ב (ベト):イエスの教えに生きるとは?

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ב (ベト):イエスの教えに生きるとは?

シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 2/22
詩編119:9-16

永原アンディ


詩編最長の詩、詩編119編は8節ごとに区切られた22のまとまりからなっています。 22というのはヘブル語のアルファベットの数で、それぞれのまとまりはアルファベット順に、各文の文頭が全て同じ文字から始まっています。

 今日はシリーズの2回目なので英語ではBにあたるヘブル語のアルファベット ב (ベト, Beth) が各節の文頭に配されています。前回、119編の主題が「律法」だとお話ししました。各節にはたった一節(122節)の例外を除いて、全ての節に「律法 (The Law)」か、それを表す「定め (statutes)」「道 (ways)」「諭し (precepts)」「掟 (decrees)」「戒め (commands)」「裁き (laws)」「あなたの言葉 (your word)」「仰せ (promise)」と訳された言葉が一つ以上含まれています。
 それでは今日の部分、 ב (ベト, Beth) がそれぞれの文頭に置かれている二つ目のまとまり9-16節を見てゆくことにしましょう。

(ベト)
9 どうすれば若者は自分の道を清く保てるでしょうか。
あなたの言葉 どおりにそれを守ることによってです。
10 私は心を尽くしてあなたを尋ね求めます。
あなたの戒め から私が迷い出ることのないようにしてください。
11 心の中に あなたの仰せ を納めています
あなたに罪を犯さないために。
12 主よ、あなたがたたえられますように。
あなたの掟 を教えてください。
13 私の唇であなたの口から出るすべての 裁き を語り伝えます。
14 あらゆる富にも増して あなたの定めの道 を喜びとします。
15 あなたの諭し を思い巡らし あなたの道筋 に目を留めます。
16 私は あなたの掟 を楽しみとし あなたの言葉 を忘れません

a. その言葉を守ること (9)

9 どうすれば若者は自分の道を清く保てるでしょうか。
あなたの言葉 どおりにそれを守ることによってです。

 この部分は、若者、子どもたちに向かって道徳的に正しく生きるために聖書を読んで、それに従いなさい、という意図でよく用いられます。日曜日は教会に行かなければいけません。牧師先生の言うことを聞かなければいけません。といったようにです。

 しかし、それは濫用です。守るのは聖書の言葉ではなく神様の言葉です。もちろん聖書は神様の言葉を伝えています。しかし聖書自体が神様ではありません。人の言葉で書かれた神の言葉、つまり時代や文化の制約の中で表現された神様の言葉なのです。ですから聖書の言葉をそのまま神様の言葉として受け取ることは不可能です。

 そのようにしようとすれば必ず読み手の価値観が入ってしまいます。そうなると神の言葉は正確に伝わりません。イエスに従って聖書の言葉を大切にするということは、聖書を字面通り受け取ることでは決してありません。もっと注意深くなされるべきことであり、多面的なことであり、継続的なことであり、喜びに満ちた楽しいことなのです。そのことが続く部分で丁寧に語られています。

b. イエスを心尽くして訪ね求め見失わないように願うこと (10)

10 私は心を尽くしてあなたを尋ね求めます。
あなたの戒め から私が迷い出ることのないようにしてください。

 9節は神の言葉を守れば清さを保てると結論めいた表現に聞こたかもしれませんが、10節を読むと、神様の戒めを守って歩むことは、誰にとっても難しく、迷い出しやすいので、熱心に尋ね求めなければならないことがわかります。教条的に聖書の記述に従おうとしても、イエスの教えに生きることにはなりません。聖書の言葉に親しむことは大切ですが、そこにとどまらず心を尽くして尋ね求めるということが大切なのです。

c. その言葉を心に収めること (11)

11 心の中に あなたの仰せ を納めています
あなたに罪を犯さないために。

 イスラエルの伝統では、子供の頃から聖書の言葉を暗記することがなされてきました。印刷術のない時代です。聖書は、私たちで言えば教会にあたるシナゴーグとよばれた礼拝所にあるだけでした。心に留めるためには暗記するしかありませんでした。

 キリスト教会でも、聖書の言葉を暗誦することが奨励されてきました。しかし暗記することが目的ではありません。ここで言っていることは、頭に収めることではなく、心に収めることです。心に収めるとは、神様の思いを心に持つということです。物事に直面して、イエスに従う者にふさわしい言動ができるのは、聖書の言葉を暗記しているからではなく、神様の思いを知っているからです。

 神様の思いを知るために必要なことが、聖書を読むことであることは言うまでもありませんが、それだけでなく 2. でお話ししたように、人や他の書物からも聞き、自分勝手な読み方にならないこと、知った内容をさらに思い巡らすことです。

d. 教えられることを願い続けること (12) 

12 主よ、あなたがたたえられますように。
あなたの掟 を教えてください。

主の教えに生きるとは、“教えられ続ける”ことでもあります。聖書はこれ以上引いても、足してもならないと命じられている、いわば閉じられた本です。しかし神様の言葉は聖書の中に閉じ込められてはいません。聖書の内容を知識として理解していればそれでいいというわけではありません。礼拝のお話を通して、ミニチャーチでの話し合いを通して、誰かとの対話を通しても、よくわかっていたつもりのテキストの新しい角度から光が当てられて新しい理解が与えられるということが起こり、イエスのことをもっとよく知る機会となるのです。どうぞみなさんも願い求め続けてください。

e. 教えられたことを語り伝えること (13) 

