イエスとは何者だったのか?

By David Hayward (https://nakedpastor.com/)

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イエスとは何者だったのか?

ヨハネによる福音書1:1-18
池田真理

 今日から新しく、ヨハネによる福音書を読んでいきたいと思います。2年近くにわたってローマ書を読んできて、パウロの話ばかり聞いてきたので、そろそろイエス様の言葉に戻りたいと思ったからです。そして、他の福音書は過去に少しずつお話ししたことがありましたが、ヨハネはなかったので、ヨハネにすることにしました。

 読んだことのある方はご存知の通り、このヨハネによる福音書は他の三つの福音書とは少し異質で、とても哲学的で難解に思えるところも多くあります。でも同時に、とてもシンプルで分かりやすい言葉で福音の本質を説いていて、イエス様のことを他の福音書にはない形で親しみやすく記録している福音書でもあります。

 今日は冒頭の1章1-18節を読んでいきます。早速読んでいきましょう。まず1-5節です。

A. 初めに言があった(1-5)

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。5 光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。

1. 新しい世界の始まり(創世記1:1-5)

 いきなり哲学の講義が始まったかのような雰囲気で、謎かけのようです。でも、おそらくこの福音書が書かれた当時の人々にはピンとくるものだったのだと思います。何にピンときたのかというと、聖書全体の最初の書、創世記の一番最初の章を読むと分かります。創世記1:1-5を読んでみます。

1 初めに神は天と地を創造された。2 地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3 神は言われた。「光あれ。」すると、光があった。4 神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

最初の「初めに」という言葉は、元々のギリシャ語聖書でも創世記とヨハネ福音書で全く同じ単語が使われています。そして、神様が「光あれ」と言われた言葉によって光が生まれ、この世界の全ては神様の言葉によって造られたということも、光と闇のモチーフも創世記とヨハネ福音書で共通しています。

 つまり、ヨハネ福音書は、創世記の世界創造の物語を読み手に思い起こさせて、これからこの福音書で語られていくのは新しい世界の始まりであるということを言おうとしているということです。それが具体的にどんな世界なのかは、まだここでははっきり言われていません。でも、少なくともそれは、5節の「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」ということが実現している世界だと言えます。闇に対する光の勝利が確定している世界です。

2. 言=神=命=光

 それから、この冒頭の5節ではっきり示されているのは、言は神であり、命であり、光であるということです。言は神であるというのは、神様の言葉は必ず実行されるので、神様の言葉は神様がどんな方であるかをそのまま示しているという意味があります。そして、光を生み出し、生き物に命を与えたのも全て神様の言でした。

 でも、まだ謎は残ります。1−2節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった」で言われている「言」は、「神様の発する言葉」という意味以上の意味があると読み取れるからです。それは具体的に何なのかが、このあと少しずつ明らかになっていきます。

 続く6-8節は今日は飛ばして次回読むことにして、次に9-11節を読んでいきましょう。

B. 言は世に来た(9-13)
1. 言を認めなかった世

9 まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11 言は、自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。

 この辺りから、この「言」というのはイエス様を指しているのだと分かってきます。この世界を造られた神様がこの世界に来られたのに、人々はその方を受け入れませんでした。これは、昔も今も、私たちの世界の現実です。神様を神様と認めず、本当の神様が目の前に示されても信じようとしません。なぜなら、多くの人は神様以外のものを神様だと信じているからです。私たちが日常で頼りにしているものや人、身分や財産、それらの多くは限りあるものです。私たちは何を目指して人生を歩んでいるのでしょうか。人生を終える時に何を遺したいのか、遺せるのでしょうか。もし虚しく感じるとしたら、それは神様以外のものを神様にしているからかもしれません。イエス様がこの世界に来られたのは、神様が私たちにこの世界で生きる意味と価値、永遠に変わらないものを教えるためでした。12-13節を読みます。

2. 新しい人生の始まり

12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。13 この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。 

 これは少し誤解を生むと思うのですが、神様を信じなければ神様の子になれないという意味ではありません。私たちは皆、神様を信じていてもいなくても神様に愛されている子どもです。でも、私たちがそのことを自覚的に信じているかどうかは重要です。そして、そのことを私たちにはっきり教えることができるのは、イエス様だけです。

