この宝、土の器の中に

Image by PublicDomainPictures from Pixabay

❖ 見る

日曜礼拝・英語通訳付


❖ 聞く


❖ 読む

この宝、土の器の中に

2コリント4:7-15

ゲストスピーカー: 本庄侑子(日本キリスト教団 大阪教会牧師)


7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。11 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。12 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。13 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。14 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。15 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

 今日お読みした箇所に、このような言葉がありました。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(7節)

 教会には宝があります。並外れて偉大な神の力という宝です。一方、それをいただいている教会や一人一人は、土の器です。土の器。言ってみれば、陶器です。普段はしっかりしていて、強いかもしれません。でも、ちょっとした衝撃があるとヒビが入り、落としてしまったら粉々に割れてしまいます。イエス様を信じていたとしても、私たちはそんな土の器です。

 しかも、私たちは、ガラス張りのショーケースに守られて生きるのではありません。8節にこうあります。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方にくれても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」どこを向いても八方塞がりに思えることがあります。長く続くこのコロナ禍の中で、何度、そんな思いにかられたでしょうか。コロナ禍がなかったとしても、私たちは、途方にくれるような出来事に出会います。

 しかし、御言葉はそこで終わりません。その続きをこそ、繰り返し語るのです。行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない。私たちは確かに土の器。信仰をいただいていても、傷つくし、悲しいし、うち倒れることもある。でもそうであっても、神の力という、並外れて偉大な宝が納められていて、その宝が、行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない所に、私たちを立たせてくださるのです。

 これは、伝道者パウロが語った言葉です。パウロは少し後の17節でこのようなことも言っています。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」。パウロが人生で負った艱難。それは、決して軽くはありませんでした。パウロは他の箇所で、自分を襲った艱難をリストアップしています。「・・・川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」(コリント2 11:24〜27)

 想像を絶する艱難の連続です。しかし、これらをもってしても「軽い」と言わせてしまう力が、パウロの中に宿っていました。10節「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」パウロに宿っていた教会の宝。それは、イエスの死でした。イエスの死。それだけ聞くと、どこが宝だと訝しく思うかもしれません。ある面から見れば、愛した人たちから裏切られ、踏みつけられ、孤独に殺された出来事です。宝どころか呪いでしょう。

 しかし、イエスの死は、神様が無力だから、泣く泣く追いやられた死ではありませんでした。むしろそれが、神様の力の使い方でした。私たちが、この世で経験する、あらゆる呪い、愛が届かない痛み、不条理を負わされる怒り、悔しさに、神様ご自身が、私たちと同じ、傷つき痛む肉体をとって入っていかれた出来事。私たちをそれらの中で一人にしないため、あなたは一人じゃない、私がいる!そう叫んで抱きしめてくださった出来事。それが、イエスの死でした。そのイエスの死は、死で終わりませんでした。3日目の朝、死を打ち破ってよみがえられました。私たちが抱えるあらゆる呪いの中に入った上でよみがえられ、それらに決定的な出口を、光を、もたらしてくださったのです。パウロの中に宿っていたのは、それらを成し遂げた神の力でした。

イエス様を信じたからといって、苦しみがなくならないことは、パウロも認めています。私たちは、「いつも、イエスの死を体にまとって」生きていくのです。しかしそれは、ただの死ではない。よみがえりの命と分かち難く一つとされた、イエス様の死です。艱難を担う時、確かに、私たちは苦しみ悶え、涙します。しかしそれらを、イエス様が担われたゆえに、すでに決定的な棘は抜かれています。イエス様にあっては、意味のない、虚しい苦しみではなく、イエス様の死と一つになっていく出来事となり、だからこそ、それを負うこの身に、イエス様のよみがえりの命こそが現れてくるのです。

 パウロは言いました。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」「もたらす」は、英語では「produce」。「作り出す」「生み出す」という意味を持ちます。艱難は、イエス様にあって何かを作り出すため、何かを新しく生み出すために働くプロデューサーなのです。何を生み出すプロデューサーか。「わたしたちの一時の軽い艱難とは比べものにならないほど重みのある永遠の栄光」です。今、私を閉じこめてくる、この艱難は、私を痛めつけるために働いているのではない。将来の重い栄光を生み出し、それをあふれるばかりにもたらすために、働いているのです。

