正しさは時に間違っている

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正しさは時に間違っている

ローマ 14:13-23

池田 真理


 今日はローマ14章後半を読んでいきます。前回に引き続き、何を食べるか食べないかについて、教会の中で意見が対立している問題が語られています。前回と内容は同じなのですが、強調点が少し違います。早速読んでいきましょう。まず13−16節です。

1. 正しいことが人を傷つけることがあると知る(13-16)

13 従って、もう互いに裁き合うのはやめましょう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、きょうだいの前に置かないように決心しなさい。14 私は、主イエスによって知り、確信しています。それ自体で汚れたものは何一つありません。汚れていると思う人にとってだけ、それは汚れたものになるのです。15 食べ物のために、きょうだいが心を痛めているなら、あなたはもはや愛に従って歩んではいません。食べ物のことで、きょうだいを滅ぼしてはなりません。キリストはそのきょうだいのために死んでくださったのです。16 ですから、あなたがたにとって善いことが、そしりの種にならないようにしなさい。

 14節を読むと、この手紙の書き手であるパウロは、汚れた食べ物などないと確信していることが分かります。前回もお話しした通り、ユダヤ人には食べ物に関する掟があり、元々ユダヤ人のパウロはかつてはその掟に従っていましたが、イエスを信じ、異邦人が信者の仲間に加わる中で、考えを変えていきました。そして、イエスを信じるならユダヤ人の食べ物の規則はもう守る必要がなく、それにこだわるのは保守的な古い考え方で、弱い信仰だと断言しました。でも、その上で、たとえ彼らの食べ物に関する考え方が保守的で間違っているにしても、食べ物のことは信仰の本質ではなく、重要なことではないのだから、彼らの間違いを正す必要はなく、むしろこちらが気を遣うべきだと教えています。
 ここで私たちが注意しなければいけないのは、問題となっている事柄が、信仰の本質に関わることではなく、文化や伝統、生活習慣に関することだという点です。正義と不正義の話ではありません。信仰の本質に関わる大切な事柄や、神様の正義に関わる事柄であれば、人それぞれの立場があっていいという態度は単なる無責任です。でも、ここで問題になっているのはそのように重要なことではないので、違う意見があってよく、互いの違いを認め合うべきだと言われています。前回も言いましたが、私たちも、キリスト教会の中で保守派とリベラル派の意見が対立する時、議論しなければいけない問題と互いの違いを尊重すべき問題を分けて考える必要があります。
 ただ、そこで難しいのが、何が信仰の核心に触れる重要な事柄で、何が互いの意見の違いを認め合うべき周辺的な事柄なのか、どうやって見極めるのかということです。例えば、前回お話しした、クリスチャンなら日曜日は必ず礼拝に出席するべきだという教えは、信仰の本質的な問題でしょうか、それとも周辺的な問題でしょうか?別の言い方で言えば、その教えは間違っているから正さなければいけないでしょうか、それとも様々な意見があっていいのでしょうか?これは結構答えるのが難しいと思います。「そんな考え方は律法主義的で間違っているのだから、彼らが考えを改めるべきだ」と片付けてしまうのは簡単です。でも、おそらくそれでは、私たちはパウロに叱られることになると思います。
 私たちは、自分の正しさが人を傷つけることがあると知らなければいけません。私は、自分が当然のように問題にしていなかったことが、神学校のあの友人にとってそこまで大切なことだったとは知らず、傷つけてしまいました。彼女が子供の頃から大切にしてきた習慣を、私が思いっきり否定しているなんて、その時は想像もしていなかったのです。それは遅かれ早かれ彼女が考えなければいけない問題だったかもしれませんが、私の言動は配慮を欠いた軽率なものだったと思います。ただ、これは彼女にも同じことが言えます。彼女が他の人にも日曜日は必ず教会に行くように強制し、それができるかできないかで人を裁いていたとしたら、それは間違いです。彼女も、自分の正しさが人を傷つけることがあると知る必要があります。
 それでは続きを読んでいきます。17-21節です。

2. 神様の国ために信念を妥協するのは良いこと (17-21)

17 神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人に信頼されます。19 だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。20 食べ物のために、神の業を無にしてはなりません。すべてのものは清いのです。しかし、つまずきを自覚しながら食べる人にとっては、悪いのです。21 肉も食べず、ぶどう酒を飲まず、何であれ、きょうだいがつまずくことをしないことが良いことなのです。

