י (ヨド) 神の国の歴史

Jules & Jenny from Lincoln, UK, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons (Trimmed)

❖ 見る

日曜礼拝・英語通訳付


聞く(メッセージ部分)


❖ 読む

י (ヨド) 神の国の歴史

シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 10/22
詩編119:73-80

永原アンディ


 

 律法への賛歌と呼ばれる詩編119編のシリーズ10回目、10番目の段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット10番目の字、“י((ヨド・Yodh)”が各節の初めに置かれた73-80節を取り上げます。この字は手(ヘブライ語: יד yad)を描いた象形文字に由来すると考えられています。

 今日の部分を2節づつ分けて読んでみると、神様と被造物である私たちとの関係の歴史が浮かび上がってきます。 
 来週の日曜日から詩編のシリーズとヨハネによる福音書のシリーズはお休みして、アドヴェント、神様がイエスとして世に来られたことを記念するクリスマスを待ち望む4回の礼拝シリーズが始まります。その直前にクリスマスの出来事が中心にある神様と私たちの関係史の全体像を理解するための良いテキストを与えられたと思います。 

 私たちにとって神様と自分との関係において重要な4つの事柄があります。 まず最初の73、74節で最初の事柄について考えてみましょう。

1. 神様の創造 (73-74)

73 御手が私を造り、堅く立ててくださいました。
私に悟らせ、あなたの戒め を学ばせてください。
74 あなたを畏れる人たちは私を見て喜びます。
あなたの言葉 を私が待ち望んでいるからです。

 私たちが神様と自分との関係において持つべき最初の事柄は「創造」です。 神様が世界を無から創られたこと。その創造のプロセスの最後にご自身に似せられた者としての人間を創られたこと。自分はその人間の一人であるということを自覚することは大切なことです。
 神様を信じるとは、自分が誰の意思でもなく偶然に発生した者なのではなく神様の被造物であるという自分観を持つということです。 世界を創造した神様が存在しないという考えは、結局世界に混乱しかもたらしません。 自己中心的な考えのぶつけ合いにしかならないからです。 神様の創造を認めるということは、神様の主権を認めることです。 そして、その主権に従うためには、神様の意思を学ぶしかないことを詩人は教えています。

 74節に、詩人を見て喜ぶ人がいることが記されています。それは神様を畏れる人々です。 その理由は、詩人が「神様の言葉を待ち望んで」いるからです。 「創造」を認めることは大切です。しかし、それは出発点でしかないことが、この言葉からわかります。 神様の言葉は、待ち望み、期待して、受け取り続ける物なのです。 それは聖書を通して、人々の言葉を通して受け取ることができます。 教会の存在理由の一つは、神様の言葉を社会に紹介し続けることです。

2. 私たちの背反 (75-76)

 第二の事柄は、最後の被造物として創られた人間の性質によって、創造の直後から起こった神様と私たち人間との間の問題です。75、76節を読みます。 

75 主よ、私は知っています あなたの裁き は正しく
真実のうちに私を苦しめたことを。
76 あなたの僕への仰せ のとおり
どうか、あなたの慈しみが 私の慰めとなりますように。

 詩人の神様に対する絶対的な信頼感は、実は苦しい体験を通して得たものであったようです。 詩人は自分が神様の正しさ、真実に背を向けて歩んでいた時の苦しさを忘れません。
 それは詩人の個人的な感覚であると共に民族の歩んできた道でもありました。  さらにそれは民族に関わらず全ての人の持つ性質からくるものです。 聖書はそれを罪と呼びます。 現代では罪は人間同士の約束を破ること、すなわち法律違反を指して言うことが普通ですが、それは本質ではありません。 罪とは、神に背を向け我が道を歩むことです。法律に触れているかどうかには関係ありません。
 神様の意思は、ここで詩人が言っているように慈しみに満ち、慰めとなるものです。 しかし人類は最初から、自分たちを創って下さった神様の意思に従うことより、自分の欲望に従う性質をもっていたのです。

 創世記のアダムとエヴァの物語はよくご存知でしょう。 二人が神様に食べることを禁止されていたエデンの園の中央にあった木の実を食べることで“神様のように”賢くなれるという蛇の言葉に勝てなかったことがその性質をよく説明しています。
 富むこと、得ることに熱心になりすぎれば、そのために盗むことや奪うことも厭わないことになります。 個人の犯罪行為もその現れですが、国と国の間でも他国の国土や資源を奪うことを正当化する権力者が今でも存在するのがこの社会です。 この世界では、神様のように振る舞う人々が、同じ被造物である多くの人々から生きる権利さえ奪っています。これは、神様に対する反逆でもあるのです。

3. イエス・キリスト (77-78)

 このような状況から私たちを救うために、神様ご自身が驚くべき方法で介入して下さったことが第三の事柄です。 詩人の時代にはまだ起こっていなかったことですから、詩人はそのことを願いとして歌っています。77、78節を読みます。

77 あなたの憐れみが私を訪れ 私を生かしてくださいますように。
あなたの律法 は私の喜びです。
78 傲慢な者らが恥じ入りますように。 彼らは偽りによって私を迷わせました。
しかし、私はあなたの諭し に思いを巡らします。

