愛の実践(後編):「敵を愛しなさい」

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愛の実践(後編):「敵を愛しなさい」

ローマの信徒への手紙 12:17-21, マタイによる福音書 5:38-48

池田真理


 今日は前回に引き続き、ローマ書12章から、愛を実践することについてお話しします。前回は教会の中で互いに愛し合うということについてでしたが、今日は「敵を愛する」ということについてです。最初にローマ書を読んで、その後でマタイによる福音書のイエス様の言葉から考えていきたいと思います。ではまずローマ書12:17-21です。

A. 旧約聖書の根拠は弱い(ローマ12:17-21)

17 誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 

 「敵を愛しなさい」という教えは、この手紙が書かれた当時も今も、キリスト教信仰を特徴づける大切な教えです。でも、ここでパウロが言っているのは、基本的には「敵に塩を送って、自分では手を下さず、敵に天罰が下るのを待てばいい」ということのようです。それでは、積極的に仕返しをする行動はしないだけで、結局は消極的に復讐を望んでいることになります。それは、イエス様が教えた「敵を愛しなさい」ということの本来の意味ではありません。
 なぜパウロはここで誤解を招くような言い方をしているのかというと、私は旧約聖書の引用に無理があるからだと思います。旧約聖書にはもともと、イエス様が教えた「敵を愛しなさい」という教えはほとんどありません。だからここでパウロは、旧約聖書のいくつかの箇所を自分なりに編集して引用しているのですが、(申命記32:35、詩編94:1、箴言25:21-22、列王記下6:22、歴代誌下28:8など)その結果、誤解を招いているのだと思います。
 「悪に悪をもって報いることなく、できれば全ての人と平和に過ごしなさい」という言葉の根拠は、イエス様ご自身の教えにしかありません。なので、ここからはイエス様の言葉をよく読んでいきたいと思います。マタイによる福音書5章、まず38-42節を読みます。

B. イエス様の教え①「悪人に手向かってはならない」(マタイ5:38-42)

38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と言われている。39 しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。41 あなたを徴用して一ミリオン行けと命じる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

1. 人間の悪を放置していいという意味ではない

 このイエス様の言葉は、今ロシアに侵略されているウクライナの人々にどう響くでしょうか?イエス様は、ウクライナの人々がプーチンに抵抗せず、言いなりになればいいと言っているのでしょうか?私はそうではないと思います。
 人間の社会は、国際情勢という意味でも国内の問題においても、人間の悪と不正義にあふれていて、「悪人に手向かってはならない。右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」というイエス様の教えを実践することは不可能に思えます。そんなことをしていたら、人間の悪を容認し、理不尽に虐げられ苦しむ人々を増やすばかりです。
 イエス様ご自身も、当時のユダヤ人社会の悪と不正義を決して見過ごしませんでした。律法学者やファリサイ派と呼ばれる宗教指導者たちの偽善を批判し、彼らから排除された弱者や罪人に寄り添いました。イエス様が十字架にかけられたのは、まさにそのようなイエス様の行動が権力者たちにとって脅威となったからでした。
 ですから、「悪人に手向かってはならない」というイエス様の言葉は、人間の悪を放置して良いという意味ではありません。私たちは、イエス様に倣って、人間の間違いを間違いとして批判し、弱い立場の人々と共に立つことが必要です。また、自分自身が他人に傷つけられたり利用されたりした時に抗議することは全て人が持つ権利です。人権という考え方自体が、全ての人は神様に愛されている神様の子供であるというキリスト教倫理から培われてきました。
 それでは、ここでイエス様は何を言われているのでしょうか?イエス様の真意を理解するためには、私たちは、イエス様が実践された愛の形で最も大きいものを思い出さなければいけません。