13 私の唇であなたの口から出るすべての 裁き を語り伝えます。

 前半では自分自身についてのことがあげられてきましたが、ここでは一歩踏み出して人に伝えることもまたイエスの教えに生きることの要素であることがわかります。裁きというと、何か私たちが法律家のように厳密に事柄の正邪を分けて伝えなければならないと言うような印象を受けるかもしれませんが、そのように大げさなことではありません。物事の際してイエスならどうされるか、どう言われるかと思うことを伝えればいいのです。また語り伝えるのは、目の前にある正義、不正義に対して声を上げるということでもあります。神様の思いを知っているなら、それを心の中に潜めておくのではなく表現しましょう。そうしなければ、正義は広がらず、不正義は人を苦しめ続けるからです。

f. その歩みを喜び楽しむこと (14,16) 

14 あらゆる富にも増して あなたの定めの道 を喜びとします。
16 私は あなたの掟 を楽しみとし あなたの言葉 を忘れません

 喜ぶこと、楽しむことが、主に従うこととはあまり結びつかない印象を持ってはいないでしょうか?弟子たちのイエスと共に歩んだ3年ほどは、物質的には恵まれた生活ではなかったでしょう。宗教家たちとの対決の時など極度の緊張を覚える時もあったのでしょう。それでも弟子たちにとっては、主と共にいることの喜びが心に溢れ、貧しい食卓ではあっても、食べ物を分け合い、飲んだり歌ったりしながら、イエスとの時を楽しんで過ごしました。

 みなさんは喜びのうちに主と共に歩む歩みを楽しめていらっしゃるでしょうか?私たちが喜べないのは、楽しめないのは、まず第一にそれが義務や強制と感じるからです。しかし義務や強制ですることはもはや愛とは言えません。そして、もう一つは人の目です。誰にどう見られるか?私たちは長くそのような習慣で生きてきましたから無理もないのですが、気になってしまいます。しかし私たちが本当に気にするべきなのは主の目と耳だけです。

g. 思い巡らし道筋を見定めること (15) 

15 あなたの諭し を思い巡らし あなたの道筋 に目を留めます。

 私は「思いを巡らす」と言う言葉を聞いて、イエスが生まれた時のマリアの様子を連想しました。人間の常識をはるかに超えた出来事の中心に置かれていたマリアに、天使たちのお告げを聞いた羊飼いたちがやってきて、自分たちが体験したことを告げたとき、周りにいた人々はただ不思議に思ったけれど、「マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。」と記されています

天使たちが最初にマリアを訪れて受胎を告知し、赤ちゃんをイエスと名づけなさいと命じられたことから始まり、バプテスマのヨハネの母に会いに行った時、胎内のヨハネが喜び踊ったこと、天使のお告げ通りに、マリアの体内にイエスが宿ったこと、身重の状態でベツレヘムにいかなければならなかったこと、そして天使は、羊飼いたちにもイエスが救い主として誕生したと告げたこと。それらの全てを思い巡らせ、彼女なりに事態を受け止めようとしていたのです。

 神様は何を自分に求めておられるのだろう?と知るためには私たちもマリアのように思いを巡らせる必要があるのです。神様は、聖書を通して、人を通して、学ぶことを通して、体験を通してなど、いろいろな機会を通して語りかけていてくださるからです。

h. その言葉で生きると決意すること (16) 

16 私は あなたの掟 を楽しみとし あなたの言葉 を忘れません

 最後の16節の後半で歌われている言葉は、詩人のイエスの言葉で生きることの決心を言い表しています。イエスは悪魔の誘惑に対して、申命記8章の言葉を引用して『人はパンだけで生きるものではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と答えました。

 イエスのように、イエスに従う者もまた神の言を栄養にして生きてゆきます。最初の部分でもお話ししましたが、聖書そのものが神の言葉ではありません。ヨハネによる福音書が記しているように、イエスご自身が神の言葉なのです。イエスご自身が「語りかける神様」なので、語り合うことができます。そしてそこに礼拝の本質があると思います。

礼拝は日曜日の朝に集まってするだけのものではありません。私たちはいつでも、誰とでも、一人でも礼拝することができます。結局、神様の言葉で生きるとは、日曜日の朝に限らず、イエスと語り合いながら歩むということです。この礼拝と共に、週日の一人での、家族との、友人との礼拝を喜んで、楽しんで今週も歩んでください。

(祈り)

神様、あなたが礼拝の中で私たちに親しく語りかけてくださる方であることをうれしく思います。
 どうぞ、今日のワーシップの中でも、また今週それぞれが献げる礼拝の中でも、私たちの願いに応えて、私たちの心の耳をひらいてあなたの言葉を聞かせてください。
 また私たちが、聖書から、人々との会話の中から、また読書を通して、日々の経験を通して語られる言葉を受け取り、思いを巡らせてあなたに従っていくことができるように導いてください。


メッセージのポイント

律法の心は神様の愛ですが、律法主義は道徳です。道徳は為政者や指導者の道具ですが、律法自体は神様からの招きです。イエスは律法にこびりついた律法主義を引き剥がし、見えにくくなっていた神様の愛をご自身を通して見せてくださいました。イエスに心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし従って行くことこそ神が招いてくださった私たちの道です。

話し合いのために
  1. イエスの言葉を守るとは?
  2. 誰に、教えられたことを語り伝えますか? 
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

ポイントにも触れたように、律法の心は神様の愛ですが、律法主義は道徳であり、為政者や指導者の道具ですが、律法自体は神様からの招きです。私たちは子どもたちに神の言葉を伝えるときに、自分の道徳を投影して教えてしまい傾向があります。優しいイエス様の言葉に、その行いに注目して歩むことを伝えてください。