 私たちが目にしている社会は、最近始まったものではなく、本質的には最初から変わらない人間社会の様子です。 その苦しみから私たちを救うために、神様が自ら一人の人イエスとなって世界に入ってこられた。それがクリスマスの出来事です。 弱い者、小さい者にとってあまりにも過酷な世の中をご覧になって、そのような者たちに、生きる希望を与え、世界を変える力を持たせるために、イエスはそれまでの霊的な指導者とは全く異なるアプローチを取られました。

 イエスはその社会を根本的に変えようとされるという意味では革命家です。 しかし、イエスは当時のイスラエルの人々が望んだようなメシア=革命家ではありませんでした。 エルサレムの大衆がイエスの十字架刑に熱狂的に賛成した一つの理由は、そのことへの失望でもあったのです。
 しかしイエスが革命しようとしてのは、社会ではなく一人一人の心でした。 神様に背を向けて自分勝手に生きてきた一人一人の心を神様に再び結び合わせることがイエスの使命でした。 神様の思いに背を向けて生きているのは、残忍な権力者や犯罪者だけではありません。 前にお話ししたように、誰もが例外なく神様に背を向けて生きてきたのです。 宗教的なことに熱心であったとしても、それが神様と共に歩んでいたことにはならないということはイスラエルがどのように歩んできたかということで明らかです。 イエスは一人一人の魂に語りかけ、癒し、慰め、歩むべき方向を示し、共に歩んでくださるのです。

4. 神の国の未来 (79-80)

 イエスがこの世界に来て下さってから約2000年。この期間は、寿命が100年に満たない人間の感覚からは大変長い時間が経過したようにも思えます。

 ただ、イエスが来て下さって、いったい何が変わったのだろう?と思ってしまうほど人と人との関係も、民族間、国家間の関係も良くなっているようには思えません。どのように考えたら良いのでしょうか?

79 あなたを畏れる人々 あなたの定め を知る人々が
私のもとに立ち帰りますように。
80 あなたの掟 に照らして
私の心に落ち度がありませんように 私が恥を受けないために。

 この、私たちにとっては、とても長い時間の経過のように思える2000年も、人類の歴史の全体を見通すなら、短い時間であるとも言えるでしょう。 神様の世界の創造の初めから人間の誕生まででさえそれよりはるかに長い時間がかかりました。 神様の視点からすれば、イエスによって始まった時代はまだ始まったばかりなのかもしれません。
 今でもこの世界には、イエスに従って歩むことを知らない人が多くいます。 また、イエスに直接教えられた弟子たちが始めた教会も、数百年に一度は大きな変化を経験してきました。 神様と共に歩んでいたのに、いつの間にか神様の道から離れてしまい、しかしそれに気づいた人が教会の方向転換をしてきたのです。 私たちはまだ完成には程遠い存在なのです。

 聖書の教える世界観には最初と最後があります。創造された世界にはいつか終わりの日(終末)が来るのです。 科学も物質としての世界の終わりを想定しています。それを私たちは想像しにくいかもしれませんが、地球という一つの惑星を考えれば、その寿命が来ることを誰も否定しないでしょう。 そのような日がいつ来るのかは誰にも知らされていません。
 しかし、イエスは私たちがその肉体の死にかかわらず、神と共に永遠に生きる者であると言われます。 自分の肉体抜きの存在を想像することは難しいのですが、私たちにとっては命の終わりも、世界の終わりも終われではないというイエスの言葉に信頼しましょう。 そこで私たちがするべきことは、完成を目指して進み続けることだけです。終わりの日がいつ来ようと関係ありません。 最善を生きるために、神様の戒めを注意深く聞きながら、日々を過ごすのです。 そのような私たちの生活を見て、神様に立ち返る人が起こされます。

(祈り)神様、私たちにはあなたの全てを知ることはできませんが、イエスとしてきてくださり、私たちの知るべきことは全て知りたいと願うなら教えていただけることを信じます。
  あなたが私たちを創ってくださいました。あなたが、あなたに背を向けていた私たちを赦し、再びあなたと共に歩めるようにしてくださいました。
 私たちは、あなたに教えられて日々をどう過ごすべきか知らされています。
自分の利己的な思いがあなたを悲しませてしまうことの多い私たちですが、どうか、あなたの掟に従って歩むことのできるものとさせてください。
 イエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

私たちには神様の全てを知ることはできません。しかし、預言者を通して語りかけて下さったこと、イエスとしてご自身を表して下さったことによって、私たちの知るべきことの全ては明らかにされています。イエスは唯一の私たちと神様を結ぶ方という意味でイエス・”キリスト”です。イエスによって、神様の言葉は民族のものからすべての民への普遍的なものとされました。イエスによって私たちの向かうべき方向も指し示されています。

話し合いのために
  1. あなたはイエスに従う者としてどこに向かって進んでいますか?
  2. 神の国とはどのようなものですか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

もうすぐやってくるクリスマスについて、創造、人間の背反と共に説明して話し合ってみてください。イエス様を知っている人は、神様の愛と正義が支配する神の国の完成に向かって、イエス様と共に歩いているということを伝えてください。