2. 人としての尊厳を自ら手放す

 イエス様は、謂れのない罪を着せられて逮捕されても、殴られても、侮辱されても、抵抗しませんでした。十字架に架けられても、誰のことも恨みも呪いもしませんでした。ご自分を苦しめる者たちに天罰が下ることを望んだわけでもありません。そして、そのまま十字架で死なれました。その三日後に復活されたのは、もちろん人間に復讐するためではなく、人間の罪を赦していることを示すためでした。

 この十字架の出来事を通して、イエス様は、愛というのは、「好き」という感情ではなく、相手のために自分を犠牲にする行動をとることなのだと教えてくれました。それは時に、私たちが当然だと思っている、自分自身の財産や名誉、果ては人としての尊厳を守る権利さえ手放すことです。自尊心を傷つけられ、行動の自由を奪われることさえ受け入れて、相手に対して完全に無防備になることです。

 これは私たちにとってとても難しいことだと思います。自分の尊厳を守る権利を手放して、他人に都合よく利用されたり、思うままに傷つけられたりするなんて、恐ろしいし、怒りを感じて当然のことです。それでも、人間の悪があふれているこの世界の中で神様の愛を実践して伝えていくためには、時に私たちは自分を守ることを放棄して、傷つけられることも受け入れなければいけない時があります。

3. 手放すのであって奪われるのではない

 それがどういう状況で必要なのかは、一律の答えがあるわけではなく、一人ひとりがそれぞれの置かれた状況で判断するしかありません。
 ただ、一つだけ、どんな状況においても忘れてはいけないのは、私たちは誰でも神様にとって大切な価値のある子どもであり、私たちには自分を守る権利があるということです。他人に苦しめられている人の中には、そのことを知らない人や、分からなくなってしまう人がたくさんいます。もし皆さんがそういう状況にあるとしたら、何よりも必要なのは、自分には自分を守る価値と権利があると知ることです。それを奪われたままでいる必要は全くなく、一刻も早く取り返してください。
 その上で、それでも、相手がどんなに間違っていても、私たちには、自らの意志で自分を守る権利を手放して、無防備に傷つけられることを受け入れるという選択肢もあります。それが具体的にどんな状況なのか、この後に続くイエス様の言葉がヒントになっていると思うので、先に進みたいと思います。43-48節です。

C. イエス様の教え②「敵を愛しなさい」(マタイ5:43-48)

43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。44 しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47 あなたがたが自分のきょうだいにだけ挨拶したところで、どれだけ優れたことをしたことになろうか。異邦人でも、同じことをしているではないか。48 だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」 

1. 自分の中にある偏見に気付く

 イエス様の時代のユダヤ人にとって、一般的に「隣人」とは同胞であるユダヤ人のことで、「敵」というのはユダヤ人以外の全ての民族(=異邦人)のことを指していて、ユダヤ人同士で助け合い、異邦人を憎むことは当然のことと思われていました。
 私たちにも、同じ傾向があります。クリスチャン同士で助け合う一方、信仰を持たない友人とは距離を取ろうとしたり、日本人同士では仲良くするけれども、外国人は排除しようとしたり。「仲間」がいれば「仲間外れ」が起こります。でも、その「仲間」の定義は、時代や文化の影響を受けて変化しますし、自分に都合よく変えてしまうことも起こります。
 第二次世界大戦中は、日本は多くの国の人にとって敵でしたし、日本人も多くの国のことを敵だと思っていました。ロシアも、数ヶ月前までは多くの国にとって友好的な隣人でしたが、今では世界中の敵となりました。そのように、私たちの「敵」の定義は、国家レベルでも個人間でも、不安定で流動的で、多くの場合、自分勝手なものです。
 イエス様は、私たちに「敵を愛しなさい」と言われていますが、それは私たちが敵だと思っている人が本当に敵なのか、疑うところから始まるのだと思います。ユダヤ人が異邦人を敵とすることを当然だと思っていたように、私たちも自分の中にある偏見に気が付いていないことがあります。「良いサマリア人」のたとえ話でイエス様が言われたように、私たちが隣人と敵を区別することに意味はありません。イエス様が私たちに求めているのは、全ての人の隣人になることです。誰かの隣人になろうとすることに抵抗を感じるとしたら、そこに私たちの偏見がある可能性があります。