 ここでパウロは、自分は何を食べても良いと信じていても、そのことで他の人を動揺させるくらいなら、自分が正しいと信じていることを一旦脇において、彼らに合わせて自分の行動を見直すべきだと言っています。それは、ある意味では、自分の信念と実際の行動が合っていない状態で、他人のために自分の信念を妥協しているとも言えますが、パウロはそれでいいと言います。なぜなら、私たちは、自分の信念を貫き通すよりも、神様の国を求めて、自分の満足ではなく神様が喜ばれることを優先するべきだからです。
 17節には、神様の国とは、聖霊様によって与えられる義と平和と喜びだと言われています。私たち一人ひとりが、自分の能力や経験や知恵に頼るのではなく、聖霊様の助けを求めて、何が神様の喜ばれることなのかを求め続ければ、そこに神様の国が現れます。聖霊様は、私たちがイエス様に倣って、自分の名誉を守ることよりも他の人を愛する行動を取ることができるように、導いてくださるはずです。そのようなとき、私たちと他の人たちの間には、神様の正義と愛が両立し、平和と喜びがあります。
 このことは、私たちが信仰に関して他の人と意見が異なる時にどう対処すればよいのかの基準にもなります。どんなに正しい意見でも、そのことで神様の愛から誰かを排除しようとするのは間違っています。私たちは、自分と異なる意見を持つ人たちが自分と同じように神様に愛されていることを忘れていないか、自分自身に問いかけてみるべきです。また同時に、他の人が私たちや他の誰かを神様の愛から排除しようとしているなら、それにはためらいなく抵抗するべきです。
 それでは最後の22-23節を読んでいきましょう。

3. それぞれが神様との一対一の関係を大切にする (22-23)

22 あなたは自分の持っている信仰を、神の前で持ち続けなさい。自ら良いと認めたことについて、自分を責めない人は幸いです。23 疑いながら食べる人は、罪に定められます。信仰に基づいていないからです。信仰に基づいていないことはすべて、罪なのです。

 この言葉は、キリスト教の保守派にもリベラル派にも当てはまる言葉です。保守であろうとリベラルであろうと、私たちは一人ひとりが自分と神様の一対一の関係を何よりも大切にすることが重要です。前回お話ししたように、私たちが与えられた信仰は、私たちのために十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストお一人を自分の主と信じる信仰です。私たちは誰でも、他の誰かにこの信仰について教えてもらって成長しますが、どんな信仰の先輩も信頼する牧師でも、イエス様の代わりにはなりません。私たちはそれぞれひとりでイエス様に向き合い、自分の疑いや迷い、望みを打ち明けて、目に見えないはずのイエス様が本当に共にいてくださっているということを自分で体験する必要があります。その土台がなければ、私たちはいつも他の人の目を気にして、他の人を敵か味方でしか見られません。
 最後のパウロの言葉はとても重いと思います。「信仰に基づいていないことはすべて、罪なのです。」どんなことでも、何が神様に喜ばれることなのか、神様の愛を実現することなのか、ちゃんと自分で考えて判断しなければいけないということです。でも、反対に言えば、ちゃんと自分でよく考えて判断したことなら、他の人に間違っていると言われようと、他の人と違う結論だろうと、それでいいということです。そして、一人ひとりがそのことを自分で知っていれば、私たちは互いを傷つけずに、互いの違いから学び合うことができるはずです。
 最後に、イエス様の言葉を読んで終わりにしたいと思います。マルコ2:15-17です。

15 それから、レビの家で食卓に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。16 ファリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして、彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

私たちは、自分が正しいと思っている限り、大勢の罪人と一緒に食事を楽しむイエス様の愛の大きさを理解することはできないでしょう。私たちもただ、イエス様の憐れみによってその食卓に招かれた罪人の一人に過ぎないのです。

(お祈り)神様、私たちはあなたを主と信じる信仰を共有していても、一人ひとり違う考え方を持ち、違う生き方をしており、世界中には様々に異なる教会が存在しています。どうか私たちが、互いに誰が、またどの教派が、一番すぐれているのか、あなたに喜ばれているのか、裁き合うのではなく、互いの違いから学ぶことができるように助けてください。また、どこにいても、誰といても、あなたとの一対一の関係の中であなたによく聞き、よく考え、判断できるように導いてください。そして、あなたの愛を実現するために必要なら、自分の信念を妥協することができるように、心を変えていくことができるように、あなたの霊を私たちに注いでください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

信仰者の生活のあり方や教会のあり方は様々に異なります。私たちはその違いから学び、同時にそれぞれが神様との一対一の関係の中で、自分はどのようなあり方が正しいと思うのか、よく考え、疑問に思うことをそのままにしておくべきではありません。でも、たとえ自分の結論が正しくて相手が間違っていると思うことでも、その間違いが誰も傷つけることがないなら、正す必要はありません。また、相手を傷つけないために、自分の正しさを貫くことをやめて相手に合わせて妥協することは良いことです。

話し合いのために
  1. 自分の正しさが誰かを傷つけたことはありますか?
  2. 自分の生き方や教会のあり方について、神様が何を喜ばれるのか、どのように知ることができますか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

子どもたちは教育の中で少なからず「良いことと悪いこと」を教えられると思います。「悪いこと」をしている友達がいたら、みんなはどうするでしょうか?「良い子」はすぐに注意するかもしれません。「悪い子」ならその子と一緒になって悪いことをするかもしれません。イエス様ならどうするでしょうか?話し合ってみてください。ヒントは、イエス様は「悪い人」とされた人たちの多くと一緒にごはんを食べて友達になった方だということです。(マルコ2:13-17参照↓)

13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」