2016/7/17 恵みがあなた方と共にあるように

永原アンディ (2テモテ 4:6-22)

 

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恵みがあなたがたと共にあるように

A. パウロの確信に満ちた遺言 (6-8, 17, 18)

6 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。

7 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。

8 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

17 しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。

18 主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 

  パウロは不思議な人物です。ペトロと同じくらいイエスの使徒として有名ですが、イエスの地上での歩みを共にした人ではありません。地上での歩みを共にしなかった人なのに「使徒」として認められていました。新約聖書には多くの彼の筆による手紙が収められています。イエスの教えがヨーロッパに伝わったのは、パウロの生涯をかけた働きによるものです。

 パウロはもうすぐ裁判にかけられ、おそらく処刑されるであろうことを覚悟しています。皆さんは処刑によって自分の人生が終わることを想像できますか?そんな死に方をしたいと思う人はいないでしょう。普通ならそこに至る人生を後悔するような死に方です。しかしパウロは「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」(7) と何の後悔もなく、むしろとても満足しています。神様も喜んでくださるということを心から信じています。

 パウロは自分の死についてどう考えていたのでしょうか?

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 (ロマ 14:7, 8 )

 パウロは、イエスに従う者にとって生と死は最も重要な問題ではないと言うのです。たいていの人にとって、生と死ほど大きな問題はないでしょう。「自分が何者なのか?」 という、いわゆるアイデンティティーの問題も大きいのですが、生死の問題はそれよりはるかに大きいのです。しかしここでパウロは、アイデンティティーの問題こそが最も重要な問題だと言っています。どんなアイデンティティーでもいいわけではありません。「・・・のために生きる」と言えるものは多くありますが、・・・のために死んでも悔いはない」というものは多くありません。パウロが勧めるのは「主のために生きる」そして「主のために死ぬ」ことです。これらは二つのことではありません。同じことです。主のために終わりまで歩み続けるということです。主イエスは私にどのように生きて欲しいのかを知り、その生き方を生涯貫くということです。

 パウロがもうすぐ殺されるというのに、それまでの生涯に満足し、死も受け入れているのは、アイデンティティーの問題が解決されているからです。イエスに従って生きる者にとっては、生きていようと肉体を失おうと、イエスのものであることは変わりません。

 なぜイエスのものであれば死を恐れる必要がないのでしょうか?それはイエスご自身が私たちのために生き、私たちのために死んでくださったからです。さらにイエスは三日目に甦り、肉体の死はイエスに連なる者にとっては無力だということを明らかにしてくださったからです。イエスに従って歩む者にとって肉体の死は、すべての終わりではなく、通過点にすぎません。私たちは肉体の寿命という限界を超えて「永遠の命」を与えられているのです。それこそが私たちに約束されている栄冠なのです。

 あなたはどのようにして主のために生きますか?パウロは自分に与えられた役割を「わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになる」こと(17)と理解していました。誰もがパウロのように一つの文化圏を超えて伝える働きを担う必要はありません。多くの人にとっては 「わたしを通して福音が私の周りの人に宣べ伝えられ、それを聞くようになる」ことなのです。イエスを紹介するということです。それは宣伝でもなく、説得でもありません。ましてや、脅しや洗脳でもありません。ただ自分の素晴らしい友達をまだ知らない家族や別の友達に紹介するのと同じことです。残念ながらイエスは人間の友達のように目には見えません。あなた自身がどれほどイエスと親しく、自分の生き方に大きな影響を与えられているかを、見てもらうしかありません。そうでなければどんなに口で説明しても、「でもあなたの隣に誰もいないじゃない」と言われてしまいます。あなたが愛するときに、犠牲を払うときに、イエスは香として伝わります。

 パウロがこのような確信に満ちた遺言を残したのは、彼が特別に優れた聖人だったからではありません。パウロのようにはとても歩めないと思う必要はありません。そのために次の部分を読んでみましょう。

B. パウロは最後まで仲間を必要としていた (9-16, 19-21)

9 ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。

10 デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。

11 ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。

12 わたしはティキコをエフェソに遣わしました。

13 あなたが来るときには、わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください。

14 銅細工人アレクサンドロがわたしをひどく苦しめました。主は、その仕業に応じて彼にお報いになります。

15 あなたも彼には用心しなさい。彼はわたしたちの語ることに激しく反対したからです。

16 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。

19 プリスカとアキラに、そしてオネシフォロの家の人々によろしく伝えてください。

20 エラストはコリントにとどまりました。トロフィモは病気なのでミレトスに残してきました。

21 冬になる前にぜひ来てください。エウブロ、プデンス、リノス、クラウディア、およびすべての兄弟があなたによろしくと言っています

 パウロは、この手紙が後に聖書の中に収められるとは考えていなかったのでしょうか?世界の様々な宗教の教典の中に、このように、お願いや、愚痴や、弱音が書かれている本はありません。それにもかかわらず、聖書を「神の言」として受け入れるということはどういうことなのか?私たちはよく考えなければなりません。

 今日のテキストでも、パウロは立派な遺言のような言葉と、とても人間的な (worldly) 言葉を交互に出てきます。聖書を表面的に読んで批判する人は「なんでこれが神の言と言えるのか?」と言うでしょう。皆さんはどう反論しますか?

