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愛の実践(前編):教会の中で
ローマの信徒への手紙 12:9-16
池田真理
今日はローマ書12:9-21を読んでいくつもりだったのですが、内容が広いので、前半と後半で2回に分けて読むことにしました。今日は前半の9-16節を読んでいきます。
12:9の最初の文章にこうあります。「愛に偽りがあってはなりません。」愛は本物でなければならない、ということです。それは具体的にどういうことなのかが、今日と次回の箇所の内容です。
今日読んでいく16節までは教会の中でのこと、次回読む17節以降は社会の中でのことに広がっていきます。でも、これは、教会の中と外を差別するという意味ではなく、教会の中というのは「友人や家族に対して」と言い換えられますし、社会の中というのは「他人や敵対する人に対して」と言い換えられます。
それでは全体を読んでいきましょう。
9 愛には偽りがあってはなりません。悪を退け、善に親しみ、10 兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し、11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12 希望をもって喜び、苦難を耐え、たゆまず祈り、13 聖なる者たちに必要なものを分かち、旅人をもてなすよう努めなさい。14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と思ってはなりません。
1. 悪を憎み、善に親しむ (9)
まず9節には、「悪を退け、善に親しみなさい」とあります。「悪を退ける(または憎む)」の「退ける(憎む)」と訳されている言葉は、憎むという言葉の中でも強い言葉で、「激しく憎む」というニュアンスがあります。反対に、「善に親しむ」の「親しむ」と訳されている言葉は、親密な人間関係に使われる言葉で、「一体となる」とも訳せます。通して読むと、「悪を激しく憎み、善と一体となりなさい」となります。つまり、何が悪か、何が善か、よく見極め、正義を実現しなさいということです。
これは前回読んだ12:2につながります。
2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
本物の愛とは、何が神様の意志なのかを求め、自分自身の思いではなく、神様の正義を実現することです。ですから、それは、悪いことをしている人を排除することよりも、私たち自身が神様によって変えられ、神様が憎むことを憎み、喜ばれることを喜べるように、変えられることから始まります。
2. 互いに尊敬し合う (10)
10節は、私たちが教会内の人間関係において、互いに家族として愛し合い、尊敬し合いなさいということが言われています。「互いに相手を尊敬しなさい」と訳されている言葉は、直訳すると、「相手を尊敬することにおいて互いに先を行きなさい」となります。互いに率先して相手を尊敬しなさい、ということです。これは、社会の中で常に互いに競争し、批判し合うことに慣れている私たちにとって、いつも挑戦だと思います。また、家族であっても一人ひとりが違う人間であり、誰も誰の所有物ではなく、年齢は関係なく対等な関係であるということも、実際の家族においても教会の中でも、忘れてはいけないことだと思います。
3. 霊に燃えて主を礼拝する (11)
11節は、「怠らず励み、霊に燃えて」と、熱い言葉が並んでいますが、これは自分で自分の力を奮い立たせなさいという意味ではありません。日本語でも英語でも訳しにくいですが、「霊に燃えて」の「霊」は私たちの霊ではなく、神様の霊、聖霊様のことです。私たちがイエス様を信じることができるのは、聖霊様の働きによります。「怠らず励み」というのも、聖霊様の助けを求めることにおいて、怠けず、熱心で、積極的でありなさいということです。そうでなければ、私たちは神様を見失い、自分中心の考え方に逆戻りしてしまいます。だから、ここでも、「主に仕えなさい」と結ばれています。これは前回読んだ12章冒頭の1節に関係しています。
1 こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。
日々、積極的に聖霊様の助けを求め、生き方の全てで主に仕えることが、私たちの礼拝です。
礼拝は私たちの愛の原動力です。私たちが元々持っている愛は非常に乏しく、脆いものです。でも、神様の愛は尽きることなく、私たちにも私たちの周りの人たちにも、ひとしく、いつも注がれています。私たちは、聖霊様に助けを求めて、そのことを何度も確認し、神様を礼拝することによって、自分の乏しい愛にとらわれずに、神様の愛の働きに加わることができます。
4. 苦難の中で祈り、希望を持ち続ける (12)(ローマ8:24-27)
12節「希望をもって喜び、苦難を耐え、たゆまず祈りなさい」は、おそらく初代の教会で広く知られ、パウロが度々人々に教えた教えです。私たちも、ローマ書8章ですでに教えられました。8:24-26を振り返ってみましょう。
24 …現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。25 まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。26 霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。
信じることと祈ることと希望を保つことは切り離せません。それが分かるのは苦しい時です。私たちは、誰かが苦しむ時、共に祈り、まだ見えない希望を共に信じます。それが、教会の中で互いに愛し合うということの、最も大切な部分です。なぜ神様が苦しみを取り除いてくださらないのか理解できなくても、どんなに神様が沈黙しているように思えても、それでも私たちには分からない神様の良い計画があり、神様は私たちを愛しておられるという事実は動かないのだということを、私たちは互いに証言し合って、希望を確認し合います。教会とは、そのように、共に祈り、共に信じ、共に希望を持ち続ける共同体です。
5. 物質的な必要を満たし合う (13)(マタイ25:35)
