「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」

Adam Jones from Kelowna, BC, Canada, CC BY-SA 2.0
https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0, via Wikimedia Commons (Trimmed) 

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日曜礼拝・英語通訳付

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「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」

ヨハネによる福音書 1:24-34
池田真理

 今日はヨハネによる福音書1:24-34を読んでいきます。今日の部分は主に洗礼者ヨハネによる証しです。全体を3つに分けて読んでいきたいと思います。まず24-28節です。

1. 私たちは自分で自分を救えない (24-28)

24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアではなく、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、26 ヨハネは答えた。「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。27 その人は私の後から来られる方で、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない。」28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 洗礼者ヨハネが行っていた洗礼(バプテスマ)は、当時のユダヤ人にとって不可解なものでした。水を使って汚れを清めるという習慣自体は世界各地の様々な文化にあることで、日本にも禊(みそぎ)という習慣があります。古代のユダヤ人の間でも、異邦人がユダヤ教に改宗する場合は、男性は割礼を受けると同時に、全ての人が水を使った清めの儀式を受ける習慣がありました。でも、ヨハネの洗礼が不可解だったのは、それがユダヤ人も対象にしていたからです。それは、当時のユダヤ人にとって驚きでした。ユダヤ人は清い民で、汚れているのは神を信じない他の民族だけだと考えられてきたからです。でも、洗礼者ヨハネは、ユダヤ人も異邦人と同じように汚れていて、悔い改めの洗礼が必要だと教えていました。
 さらに、もう一つ、ヨハネの洗礼が不可解だった理由は、ヨハネが自分はメシアではないと公言していたからです。旧約聖書には、やがてメシア(救い主)が現れて、全世界を罪から清めるという預言がありました。だから、ヨハネがそのメシアだと言うなら、彼がユダヤ人にも罪からの悔い改めを求めたのも一応筋は通ります。でも、ヨハネはそれをはっきり否定したので、ではあなたは誰なのか、という疑問になりました。ヨハネは、自分は自分の後に来る特別な方の先ぶれであり、自分は「その方の履き物のひもを解く値打ちもない」と言っています。他人の履き物のひもを解くという行為は、当時の奴隷でさえしないことで、ヨハネは、自分はその方の奴隷にも及ばない存在だと言っているということです。
 では、ヨハネはそんな取るに足らない存在だと自覚しながらも、全ての人に水の洗礼を受けるように呼びかけて、何をしようとしていたのでしょうか?それは、私たちの罪は私たちが想像する以上に深刻だということを、私たちに伝えることです。ユダヤ人であれば清いとか、道徳的に正しいことをしていれば清いとか、そんな簡単なことではないということです。私たちの罪というのは、心の向きの問題です。心が向くべき方向を向いているかどうかです。向くべき方向とは、正しい方向のことですが、何が正しいかを正しく見分けられるのは人間を超えた存在しかいません。神様です。でも、私たちは自分で正しい判断ができると思ったり、他の誰かにその判断を頼ったり、心の向きが定まらず、それが自分にも他人にも破壊的な結果をもたらすことに思いが至りません。そんな私たちの過ちが重なり合ったこの世界の現状は悲惨です。個人の人間関係の問題も、民族間や国家間の争いも、地球規模の環境問題も、全ては私たちの罪がもたらしている結果です。私たちは誰でも、加害者でもあり被害者でもあります。ヨハネは、私たちの罪の深刻さは私たちの手に負えず、私たちは自分で自分を救えないという現実に気がつくようにと、呼びかけていたのでした。
 続きの29−31節に進んでいきましょう。

2. 神様の犠牲 (29-31)

29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30 『私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさっている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。31 私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は、水で洗礼を授けに来た。」

 ここで初めてイエス様が登場し、ヨハネと初対面を果たします。ヨハネはイエス様と会ったことがなかったけれども、イエス様を見て、「この方が世の罪を取り除く神の小羊だ」と証しました。
 「世の罪を取り除く」というのは、先にお話ししたように、ヨハネがこの世界は人の罪で満ちていると認識していたことを表していると思います。「人の罪を取り除く」ではなく「世の罪を」と、この世界全体の罪について言っているからです。
 そして、ここで注目したいのは「神の小羊」という言葉です。「小羊」というのは、新約聖書の時代のユダヤ人にとってはとても身近な存在でした。家畜としてもそうですが、何よりも神様に捧げる犠牲の動物の代表的存在が小羊でした。日々の捧げ物としても、過越祭や贖罪の特別な捧げ物としても、小羊は最も望ましい犠牲動物でした。また、旧約聖書の物語をよく知っている人は、アブラハムのために息子イサクの代わりに神様が用意したのが小羊で、イザヤ53章で苦難の僕がたとえられていたのも「屠り場に連れて行かれる小羊」だったと思い出せたと思います。おそらく、ヨハネはこれらの小羊が持つ様々なイメージや意味を全て含めて、イエス様を「神の小羊」と呼びました。
 イエス様は、神様が用意された犠牲の小羊であり、神様に属する大切な小羊でした。それは、神様が私たちを救うためにご自分の命を捧げることを計画されたということを意味します。救いの計画を計画したのも神様ご自身で、その計画の完成は神様ご自身の命をかけたものだったということです。それが、イエス様の十字架の死の出来事です。イエス様は十字架で、神の小羊として神様によって捧げられ、私たちのために犠牲となってくださいました。
 なぜイエス様の犠牲が「世の罪を取り除く」ことができ、私たちの救いになるのかは、さらに続きを読んでいく必要があります。今日の最後の部分、32-34節を読んでいきましょう。

