります。

1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ/私が示す地に行きなさい。2 私はあなたを大いなる国民とし、祝福し/あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。3 あなたを祝福する人を私は祝福し/あなたを呪う人を私は呪う。地上のすべての氏族は/あなたによって祝福される。」

また、創世記17:7には神様がアブラハムにこう告げています。

私はあなたと、あなたに続く子孫との間に契約を立て、それを代々にわたる永遠の契約とする。私が、あなたとあなたに続く子孫の神となるためである。

人間は、イスラエル民族に限らず、神様に愛されていても、その愛に応えないことがよくあります。でも、人間が神様を忘れてしまっても、神様の方で私たちを見捨てることは決してありません。神様は、時代を超えて永遠に私たちの神でありたいと望まれ、私たちを通してこの世界に祝福をもたらす約束を忘れていません。
 30-32節に進みます。


C. 人間の不従順と神様の憐れみの歴史 (30-32)

30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は、彼らの不従順によって憐れみを受けています。31 それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼らもやがて憐れみを受けるためなのです。32 神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです。

 イエス様によって根底から覆された価値観はたくさんありますが、その一つに、神様の憐れみがユダヤ人だけのものではなく、民族とは関係なく誰にでも注がれていると明らかにされたということがあります。そして、それがユダヤ人の多くがイエス様を拒んだ理由の一つでした。
 人間は、神様の憐れみの大きさを理解できず、他人を神様の憐れみから排除しようとします。そして、排除された人は神様のことを誤解してしまいます。間違っているのはいつも、神様ではなく人間です。
 神様の憐れみは、選ばれるはずがないと思われていた者を選び、排除された人を迎え入れるものです。イスラエル民族だけの神様だと思っていたのは人間の誤解でした。罪人や病人や障害者、女性や子供を排除していたのも人間の間違いでした。性的少数者を排除することも、人間の間違いです。神様の憐れみは、私たちが自分で見えていない他人に対する偏見や差別を明らかにして、壊そうとします。それに従って、自分の価値観が揺さぶられ、新しくされることを、私たちは受け入れていけるでしょうか?それが、人間と神様が重ねてきた歴史で、遅々とした歩みだとしても、2千年前に比べれば確かに神様は私たちを変えてきてくださっています。
 最後の33-36節です。


D. 神様の栄光は人間の悪に左右されない (33-36)

33 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。34 「誰が主の思いを知っていたであろうか。誰が主の助言者であっただろうか。35 誰がまず主に与えて/その報いを受けるであろうか。」36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 

 先週のメッセージで、私たちは自分が神様に似せて造られたということを誤解して、神様ご自身のことを私たちに似たものとして想像してしまいがちだという話がありました。そして、その結果、神様の愛や憐れみを自分の小さな愛や憐れみと同じように考えて、神様に対して絶望してしまったり、神様なんていないと思ってしまうことがあるという話がありました。それと、この箇所は似ています。
 イエス様としてこの世界にきてくださった神様は、私たちのそばにいてくださる近い存在ですが、決して私たちと同じではありません。私たちのように間違えることはなく、弱く小さくはありません。34-35節でパウロが引用しているヨブ記の元々の箇所を読むと、そのことがさらによく分かります。ヨブ記35:5-8です。

5 天を仰いで見よ。あなたよりはるか高くにある雲を眺めよ。
6 たとえ、あなたが罪を犯したとしても/神に対して何ができようか。あなたの背きがいかに多くても/あなたは神に何をなしえようか。
7 たとえ、あなたが正しくても/神に何を与えられるだろうか。神はあなたの手から何を受け取るだろうか。
8 あなたの悪はただあなたのような人間に関わり/あなたの正しさはただ人の子に関わるだけだ。

一見、とても突き放した言い方で、人間は神様とは何の関わりもないと言っているような言葉ですが、そうではありません。人間の悪がどれほど多くても、反対に人間がどれだけ正しいことをしても、神様ご自身は何も変わらず、ただ神様であり続けるということです。ご自分に似せて人間を造られた神様の愛、憐れみ、正しさは、最初から何も変わっていないのです。そして、私たちがただ互いに対して悪を行うのをやめ、正しいことを行うように、望まれています。

 今日の箇所の冒頭に、こうありました。

きょうだいたち、あなたがたにこの秘義をぜひ知っておいてほしい。それは、あなたがたが自分を賢い者と思わないためです。…全イスラエルが救われることになるのです。

神様の憐れみは全ての人に注がれています。それは事実で、人間がそれを否定したとしても、その事実に反するような悪を繰り返しても、変わりません。私たちは、自分の小ささを思い知りながらも、神様によって希望を持ち続けます。神様は、過ちを繰り返す私たちを決して見放さず、今日も、この世界に祝福をもたらそうとしておられます。

(祈り)神様、どうか今私たちの心に、あなたがおられること、確かにそれぞれの人生を導いておられること、この世界に悲しみではなく希望を望んでおられることを、私たちに分かるように示してください。あなたの霊によって、私たちの狭い視野を広げて、あなたを見上げて、あなたの愛と正しさを知ることができるように助けてください。私たちの行くべき道を示してください。私たちのために命を捧げて、愛とは何かを教えてくださった主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

古代から現代に至るまで、人間は神様の正義と憐れみに反する過ちを繰り返してきました。神様の望みは、私たちが神様からいただいた恵みによって互いに祝福をもたらすことなのに、私たちはむしろ互いの悪によって呪いの連鎖を起こしているかのようです。それでも、神様の祝福の約束は世界の始まりの時から決して変わっておらず、神様の憐れみは、過ちを繰り返す私たちの道を終わりの日まで照らし続けます。 

話し合いのために
  1. 26節「全イスラエルが救われる」は実現しなかったのでしょうか?これから実現するのでしょうか?
  2. 人間が同じ過ちを繰り返しても、神様は人間を見捨てていないと言える根拠は何でしょうか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

神様とはどんな方かということを考えさせて、神様の素晴らしさの多様性を気付かせてください。出てパウロは、ユダヤ人の多くがイエス様を信じず、むしろ自分のことも異端者として迫害してくるような状況にありましたが、決してユダヤ人を切り捨てませんでした。そして、「彼らも信仰を持てば救われる」と言うのではなく、「彼らは必ず信仰を持つようになって救われる」と言い続けました。その確信は、神様は決して彼らを見捨てていないし、彼らの父祖にした約束を忘れていないという、神様に対する信頼によります。それは、罪人を赦して愛するイエス様の十字架の愛と、旧約聖書で繰り返し語られてきた神様の憐れみと正義を、パウロがよく理解していたからです。私たちも、戦争の無くならない世界の中で、同じ過ちを繰り返す人間の現実に幻滅しそうになりますが、神様は私たちのことをあきらめないで、私たちを通してご自分の正義と憐れみが実現されることをなお望んでおられることを忘れないようにしましょう。