2. 自分を苦しめる人を許す

 ただ、私たちが敵だと感じる人の中には、私たちを苦しめる人たちもいます。その人たちを愛し、その人たちの隣人になることは、簡単ではありません。でも、ここに、前半でお話しした、自分の尊厳を守る権利を手放して無防備になるということが関わってきます。自分を苦しめる人を隣人として愛するということは、その人から受けた痛みが消えないままでも、たとえ相手が自分の過ちに気付いてもいなくても、その人のことを許すと決めることです。それは、自分の一部分が傷ついたままでいることを、自ら選ぶということです。

3. 神様の愛は悪人にも善人にも平等に注がれている

 そのような痛みを伴うことを私たちに求める理由を、イエス様は短い一文で言われています。45節後半「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
 自分が苦しんでいる時に、自分を苦しめる人が幸せそうにしていたり、多くの人が自分の苦しみとは無関係に日常を送っているのは、とても不公平で理不尽に感じます。でも、それがこの世界の現実であり、神様の愛は私たちには不公平に思えるほど無差別です。神様には、悪人も善人もなく、正しい者も正しくない者の区別も、私たちが期待するほどにはありません。なぜなら、神様の前に人は全て罪深く、同時に愛すべき存在だからです。
 私たちが誰かのことを許せないとしたら、それは無意識のうちに自分は正しくて相手が間違っていると思っているからです。確かに相手が間違っていることもありますが、私たち自身も、神様の前ではその人とそう大差なく間違っているものです。それはとても不名誉なことに思えますが、受け止めなければいけない事実です。

 前回から2回にわたって「愛の実践」についてお話ししましたが、最後に私が気付いたのは、愛の実践を妨げる一番の障害は自分自身だということです。イエス様の愛は、自分が傷つくことをいとわない、見返りも求めない愛ですが、私は傷つくことも怖いし、傷つけられたら怒りを感じるし、愛するとしたら見返りがほしいと思ってしまうからです。それでも、イエス様はこんな私のことも愛してくださっていることが救いです。皆さんにも、イエス様の愛の大きさが届いているでしょうか?

(お祈り)神様、私たちの乏しい愛を少しでも大きくしてください。自分の名誉を守ることよりも、あなたの愛を伝えることを優先できるようにさせてください。私たちが自分を苦しめる人のことを許し、その人と自分があなたの前では同じ罪人であるということを分からせてください。他の人の苦しみを共に担うことができる者にしてください。ウクライナでの戦争が一刻も早く終わるように助けてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

愛とは、「好き」という感情ではなく、相手のために自分を犠牲にすることをいとわない行動です。それは時に、相手に非がある場合でも、自分の尊厳を守る権利を自ら手放して侮辱や不名誉を受け入れ、相手に対して無防備になることを意味します。そのようにして初めて、私たちは自分の中にある無意識の偏見や差別に気が付くこともあります。自分を守る権利を放棄することには恐怖や怒りを伴いますが、私たちは神様の前に皆ひとしく罪人であり、同時にひとしく愛されているということを信じるなら、神様の愛が私たちを変えてくれるでしょう。

話し合いのために
  1. イエス様が人間の悪や不正義を見過ごさなかった例をあげてください。
  2. イエス様が自分の尊厳を守る権利を放棄した例をあげてください。
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

子どもたちに「大嫌いな人」「苦手な人」はいるでしょうか?子どもたちに答えるのが難しければ、保護者の皆さんにとってのそういう人を具体的にあげてみてください。(社会的な悪人ではなく、個人的な関係のある人の中で。)なぜ嫌いなのか苦手なのか話し、でも、その上でその人のことも神様は同じように愛しているということを一緒に考えてみてください。そして、その人を愛するということは、具体的にどんな行動を取ることなのか、話し合ってみてください。