3. 聖霊様による新しい命 (32-34, ルカ3:21-22)

32 またヨハネは証しして言った。「私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33 私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である。』 34 私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 イエス様は私たちに「聖霊による洗礼」を授ける方だと言われています。この「聖霊による洗礼」というのが、私たちの罪からの解放に関係しています。私たちは自分の力で罪の力から自由になることはできませんが、聖霊様の力によるならできるからです。聖霊様は神様の霊でもあり、イエス様の霊でもあり、イエス様が死なれ、三日後によみがえられた後に起こったペンテコステの不思議な出来事を通して、弟子達の間に来られました。それはペンテコステの一度きりのことではなく、弟子達も、私たちも、いつも聖霊様の助けが必要です。助けを求める私たちを聖霊様は拒むことはありません。そのことを証明したのが、イエス様の十字架の出来事でした。私たちの罪は自分たちではどうしようもないほど深刻ですが、神様は私たちを滅ぼす代わりにご自分の命を捧げて、私たちの身代わりになり、私たちを赦し、罪に支配されない生き方ができるようにしてくださいました。神様は私たちが罪の中で滅ぼし合うのではなく、聖霊様によって新しい生き方を始めることを望まれたということです。
 イエス様を信じることは、聖霊様に助けを求めることとセットです。聖霊様の助けがなければイエス様を信じることはできませんし、イエス様を信頼することがなければ聖霊様に助けを求めることもできません。だから、イエス様は「聖霊による洗礼」を授ける方であり、私たちはイエス様を信じることによって、聖霊様に導かれて、新しい生き方を始めることができます。
 では、聖霊様が導いてくださる新しい生き方とは、具体的にどのような生き方なのでしょうか?それは、イエス様ご自身がヨハネから水の洗礼を受けたときに神様がイエス様に語りかけた言葉に一番よく示されています。ヨハネによる福音書にはその記述がないのですが、マタイ・マルコ・ルカによる福音書には書かれています。今日はルカによる福音書の記述を読んでみます。ルカ3:21-22です。

21 さて、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(ルカ3:21-22)

「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という神様の声がしたとあります。「私の心に敵う者」というのは、「私はあなたを喜ぶ」とも訳せます。この神様の声を確かめながら毎日を生きていくことが、イエス様を信じて、聖霊様に導かれて生きる新しい生き方です。私たちは神様に愛されていて、神様は私たちのことを喜んでおられる、ということを、私たちは日々どれくらい信じて生きられるでしょうか?また、この言葉は全ての人に向けられているということを、特に自分を苦しめる人を前にして、私たちは確信を持てるでしょうか?神様は人の行いの良し悪しではなく、心の向きを見られます。心の葛藤も傷つきも知っておられます。その上で私たちがどの方向を見て人生を歩もうと望んでいるのか、神様は私たちに判断を委ねておられますが、同時に聖霊様を送って私たちを助けてくださいます。自分を大切にし、同時に周りの人も大切にすることを、そのための日々の小さな選択を、聖霊様に助けられて積み重ねていきましょう。

(お祈り)神様、どうか私たちをあなたの霊によって導いてください。聖霊様、どうぞ私たち一人ひとりがそれぞれに今抱えている悩みの中で、あなたに助けを求めて、イエス様を信頼して、神様の愛を確信して歩んでいくことができるように助けてください。私たちを正しい道に、あなたが望まれる方向に、導いてください。また、それが一番私たちにとっても良い道なのだと、私たちが心から信じて喜んで進んでいくことができるように助けてください。イエス様、あなたが私たちのために命を捧げて下さったこと、どうか私たちが選択に迷うときに思い起こすことができますように。私たちの主よ、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

洗礼者ヨハネの証しはこうでした。私たち人間の罪は私たちが自分たちで償いきれないほど重く、私たちは自分で自分を救うことはできないこと。でも、神様はそのことを全て知っておられ、ご自分が犠牲となることで私たちを救おうと計画されたこと。イエス様はその神様の計画を実行するためにこの世界に来られたこと。私たちがイエス様を信じて、聖霊様を頼って生きるなら、神様がイエス様に言われた言葉は自分にも向けられていると分かります。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者。」

話し合いのために

1. イエス様が「神の小羊」であるとは?
2. 「聖霊による洗礼」とは?

子どもたち(保護者)のために

イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面を、マタイ・マルコ・ルカ福音書のどれか、または絵本でもいいので、一緒に読んでみてください。そして、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という神様の言葉を、ぜひ一緒に覚えてください。「私の心に適う者」というのは、「私はあなたを喜ぶ」とも訳せます。これはイエス様に向けられた言葉ですが、私たちが自分は弱いと認めて、神様を頼り、聖霊様の導きに頼って生きようとするなら、この言葉は私たちにも向けられている言葉です。