 この世界の、私たちの日々の生活の、これさえなければと思いたくなる艱難があります。四方八方から押し寄せ、私たちを閉じ込めてくるような、日々の労苦もあることでしょう。職場での仕事、親の介護、子育て、病、老い。あるいは、もう取り戻すことができない過去があって、未来が永遠に閉ざされているように思えることを背負っているかもしれません。時として、それらの中で、なす術のない自分自身を抱え続け、毎日が空っぽに思えてきて、自分が何をしているのか分からなくなってしまうこともあるかもしれません。

でも、そこから逃げ出そうとしなくていいのです。ヒビが入っても、閉じ込められても、虐げられても、絶対にそこで終わらないからです。罪と死という、私たち人間にとって最大の限界を打ち破ってよみがえられた方が、手を取って歩んでいてくださり、永遠の重い栄光を生み出してくださるための、かけがえのない場所だからです。

 今日の御言葉はしかし、まだ終わりません。12節「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。」生活の中で、イエス様の苦しみと死にあずかる私たちを通して、イエス様の命は私たちを越え出ていき、「あなたがた」という誰かの内に働いているというのです。私たちの信仰生活は、自分自身のためを越え出た、他の人たちのためにこそある。私たちが接する人たちに、イエス様の命が生み出されるためにあるのです。

 私たちに働く神の力は、私たちを変わった生き方へと導きます。世は様々な力を求めます。私が幸せになるための力。私がこの艱難から逃れるための力。私の願いをかなえる力。しかし、神の力を与えられた人は、艱難を引き受け、イエス様の苦しみと死とを通って現れ出る、イエス様の命のわざを求め始めます。この時のパウロにとっての「あなたがた」は、パウロの敵でした。しかしパウロは、敵と関わり続けました。この手紙が残っていること自体、その証拠です。敵との関係を切らずに、長々と手紙を書いて関わり続けたのです。精一杯の愛が届かない、地に落ちていくように思える、むしろ、敵意で返されてしまう、あのイエス様の悲しみ、苦しみ、死を味わい尽くしながらも、パウロが見ていたのは、その先の幻。私の、この体がなす業を通して、この人たちにイエス様の命が現れる。その時を望み見て、愛の労苦を続けました。

 14節「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」パウロが見つめさせられていたのは、終わりの日の幻でした。終わりの日、この人たちもイエス様と共によみがえらされ、私たちは一緒に御前に立つ。そんな幻でした。そもそも、パウロ自身が、かつて誰よりも神に敵対して歩んでいました。そのパウロをも捉えた神様の計り知れない力を、パウロ自身、その体で身にしみて思い知っていたのです。だから、敵対してくる人たちを前にしても具体的な愛の労苦を、惜しむことなく捧げ続けました。

 15節「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」パウロの前に、幻がさらに広がっていました。目の前の艱難ではなく、人の敵対心でもなく、神の力がそれらを飲み込み、イエス様の命の現れが次々と広がって、多くの人たちと一緒に神様に感謝し、神様に栄光を帰する日が来る。そんな幻に支えられて、愛の労苦を続けました。

 パウロに働いた神の力は、私たちにも働いています。私たちは、自分を諦めなくていい。関わる人たちのことも諦めなくていい。たとえ敵であっても、愛の労苦を続けていいのです。「わたしたちは、四方から艱難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」並外れて偉大な神様の力、宝は、あなたの内にも宿っています。

【祈り】

神様。日々の愛の労苦に疲れ果てることがあります。苦しみ、悲しみの中で、あなたへの信頼が消えかけることがあります。愛の関わりを断ちたくなることもあります。神様、助けて下さい。あなたの御力によって終わりの日の幻を見させてください。私たちの体を通して、イエス様の命のわざを現してください。まだ洗礼を受けておられない方を、命の主に結び合わせ、主のよみがえりのわざに与らせて下さい。この世界の空しさの中、愛の労苦に苦闘している方々に、あなたの福音が届きますように。そのために今週も、教会に連なる私たち一人一人を、用いてくださいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


メッセージのポイント

私たちは、イエス様を信じていても、苦しいことがあると傷つく、もろい土の器です。しかし、土の器には、神の力という並外れて偉大な宝が納められています。その宝は、私たちを、行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない所に、必ず立たせてくださいます。イエス様にあっていただく苦しみは、イエス様の苦しみと死と一つです。虚しく終わることはなく、イエス様の復活の光のもとにあり、将来の重い栄光が現れるのを待っています。