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“すべての民”の主
詩編 117
永原アンディ
詩編117は詩編の中で最も短い詩です。しかし使徒パウロが重要な事柄として引用しているように、信仰を持ってこの世界を歩む私たちに大切な示唆を与えてくれます。今日は関連するテキストも紹介しながら、詩人やパウロが直面していた問題が実は私たちの課題でもあって、それをどう受け止めたらいいのかについて考えていきたいと思います。まず一度読んでみましょう。
1 主を賛美せよ、すべての国よ。 主をほめたたえよ、すべての民よ。
2 その慈しみは私たちに力強く 主のまことはとこしえに絶えることがない。ハレルヤ
1. 詩人が期待した世界の姿
1節ですべての人々に主をほめたたえることを勧め、2節で主の慈しみとまこと、すべての人を支える永遠に変わることのない力であることが歌われています。しかし、詩人の時代にはそのことが実現することはありませんでした。ユダヤ教はユダヤ民族の宗教に留まっていました。
しかし神様はイエスとしてご自身を現された時、ご自身はほとんどユダヤ民族の中でだけ活動されたにも関わらず、その教えが民族、国家を超えて、“すべての”民にとっての良い知らせであることが明らかになりました。
結果として、その教えが2000年以上かけて私たちにも届いているのです。ただ届いてはいても、すべての民が創られた似姿に相応しく、尊厳を保ち、平和に生きているとはとても言えない状況です。もちろん、神の国の完成は終わりの日を待つしかないのですが、その実現に向かって前進をやめないことは、イエスの弟子として当然のことで、現状を肯定すること、諦めることは正しくありません。
詩人の歌っている、「主の慈しみと、まこと」を現実としては見ることができないばかりか、むしろ正反対に、世界は経済格差や差別や戦争によって苦しむ人々が多く存在する理由は、「文化」と「国家」についての私たちの態度から来ています。これらの問題は新しい問題ではありません。聖書の書かれる前から存在した問題で、元を正せば私たちの持つ罪の性質からきたものです。
使徒パウロは異邦人のための使徒として、福音をユダヤ文化圏を超えて世界に拡げた最初の功労者ですが、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の深刻な対立を目の当たりにしました。そこには、イエスを信じてもなかなか偏見から解放されない、私たちの、(自身の文化こそ福音的文化で他を認めないという)文化的な偏見が存在します。
2. 使徒パウロが直面していた問題 (ローマの信徒への手紙14,15)
パウロはローマの信徒への手紙14,15章で、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の律法、特に食物規定に関する対立を諌め、対立を克服する根拠として、この部分を引用しています。 ユダヤ人キリスト者にとっては旧約聖書をベースとする律法を規定として守ることに何の疑問もなく、異邦人がイエスを信じるなら、律法を守るのは当然と思っていました。 一方、異邦人キリスト者の言い分は、律法の遵守が愛に基づかない場合には違反を容認されたイエスを信じたのに、律法の規定にとらわれているのは、本当にイエスに従っているのではなく、ユダヤ教に留まっていることになる、というものでした。そこでパウロは、論争になっていることが福音の本質とは関係のない文化の問題であることを示し、互いに相手を受け入れることを勧めました。
いくつかの部分を読みますが、ぜひ14、15章全体を今週読み直してみて下さい。
14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。3 食べる人は、食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてもなりません。神がその人を受け入れてくださったのです。
17 神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人に信頼されます。19 だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。
15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。8 私は言う。キリストは神の真実を現すために、割礼のある者に仕える者となられました。それは、先祖たちと交わした約束を揺るぎないものとするためであり、9 異邦人が神をその憐れみのゆえに崇めるようになるためです。「それゆえ、私は異邦人の間であなたに感謝し御名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。10 また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、11 さらに、「すべての異邦人よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよと言われています。
そしてパウロは次のように結んでいます。
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、あなたがたを希望に満ち溢れさせてくださいますように。
長くキリスト教国としての歴史を持った国の文化は福音と混同されがちですが、福音とは関係ないことも多いのです。また、宣教師として異文化に派遣された者の陥りやすい間違いは、自分の文化を福音と区別できず宣教地で、文化を”宣教”してしまうことです。昭和の時代には「日本人は頭を下げて挨拶するが、あれは互いに偶像礼拝していることになるから握手にしましょう」 などと言い出す宣教師もいたくらいです。