13節は、互いの物質的な必要を満たし合いなさいと言っています。これは、愛するということが、口先だけのことでも、個人の感情にとどまることでもなく、具体的な行動を伴うものだということの最も分かりやすい例かもしれません。病気の時や、子育てや介護で大変な時など、具体的な助けが必要になることが誰にでも起こります。そんな時、互いに助けを求め合うことのできる教会でありたいと願います。そのためには、普段からお互いのことをよく知り合い、友人になっておくことが必要です。
ただ、13節の後半の「旅人をもてなす」ということは、たとえ初対面の人であっても、その人が必要としているなら惜しみなく助けを与えなさいという意味です。このことは、マタイ25:35のイエス様の言葉が最もよく教えてくれていると思います。
「あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれた」
人にすることは、イエス様にするのと同じです。だから私たちは、長年知っている友人に対しても、その日初めて教会に来た人であっても、神様にひとしく愛されている存在として大切にしたいと願います。
6. 迫害者を呪わず、祝福する (14)
14節では、迫害者を呪わず、祝福しなさいと言われています。現代の日本において、私たちの信仰が理由で逮捕されたり拷問されたりするようなことはありませんし、社会的に排除されたり差別されたりすることもほとんどありません。でも、たとえそのような状況においても、迫害者たちを恨むのではなく彼らの祝福を願うという態度は、「敵を愛しなさい」というイエス様の教えの実践です。このことは、17節以降でさらに出てくるので、次回ゆっくり考えたいと思います。
7. 喜びも悲しみも共にする (15)
15節「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とあります。これは、嬉しいことも悲しいことも一緒に経験しなさいという意味以上の意味があります。本当に人と愛し合うという時、喜びは悲しみと切り離せません。12節にあったように、私たちは苦しい時にこそ共に祈り、共に祈ることで共に信じ、共に希望を確認して、共に喜ぶ共同体です。私たちが共に喜ぶのは、共に泣いたことがあるからです。私たちは、多くの場合、大切な人が苦しんでいても、その苦しみを取り除いてあげることができません。それでも、自分の無力さを嘆きながら、その人が希望を失いそうな時に代わりに希望を信じ、祈り続けます。そして、たとえ状況が変わらなくても、共に神様を信じて、一緒に喜ぶことができます。
8. それぞれ謙虚に、思いを一つにする (16)
最後の16節は、それぞれ謙虚になって、互いに思いを一つにしなさい、とあります。これは10節の「互いに率先して相手を尊敬しなさい」につながりますが、さらに一歩踏み込んで、「身分の低い人々と交わりなさい」ともあります。この「身分の低い人々」と訳されている言葉は、必ずしも社会的な身分の低さだけを指しているのではなく、弱い人、目立たない人、小さな人など、広い意味があります。また、人に限らず、小さなことに誠実でありなさいという意味にも取れる言葉です。
教会は、「どなたでもどうぞ」と言いながら、実際は同じような境遇の人たちの集まりになりがちです。似た境遇だから助け合えることもあるので、そうなってしまうのは仕方ないですし、悪いことばかりではありません。でも、教会が目指しているのは、誰もが神様に愛されていることを感じられる場所です。だから私たちは、自分たちの居心地の良さをいつでも放棄する挑戦を続けなければいけません。そして、目立つ人よりも目立たない人を見つけ出し、強い人よりも弱い人の声を聞くように注意しなければいけません。その方向性において、私たちの思いは一つでありたいと願います。
今日は実践的な内容だったので、なぜ私たちがこのようなことを実践するのかという、最も大切な部分にあまり触れられませんでした。どうぞこの後音楽を通して神様を礼拝する時間に、皆さんそれぞれが神様の前にひとりで立って、神様の愛の深さを確かめ、人を愛して歩むことができるように力をいただいてください。
(祈り)神様、どうぞ今私たち一人ひとりにあなたの霊を注いで、自分の不安や悲しみに支配されないで、あなたの声をよく聞くことができるように導いてください。そして、身近な人の痛みに気づくことができるように、助けてください。大きな苦しみの前で、自分には何もできないという無力感に負けず、あなたに希望があるということを思い起こせますように。あなたが私たちを出会わせてくださったことを感謝します。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
メッセージのポイント
愛とは、「好き」という感情ではなく、相手のために自分を犠牲にすることをいとわない行動です。しかも、相手は誰であろうと関係なく、たとえ自分を苦しめる人だとしても許して受け入れることです。イエス様はそのことを自ら十字架で死なれるという行動によって教えてくださいました。私たちは、自分にとって大切な人を愛するだけでなく、自分を苦しめる人のことも愛することができているでしょうか?
話し合いのために
- 教会の中で「互いに愛し合う」とは、あなたにとって具体的にどんなことですか?
- あなたにとって「敵」とは?その人を愛するとは?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
17節以降の内容は、イエス様ご自身の「敵を愛しなさい」(マタイ5:38〜、ルカ6:27〜)という教えに基づいています。「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」「父は悪人にも善人にも太陽を上らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」これらの言葉を偽善的にならずに理解することは、大人にも難しいことだと思います。理不尽なことに抵抗し、人間の悪を退けて神様の正義の実現を目指すことと、どうバランスを取ればいいのでしょうか?答えは出ないかもしれませんが、子どもたちと話し合ってみてください。ただ、少なくとも、私たちはイエス様が「敵を愛した」方だと知っています。