 私は、聖書がこのようなものであるからこそ、「神の言」であると信じています。格好のいい、深い言葉だけが並べられていたら、それが本当に神様の言葉だったとしても、自分とは関係のない遠いものだとしか思えなかったでしょう。神様がご自身に似たものとして作られたはずの私たちです。それなのに神様とは遠く離れた性質を持って、問題だらけの社会の中で日々を生きています。信仰を持ったからといっても、決定的に変えられたとは思えない。(それは正直な感想です。) 実は変えられたというのは私たちの性質ではありません。変えられたのは、神様との関係であり、人々との関係なのです。イエスは関係を変えるために、私たちのところに来られました。

 神様はパウロの人間的な言葉を通しても「私の意思を聞きなさい」と言っておられるのだと思います。私たちがここで聞かされる神の言葉とは「私たちは一人では生きられない、死ねない」ということでしょう。イエスの教えが世界中に広まるために大きな働きをした使徒パウロでさえ、実は多くの人々の支えによって、後悔のない生涯を歩めたということです。私たちの神様との関係も、イエスとの出会いによって変えられました。だからそれをまだ知らない人にぜひ伝えたいのです。イエスとの出会いによって変わったのは神様との関係だけではありません。人との関係が変わったのです。もはや私たちには敵となる人間はいません。それを知らずにあなたに戦いを挑んでくる人はいるでしょう。けれどもあなたはその人を敵だとは思っていません。誰もが、本来なら神の家族の一員であることをあなたは知っています。いくらあなたを敵視したり、攻撃する人があっても、神様は守ってくださる。それはパウロの確信でもありました(17,18)。あなたを助け、支えるために神様は、互いに家族であることを知っている多くの人を私たちに与えてくれています。それがこの家族です。互いに、励まし合い、戒め合うだけではなく、弱音を吐き、文句を言い、何かをお願いすることの出来る人々です。それぞれが、世を去る時に後悔せず満足して神様のところに迎えられるために、この仲間が、家族が欠かせない存在であることを忘れないでください。

 

C. 互いに祝福しあうことのできる幸せ  (22)

 この手紙の、そして今日最後の一節を読みましょう。

22 主があなたの霊と共にいてくださるように。恵みがあなたがたと共にあるように。

私たちの日常に入ってこられたイエスの言葉を聖書から受け取り、生きている私たちです。もう二度とイエスの方から関係を絶たれる心配はありません。先にも触れましたが、私たちの性質が決定的に変わったのではないのです。そこに期待するなら、自分に対しても・他人に対しても失望するしかありません。変わったのは神様との関係と人々との関係なのです。だから私たちの期待は、人々ではなく神様に向けられます。与えられた仲間を信頼しているのは、神様を信頼しているからです。私たちの間では、自分の弱さ、互いに対する無理解や誤解によって信頼を壊してしまうことが起こります。そうしたいと思わなくても、裏切られた、失望させられたと思わせてしまう私たちです。絶対的な信頼を置くことができるのは私達の主、神、イエスの他にありません。そこで、このパウロの祝福の言葉が、私達の互いに対する祝福の言葉となるのです。相手が誰であっても「あなたが強くあるように、あなたが私の信頼にいつも答えてくれるように」と言ってもそうはなりません。けれども私たちはこのパウロの祝福の言葉を互いに送り合うことができます。そこには神様とイエス・キリストの霊、聖霊が介入してくださいます。ですから私たちはどんな別れの挨拶をするにしても、この「主があなたの霊と共にいてくださるように。恵みがあなたと共にあるように」という思いを込めてすることにしましょう。このように互いに祝福しあえる家族を与えられていることを神様に感謝しましょう。

メッセージのポイント

パウロはその人生の終わりが近いことを自覚していました。それも殉教の死という終わり方です。それでも彼には悔いはなく、満足しています。パウロは孤高の人ではありませんでした。最後まで仲間の力を頼り、互いに励まし合ってここまで来たので、満足して死を迎えられるのです。パウロが偉大な信仰者だったから、終えようする人生を喜んで受け入れられるのではありません。「主があなたの霊と共にいてくださるように。恵みがあなたがたと共にあるように。」と互いに祝福しあいながら、主と再会できる時を待ち望んで生きる人には誰にでも約束された喜びです。

話し合いのために

1) 義の栄冠とは何でしょう?

2) 再臨を待ち望む生き方とはどのようなものですか?

 

子供たちのために

今日はもう一度パウロの生涯を、思い起こさせてください。

反対者だった時にイエスが現れ、誰よりも喜んでイエスに従うものになったこと。それからは、一生をかけてここに出てくる多くの人々の協力によって、世界中にイエスを知らせる働きをしたこと。自分がイエスと同様に反対者に処刑されようとしていること。それでも、イエスと共に歩み、永遠にイエスと共にいられると確信し、喜んで最後の祝福をしていること。

そして互いに、この22節の言葉をお互いに言ってもらいましょう。また違う言葉で挨拶をする時も、この意味をこめてするように勧めてください。