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生き方の指針(ローマ12・13章のまとめ)
ローマ 13:8-14
池田 真理
今日はローマ書13:8-14を読んでいくのですが、この箇所はローマ書12章と13章のまとめで、私たちはどのように生きるべきなのかという生きる指針がまとめられています。まずは8-10節を読んでいきましょう。
A. 「隣人を自分のように愛しなさい」 (8-10)
- (教会の中で)互いに愛し合う (12:3-16)
- (社会の中で)敵を愛する (12:17-21)
- (社会の中で)神様の愛を実践する権力者を選ぶ (13:1-7)
8 互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
私たちの生きる指針は、ここにもある通り、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約できます。この「隣人」には全ての人が含まれます。全ての人のことを自分の隣人として愛しなさいというのが、イエス様の教えでした。それが具体的にどのようなことを意味するのか、ローマ書12・13章を振り返ってみましょう。
まず一つ目は12:3-16で語られていた、教会の中で互いに愛し合いなさい、ということです。神様は私たちそれぞれに違う賜物を与えてくださっており、それは私たちが互いを補い合うためであり、比較しあって優劣をつけるためではないと教えられていました。
二つ目は12:17-21にあった、敵を愛するという教えです。教会の中でも外でも関係なく、自分を苦しめる人のことを許し、時には自分を守る権利を手放して無防備になる必要がある時もあると教えられていました。それは同時に、自分が敵だとみなしてきた人が本当に敵なのかどうかを考え直し、自分の偏見や傲慢さを崩される経験をすることとも言えます。
三つ目は前回読んだ13:1-7で、神様の愛を実践しているかどうかという視点で権力者を評価し、政治と社会のことに関心を持つことの大切さが教えられていました。重要なのは、人間の権力者に完璧さを求めることはそもそも不可能であることを忘れず、その人がクリスチャンかどうかなどよりも、神様の愛を実践する行動をとっているか、政策を実行しているかを見極める現実的視点です。
このように、「隣人を自分のように愛する」ということは、私たちの限界のある愛と狭い視野を広げていく挑戦です。それは、好きだという感情や表面上だけ優しく接する偽善にとどまらない、私たち自身の行動と考え方を変化させていく実践です。
それでは後半の11-14節を読んでいきましょう。
B. 「主イエス・キリストを着なさい」 (11-14)
11 さらに、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚める時が既に来ています。今や、私たちの救いが、初め信じた時よりも近づいているからです。12 夜は更け、昼が近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けましょう。13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬みを捨て、14 主イエス・キリストを着なさい。欲望を満足させようとして、肉に心を向けてはなりません。
1. 世界の終末が近い?
これを読むと、世界の終末が近いと言われているような印象を受けます。実際、これを書いたパウロやパウロと同時代の人々は、イエス様の再臨と世界の終末はすぐに起こると考えていました。彼らの期待は外れて、それはもう2千年以上経った今でも起こっていないわけですが、それでも、ここでのパウロの言葉は私たちにも直接関係があります。2千年前にイエス様がこの世界に来られたことによって、終わりの時代は確かに始まっているからです。
終わりの時代とは、神様の国がこの世界に実現する時代です。神様の国とは神様の愛が支配するところであり、それはすでにイエス様によってこの世界に実現されつつありますが、完全に実現されるのはイエス様がこの世界に再び戻って来られ、この世界が終末を迎える時です。今はその間の時代です。イエス様が2千年前にこの世界に来られてから今に至るまで、私たちは終わりの時代を生きていると言えます。
私たちは、パウロたちと比べれば、世界の終わりに対する切迫感はないかもしれません。でも、その時は確かに近づいているんだということを確信し、希望を持って今の時代を生きなければいけないという意味では、彼らと全く同じです。目の前の絶望的な状況を悲観するのではなく、目を覚まして、この世界は暗闇ばかりでなく確かにすでにイエス様という光が来たのだということを、日々確認し、歩んでいくことです。