 子どもは大人なしには生きられません。私たちが神様を信じるということは、自分は神様なしには生きられないただの子どもであって、神様を頼ればいいのだと知ることです。それは実際、頼りにならないものを頼りにする古い自分に死に、神様によって新しく生まれ変わっていくことです。私たちを取り巻く状況は時にとても絶望的で、私たちの心はいつも揺れ動きますが、私たちの希望と力の源は、神様の愛は変わらないという事実にあります。だから、イエス様を信じて、神様の愛を信じると決めることは、その度に、新しい人生の始まりです。

 それでは今日の最後の部分、14-18節を読みます。途中の15節は次回読むので省略します。

C. 言は肉となった(14-18)

14 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15 … 16 私たちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18 いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

1. 神のひとり子、イエス・キリスト

 ここで初めてはっきり、この「言」とはイエス・キリストのことであると言われています。「言は肉となって、私たちの間に宿った」というのは、神様が人となって、私たちの間に来られた、と言い換えることができます。それは、この世界を造られた神様ご自身が、人間の肉体を持ってこの世界に現れるという前代未聞のことでした。

 そして、ここでははっきり言われていませんが、神様は人となられただけでなく、人のために死なれ、そして死からよみがえられたという出来事が、イエス様の栄光の頂点です。「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と言われています。イエス様は神様ご自身であると同時に、神様の独り子であり、神様の愛を証明するために神様によってこの世界に送られた方でした。

2. 世界の初めから神と共にあり、神ご自身である方(1-2)

 ここで、今日の最初の2節にあった謎が解けます。1−2節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。」これはつまり、イエス様は世界の初めから神様と共にいた方で、同時に神様ご自身であるということです。

 それではなぜ、この福音書の作者は最初からそのように直接言わないで、わざわざ「言」という抽象的な言葉を使ったのでしょうか?それは、イエスという人物は一体何者だったのかという問いかけが、この福音書全体のテーマだからです。イエスとは何者だったのか、作者は私たちに問いかけています。そして、その答えを、この箇所全体でぼんやりと私たちに示してくれています。イエスは、世界が創造される前からおられた方です。そして、神様ご自身でありながら人となってこの世界に来られ、でも人々に拒絶され、殺された方です。でも、この方こそが、この世界を新しくし、私たち一人ひとりに新しい人生を与えてくださる方です。

 18節には、「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。この福音書が書かれた時から2千年が経過した今でも、神様を実際に見た人は誰もいません。それでも、長い歴史を通して多くの人がイエス様を信じて、神様を信じてきました。そして、人生を変えられてきました。世界も変えられてきたはずです。この福音書を通して、またイエス様がどういう方であるかを知り、闇に光をもたらすイエス様の働きに、私たちも連なっていきましょう。

(お祈り)主イエス様、こうして新しくヨハネによる福音書を読み始めました。どうぞ、この福音書を通して語られているあなたのことを、私たちがもっとよく知り、あなたの素晴らしさをもっとよく知ることができますように。不安が増すこの世界の中で、どうかあなたを信頼し、絶望ではなく希望を増やすことができますように。そのために私たちを用いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

ヨハネによる福音書は、哲学的な謎かけのような出だしから始まります。それは、「イエスとは一体何者だったのか」という問いに答えるためです。その答えは、イエスは世界を創造した神の独り子であり、神ご自身であり、世界の始まりの時からおられた方であるということです。そして、イエスは神でありながら人となってこの世界に来られ、神を忘れた人間に神がどういう方であるかを示されました。イエスによって、この世界は新しく変えられ、私たちも新しく生まれ変わります。闇に光をもたらすイエスの働きは今も続いています。

話し合いのために
  1. イエス様が「言(ことば)」であるとはどういうことですか?
  2. イエス様が私たちに神様を示した(18節)とは、具体的にどのようにしてですか?
子どもたち(保護者)のために

「この世界を造られた神様」と「十字架で死なれたイエス様」はどうつながるのでしょうか?1−5節と創世記1章を読んで、創世記には直接イエス様の名前は出てきませんが、世界の始まりの時からイエス様は神様と共におられたということを話してあげてください。