地の果てまで行くよりも難しくて大切なこと

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地の果てまで行くよりも難しくて大切なこと

ローマ 15:22-33(参考:使徒20:22-23・21:13、1コリント16:1-4, 2コリント8-9章)
池田真理

 今日は早速、今日の箇所全体を通して読みたいと思います。ローマ15:22-33です。内容ごとに3箇所に区切って日本語と英語で交互に読みます。

22 こういうわけで、私はあなたがたのところに行くことを、何度も妨げられてきました。23 しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、あなたがたのところに行きたいと長年、切望してきたので、24 イスパニアへ行くとき、それをかなえたいと思います。途中であなたがたに会い、まずしばらくの間、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、かの地へ向けて送り出してもらいたいのです。

25 しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。26 マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムにいる聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。27 彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人が彼らの霊のものにあずかったのであれば、肉のもので彼らに仕える義務があります。28 それで、私はこのことをやり遂げて、募金の成果を彼らに確実に手渡したら、あなたがたのところを通ってイスパニアに行くつもりです。29 その時には、キリストの祝福をあふれるほど携えて、あなたがたのところに行くことになると思います。

30 きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストによって、また、霊が与えてくださる愛によって、あなたがたにお願いします。どうか、私のために神に祈り、私と一緒に戦ってください。31 私がユダヤにいる不従順な者たちから救われ、エルサレムに対する私の奉仕が聖なる者たちに喜んで受け入れてもらえますように。32 また、神の御心によって、喜びのうちにあなたがたのところに行き、あなたがたのもとで憩うことができますように。33 平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように、アーメン。

A. パウロの命をかけた旅

 この箇所の内容はパウロの宣教旅行の計画で、一見私たちにはあまり関係ないと思えます。パウロは、当時の人たちにとっては世界の果てと思われていたイスパニア、今のスペインに宣教に行くことを望んでいて、その途中でローマに寄る計画を立てていました。でも、その前に今はエルサレムに行くと言っています。それはエルサレムの教会のために各地で集めた募金を届けるという目的のためでした。
 でも、31節を読むと、パウロ自身、エルサレムに行くことに不安を感じていたことが窺えます。これは使徒言行録ではもっとはっきり言われているので、2箇所読んでみます。

そして今、私は霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。(使徒20:22-23)

泣いたり、私の心を挫いたり、一体これはどういうことですか。私は、主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも覚悟しているのです。(使徒21:13)

パウロは、命の危険が伴うと分かっていた上で、エルサレムに行く決心を固めていたということです。言い換えると、この時のパウロにとって、エルサレムに行くことは、地の果てにまで宣教するという使命を果たすことよりも、自分の命をかけるほどに大切なことだったということです。その理由を探っていくと、このパウロの決意に満ちた行動はイエス様の福音を体現する行動だったことが分かり、私たちにとっても大切なことを教えてくれます。なので、なぜパウロが自分の命をかけてエルサレムに行こうとしていたのか、背景を簡単に整理したいと思います。

B. エルサレム教会のための募金
1. マケドニアとアカイアの人々(=異邦人クリスチャン)による

 26節を読むと、マケドニアとアカイアの人々がエルサレムの貧しい人々を援助するために募金をしたということが分かります。マケドニアはフィリピやテサロニケ、アカイアはコリントの町があった地域です。1コリント16章や2コリント8-9章にこの募金活動のことが書かれてあるので、参考に読んでみてください。重要なのは、これらの教会はパウロの宣教によって立てられた教会で、異邦人が多かったということです。

2. エルサレム教会(=ユダヤ人クリスチャンの精神的支柱)のため

 一方で、「エルサレムの聖なる者たち」というのはエルサレムの教会の人たちという意味で、ユダヤ人が中心の教会でした。また、エルサレム教会は、そこから福音が伝えられた最初の教会として、各地の教会全体の指導的立場にもあり、特にユダヤ人クリスチャンにとっては精神的支柱となっていました。

3. 互いの対立を乗り越えるため

 では、なぜパウロは自分が育てた異邦人教会が集めた募金をエルサレム教会に届けることが、自分の命をかけるほどに重要だと考えたのでしょうか?それは、このローマの人々への手紙を通してもずっと話されてきた、ユダヤ人信者と異邦人信者の間に対立が生まれているという問題を解決するためです。異邦人教会がエルサレム教会を金銭的に援助するということは、異邦人がユダヤ人に敬意を示すということで、反対に、エルサレム教会のユダヤ人が異邦人教会からの援助を受け取るということは、ユダヤ人が異邦人を対等な仲間として受け入れることを意味しました。つまり、異邦人教会とユダヤ人教会の間の相互の尊重と対等な関係の構築のために、エルサレム教会への募金というのは重要な布石だったと言えます。

 でも、ユダヤ人信者と異邦人信者の対立の問題というのは、単に異なる民族間の感情的対立にとどまらず、イエス様の福音そのものの本質に関わることでもありました。だから、パウロは自分の命を危険にさらしてでも、エルサレムに行くことを最優先しました。

 福音の本質とは何か、それが変質してしまうくらいなら自分の命も惜しくないと思ったパウロの思いは、ローマ書全体に散りばめられていました。

C. 福音とは
1. 旧約聖書で伝えられてきた神様の約束の実現

 イエス様の福音、良い知らせとは、まず大前提として、それは旧約聖書で伝えられてきた神様の約束の実現だということです。イエス様は、神様の気まぐれで突然現れたのではなく、旧約聖書の人々を導いてこられた神様が、その人々との約束を果たすために、来られた方です。そして、神様が過去の人たちのことを決して忘れておらず、昔も今も人に関わり、人を正しい道に導くために自らが働き続けておられるのだと示してくださいました。