他人事ではありません。日本人のなかには「男女は父母と離れて一体となると書かれているのだから、夫婦別姓を認めることは反聖書的だと主張する人までいます。いえいえ、日本よりずっとキリスト者の多い韓国では、夫婦別性が普通です。人は自分の当たり前を、普遍的な、さらには神様の当たり前と思ってしまいがちです。しかし、それがイエスを悲しませる、差別や無慈悲につながりやすいことを覚えておかなければなりません。
イエスの戒めはシンプルです。「神様を愛し、隣人を愛する」、これは対立する二つのことではなく、コインの裏表のように二つで一つのことなのです。
3. 私たちが考える戦争と平和 (サムエル記上8)
ところが先週、次期参議院選挙のある立候補者のコピーを見て唖然としました。 そこには「牧師として、神を愛し、“国を愛し”、人を愛す」と書かれていました。 なぜ、イエスの言われた最も重要な二つの戒めの間に「国家」をねじ込まなければならないのか? 単にキャッチコピーだから気にしなくてもと言う人も多いかもしれませんが、私は強烈な違和感を覚えました。国は決して単なる民の集合ではないからです。
サムエル記上の8章には聖書の基本的な国家観を見ることができます。 少し抜粋して読んでみましょう。これも、ぜひ8章全体を今週読んで、考えてみていただきたいと思います。
5 彼に言った。「あなたはすでに年を取られ、ご子息たちはあなたが歩んだように歩もうとはしていません。ですから、今、他のすべての国々のように、我々を裁く王を立ててください。」6 裁きを行う王を自分たちに与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目に悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。7 主はサムエルに言われた。「民の言うままに、その声に従いなさい。民が退けているのはあなたではない。むしろ、私が彼らの王となることを退けているのだ。(中略)」 「・・・ こうして、あなたがたは王の奴隷となる。18 その日、あなたがたは自ら選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになろう。しかし、主はその日、あなたがたに答えてはくださらない。」
つまり、神様は国家権力(この時代だから王)を、神様に対立しやすいものであり、人々を抑圧しやすいものであることを警告した上で、必要悪として認められたということです。 イエスは文化の優劣と同様に決して民族の優劣、戦争の正当性を認められません。 これは個人的な意見ですが、日本国憲法が世界で一番イエスの意思を反映した憲法だと思っています。 今、変える必要は全くないし、その根幹である国民主権と戦争放棄を曖昧にするような変更は許されないでしょう。
先に述べた候補者の所属政党は、民族主義的で、憲法をもっと自由に戦争をできる国に変えたいという願いを持つ政党です。 神様のもたらす平和のために示された、切り離せない二つの愛の戒めの間に、必要悪でしかない「国家」を挿入することは、第二次世界大戦の悲劇を再現する道につながります。 かつてドイツの教会は一部を除いてナチスの戦争を後押ししました。 日本の教会も日本の侵略政策に協力しました。 今、ロシアの教会はウクライナで起きている侵略を後押ししています。
ナショナリズムは、すべての民がほめたたえる神様の慈しみ、神様の正義を信頼する道ではなく、特定の民族、人種、国家、独裁者の軍事力を信頼する道です。国にしても文化にしても、それらはイエスがすでに十字架で滅ぼされた隔ての壁であるはずです。それなのに私たちはまだそれらが存在するかのように振る舞っているので、平和がひどく遠いのではないでしょうか?
パウロの別の手紙の一部分を読んで終わります。
キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、数々の規則から成る戒めの律法を無効とされました。こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました。十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです。 (エフェソの信徒への手紙2:14-16)
(祈り)神様、あなたがすべての民の主であることを覚えさせてくださってありがとうございます。 私たちは偏見を持ちやすく、あなたの慈しみやあなたの正しさよりも、人間の力や感覚に頼ってしまいやすい者であることを知っています。 そのことによって多くのあなたの民が苦しみ、悩み、迫害されていることに対して、私たちが正しい考えを持ち、あなたに従う者にふさわしい行動をとることができるように助けて下さい。 すべての民と共に、あなたをほめたたえ、あなたの慈しみを感謝し、あなたの正しさを求める者とさせて下さい。 主イエス・キリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
詩人は、周りの国々から苦しめられる民族の神が、実は全ての民の神であることを知っていました。しかし多くのユダヤ人にとってはそれを実感できる状態ではありませんでした。それが現実になるためにはイエスの登場が必要だったのです。パウロはイエスのすべての人に開かれた福音を知ってそれを異邦人に広めた使徒ですが、イエスに出会う前は生粋のユダヤ人であったので、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の対立する問題を解決するのに適任でした。それは何よりも大切な教えとしてイエスが言われた「神を愛し、人を愛す」という原則に基づく理解です。それはこのパンデミックと戦争の時代に生きる私たちの生き方にも示唆を与えてくれます。
話し合いのために
1. 神様は国家をどのように考えていると思いますか?
2. 今世界にキリスト教以外の多くの宗教があることをどう考えますか?
子供達のために
有史以来、戦争、紛争がなかった時代はありませんでした。神様はすべての人が平和で幸せな歩みができることを願っています。どうしたらすべての人が幸せになることができるか考えてみましょう。