2. 闇の中ではなく光の中を歩もう
- 新しい心と新しい生き方 (12:1-2)
12節には「夜は更け、昼が近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けましょう」とあります。そして、14節では「主イエス・キリストを着なさい」と言われていて、私たちが身につけるべき光の武具とは、イエス様ご自身であることが分かります。では、私たちがイエス様を身につけて闘うべき闘いとは何なのかというと、13節で言われているような不道徳を避けるための闘いとも言えますが、それ以上に、神様の愛を実現するための闘いです。それは、今日前半で確認した、「隣人を自分のように愛する」ということを実践するための闘いです。
私たちは、自分の力だけでは、互いに愛し合うことも、他人を隣人として愛することも、まして敵を愛することもできません。そうしようと挑戦してみても、自分の愛はとても乏しく、他人を愛したい願望よりも自分自身が愛されたいという願望の方が強いことに気が付きます。また、それは自分だけでなく、私たちの周りには、神様に愛されていることを知らない人、分からないで苦しんでいる人、傷ついている人があまりに多くいます。だから、私たちが自分の力に頼っていたら、隣人を愛することは自分の無力さに直面する苦しい作業になってしまいます。
だから私たちには、「主イエス・キリストを着ること」が必要です。それは、弱い自分を隠してイエス様のように振る舞うように強がること、ではありません。そうではなく、私たちの心がイエス様の愛によって満たされ、変えられ、イエス様に似た者になるように内側から変えられていくことです。これは、12章の最初の2節で言われていたことでした。その2節だけ読みます。
1 こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
一人ひとりが自分の生活の中で、神様の愛が自分に注がれ、自分の周りの人にも等しく注がれていることを確認し、神様をほめたたえ、礼拝することが、私たちの原動力です。自分の小ささや過ちに直面して打ちのめされても、そのような自分のことも神様は変わらずに愛してくださっているということを知り、私たちは絶望せずに歩き続けることができます。それが、闇の中ではなく光の中を歩んでいくということで、まだ完成はしていないけれども確かにもうすでに始まっている神様の国を見つめて歩んでいくことです。
人生の中で進むべき方向が分からなくなってしまう時、前に進む力がなくなってしまった時、私たちのするべきことはただ、常にそばにおられるイエス様の存在に気が付くことです。私たちは誰もがそれぞれの人生を自分の足で歩んでいくしかありませんが、イエス様は私たちをひとりにはしておきません。いつもそばにおられ、同時に私たちがそのことを思い出せるように、様々な人を通して語りかけてくださいます。今週も、よく耳を澄まして、目を覚ましていましょう。私たちはもう闇の中にいるのではなく、光を知っているのです。
(お祈り)私たちの主イエス様、どうか私たちの目を覚まさせて、あなたがこの世界に来られたこと、今も生きておられて私たちと共におられることを分からせてください。あなたが共におられる喜びと希望を、私たちの心に湧き上がらせてください。人間関係の痛みや、病気の苦しみ、将来への不安、社会への失望、私たちには多くの困難があります。私たちはあなたを頼ります。私たちの心を変えてください。そして、私たちは弱いままでも、周りの人にあなたの愛と希望を届けることができるように用いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
メッセージのポイント
ローマ書12-13章は私たちに、互いに愛し合うこと、敵を愛すること、神様の愛を実践する権力者を選ぶこと、を教えてきました。これらは全て、「隣人を自分のように愛しなさい」という教えの実践です。イエス様の十字架の愛を信じて生きる生き方は、誰のことも自分のように愛することです。それは、自分や自分の身内だけを大切にすることが当たり前の世の中において、実践するのがとても難しい挑戦ですが、私たちに尽きない希望と喜びを与えることのできる、私たちの一生をかけるに値する新しい生き方です。
話し合いのために
- ローマ書12-13章を振り返って、心に残ったことは?
- 「主イエス・キリストを着る」とは?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
8-10節を一緒に読んでください。自分を愛する、大切にするとは、具体的にどういうことでしょうか?そして、誰かを自分のように愛する、大切にするとはどういうことでしょうか?イエス様が私たちをどういうふうに愛してくださったのかを考えながら、子供たちと話し合ってみてください。