 そのことを理解できるのは、旧約聖書が伝えてきた神様を知っていたユダヤ人たちでした。世界の始まりの時から変わらない神様、変わらない神様の恵み、神様は約束を果たされる方だということ、その全てを伝えることができるのは、ユダヤ人でイエス様を信じた人たちだったのです。だからパウロは、異邦人信者たちがユダヤ人信者たちとの交流を持って、彼らが伝えてきた旧約聖書の神様とイエス様のことを正しくつなげて理解することを望みました。それは私たちにも言えることです。

2. 神様の選びは神様の憐れみ

 でも、そこでさらに重要なのは、ユダヤ人を選んだ神様は、ユダヤ人を選んだのと同じ理由で異邦人を、そして私たちをも選ばれたということです。神様は、ユダヤ人が他の民より優れていたから選んだのではなく、むしろ弱くて小さい民だったから選んだと言われています。そして、何よりも、旧約聖書から分かるのはユダヤ人の立派さではなく、反逆を繰り返す彼らを決して見捨てなかった神様の憐れみです。神様の選びというのは、人間の側に理由はなく、一方的な神様の憐れみであり恵みなのです。だからパウロは、ユダヤ人がただこの神様の憐れみに感謝して、異邦人にも同じ憐れみが注がれていることを認めることを望みました。これも、私たちにも必要なことです。私たちに注がれている神様の憐れみは、全ての人に注がれているのです。

 神様は罪人を赦し、選び、ご自分を裏切り拒絶する人のことも愛して見捨てない方です。それが旧約聖書の時代から変わらない神様の憐れみで、イエス様の死を通してより一層はっきりと証明された神様の愛です。私たちは、何かが優れているから選ばれたのはなく、ただこの神様の憐れみによって救われたに過ぎません。

3. 行いによらず、ただ信仰のみによる救い

 そして、だから、私たちは決して自分の力で自分を救うことはできず、ただ神様の憐れみを信じる信仰によってのみ救われるというのが、イエス様の福音の核心です。これは、「自分で頑張らなくても神様を頼ればいい」という、単に耳障りのいい優しい呼びかけというよりも、私たちは誰も自分の罪を自分で償うことができないほどに罪深いということを謙虚に受け入れるように求める呼びかけです。

 これは非常に難しいことです。私たちは、神様に嫌われないように、愛してもらえるように、自分で努力しなければいけないと無意識のうちに思っていることがたくさんあるからです。そして、それをお互いの間でも押し付けあって、互いの信仰や生活に優劣をつけます。その結果、異邦人とユダヤ人が互いを差別して対立したのと同じように、互いに自分が正しくて相手が間違っていると思い込みます。でも、そもそも、私たちが神様に愛されるために、選ばれるためにできることは、何もありません。自分の努力によって神様の愛を手に入れられると思うこと自体が間違いです。それなのに、私たちは勝手に神様の愛に条件をつけて、自分のことも他人のことも苦しめてしまいます。

 イエス様の福音は、私たちが選ぶ前に私たちを選んでくださった神様の愛、私たちが自分の罪を知るより前にそれを赦してくださった神様の憐れみです。私たちはその憐れみに頼ればいいのではなく、頼るしかありません。でも、それこそが、私たちが互いの罪の中で不毛な戦いを続けている悪循環から私たちを解放することができる、本当の救いです。

4. 「あなたはあなたのままで愛されている」と互いに言えること

 イエス様の福音は私たちを、「愛されたい」と願う者から、「愛したい」と願う者に造り変えます。私たちは一生かかっても不完全で、乏しい愛しか持てませんが、それでも、神様は私たちを選ばれたという事実があります。だから、私たちの力ではなく神様の力が私たちに働き、「あなたはあなたのままで愛されている」ということを互いに言えるようにしてくださいます。

 このことをいつも覚えているのはとても難しく、地球の裏側まで行って立派な働きをすることの方がずっと簡単かもしれません。全ては、私たちが毎日の小さな歩みの中で神様の憐れみを求めること、助けを求めることにかかっています。

(お祈り)この世界を造られた神様、あなたは私たちをお造りになった時から私たちを愛しておられることを、私たちが信じることができるようにさせてください。自分に何ができるかできないか、何を持っているかいないかではなく、ただあなたが十字架で捧げてくださった命の重みを知ることができますように。私たちは愛に乏しく、すぐに自分勝手な道を歩もうとする罪深い者ですが、あなたは私たちを見捨てず、憐れみを注いでくださいました。どうか私たちが自分の力が頼りにならないことを受け入れ、恐れずにあなたの助けを求めることができるようにさせてください。私たちの主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

パウロは、地の果てにまでイエスの福音を宣べ伝えるという使命を果たすことを願いながら、自分の旧知の人々の間でイエスの福音をめぐって対立が起きていることを放っておけず、故郷に戻りました。当時の人々も私たちも、イエスの福音の最も大切なことを忘れてしまいがちです。それは、神様は私たちに一方的に憐れみを注いで、罪人を選んで愛される方であるということです。私たちが互いの信仰や生き方に優劣をつけることは、それ自体が神様の憐れみを忘れて自分の力に頼ることを意味します。でも、神様の憐れみの大きさを忘れないでいることは、実際とても難しいことです。

話し合いのために
  1. 旧約聖書で伝えられてきた神様の約束とは?
  2. 神様の選びは神様の憐れみであるとは?(ローマ9−11章も参考になります)