どんな武力にも権力にも優る神様の弱さ

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どんな武力にも権力にも優る神様の弱さ

2022 アドヴェント第三日曜日
ルカ 2:1-7
池田真理

 今日は待降節第三週目の日曜日です。

 今日は最初に皆さんに想像していただきたいものがあります。以前もこの例を別の目的でお話ししたことがあるのですが、ドミノ倒しです。それも一列のドミノではなく、面のドミノです。ポイントは、一つを倒せば他の全てがきれいに次々と倒れるようにブロックを並べることです。私たちが指一本を使ってその一つを弾けば全てが倒れるのは快感です。大袈裟ですが、それは私たちが誰でも持っている支配欲につながっているのではないかと思います。私たちの心の中の破壊的で暴力的な部分は、自分の指一本で多くの人が自分に服従することに、快感を感じるのではないでしょうか。

 そして、実際、この世界はどんなに民主主義が確立した国でも、人が集まるところには常に権力争いがあります。政治ではもちろん、会社でも、学校でも、家族の中でも、教会の中でも、人と人の間には競争と上下関係が生じます。一旦権力構造が出来上がると、簡単には崩れません。それが悲劇を起こすことは、ウクライナでの戦争で改めて証明されてしまいました。一人の人の過ちが世代すら超えて多くの人に苦しみをもたらすことは、残念ながら私たちの周りによくあることで、ドミノ倒しがあらゆるところで起こっていると言えると思います。

 さて、なぜ私がドミノ倒しの例を推しているかというと、私たちのやり方と神様のやり方を比較するのに分かりやすいと思ったからです。私たちは、人が指一本で多くのブロックを倒すのと同じやり方で、まるでそれを逆再生するように、神様が人の過ちを一気に整然と直して、私たちを救ってほしいと願ってしまいがちです。でも、神様のやり方は、私たちが倒してしまったドミノのブロックを一つ一つ助け起こすやり方です。それも、隣同士のブロックが互いに助け起こせるように、ブロックに命を吹き込みながらです。そして、隣のブロックが重くもたれかかったままでも、倒れることがないようにします。それは非常に時間がかかり、地道な作業です。なぜそんな周りくどいやり方をするのかと私たちは思ってしまいますが、それが神様が私たちに愛を教え、この世界を良いものに変えていくための唯一の方法なのだと思います。

 前置きが長くなりました。今日はルカによる福音書2:1-7のクリスマスのテキストを読んでいきます。この箇所は、他のクリスマスのテキストと違って、「恐れた」とか「驚いた」とか「喜んだ」などの感情表現が一切なく、非常に淡々と事実だけを記述するスタイルがとられています。でも、この短い淡々とした記述の中に、ドミノ倒しを楽しむ人間の姿と、人間が倒してしまったブロックを一つ一つ起き上がらせていこうとする神様の姿が表されています。全体を読みましょう。

1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録であった。3 人々は皆、登録するために、それぞれ自分の町へ旅立った。4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血筋であったので、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身重になっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6 ところが、彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、7 初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。

A. 「皇帝」のやり方と神様のやり方は正反対
1.「皇帝」は武力と権力で人を強制的に従わせる

 「皇帝アウグストゥス」というのは古代ローマ帝国の皇帝です。ローマ帝国は武力で地中海沿岸の小国を属国にし、それらの国々から税を徴収して支配力を強めていました。ここに出てくる住民登録というのも、徴税目的のものだったと考えられています。皇帝の命令は絶対で、ヨセフとマリアはマリアが臨月であるにもかかわらず、住民登録のために長旅をしなければなりませんでした。
 権力者というのは、昔も今も、自分の個人的利益のために、武力と権力で人を強制的に従わせるものです。というよりも、人の上に立つということは、本来は人を正しく導く責任を持つことであるということを忘れて、人を自分の思い通りに動かして良い権利を得ると誤解する、またはその誘惑に負ける人が圧倒的に多いということかもしれません。社会を動かしていくためにはルールや統制が必要で、上位下達の構造がある程度必要なのは事実です。でも、自分の指一本で多くの人が服従し、景色が変わる快感は、人間にとって抗い難い誘惑で、そのような地位を手に入れたい、また一度手に入れたら手放したくないという欲求は、非常に強いのだと思います。だから、そのために他人と絶えず争い、奪い合います。

2. 神様は無力で無防備になって人の心を動かす

 それでは、この聖書のテキストで、神様はどこで何をしておられるでしょうか?何と、生まれたばかりの赤ちゃんとして、家畜小屋の飼い葉桶の中ですやすや眠っているのでした。両親に守られなければ生きられない、自分では何もできない、無力で無防備な赤ちゃんです。それが、この世界を造られた創造主であり全知全能である神様が、人となられてこの世界に来られた姿でした。赤ちゃんはみんなそうですが、神様ご自身がそんな頼りない無力な人間の赤ちゃんになってしまって、一体私たちのために何ができるというのでしょうか?
 この疑問は、イエス様がやがて迎える十字架での死にもつながります。神様が無抵抗の罪人として死刑にされて死んでしまったら、一体私たちは何を神様に期待できるのでしょうか?イエス様は生まれた時も死ぬ時も、無力で無防備で無抵抗で、周りの人間にされるがまま、自分では何もできなかったのです。
 でも、それこそが神様の意図したことでした。神様は、私たちのために一切の力を捨てたのです。本当の愛というのは、他人のために、自分の利益も都合も捨てて、自分が傷ついても力を尽くすことです。何の見返りもなく、むしろ自分には犠牲を強いられることであっても、それを犠牲と感じずに喜んでできることが、本当の愛です。神様は私たちにその愛を教えるために、神様という身分も捨て、神様でいることにもこだわらず、私たちの前で徹底的に弱くなりました。
 神様は誰にも何も強制しません。ただ、ご自分の方では自分の力も命さえも全て捧げて、私たちを愛していると示してくださいました。ドミノ倒しを楽しむのが当然のように思われているこの世界で、それは間違っていると教え、倒れてしまったブロックを起こしていくためには、このやり方しかありません。倒れたブロック一つひとつ、つまり私たち一人ひとりが、この世界の間違いに気が付き、神様がこの世界に望んでいる本当の愛とは何かを知り、信じて、立ち上がっていくことです。
 実は、この神様の計画を実現するために、神様が私たちに委ねた役割は、私たちが思っている以上に大きいものだと思います。

B. 神様は人に多くを委ねられた
1. イエス様はマリアとヨセフに守られなければならなかった

 今日の聖書のテキストにもあったように、神様はイエス様として、ヨセフとマリアの夫婦の元に生まれました。生まれたばかりのイエス様は、二人に守られなければ生きることさえできませんでした。もっと遡れば、二人が聖霊による妊娠という前代未聞の事態を受け入れていなければ、イエス様は誕生しませんでした。二人には特別に天使が語りかけて導いたとはいえ、二人は私たちと同じただの人間です。イエス様の運命は若い二人に委ねられたと言っても言い過ぎではありません。
 ここにも、神様が弱くなられたことの意味があります。神様は、神様でありながら人の助けを必要とする弱い存在になられたことで、私たちへの無謀な信頼を示してくださったと言えます。誰かに自分の弱さをさらけ出すというのは、相手を信頼していなければできません。また、そうせざるを得ない時はとても不安ですし、相手に自分の運命を託すことになります。裏切られるかもしれないし、利用されるかもしれません。でも、それが神様がしたことでした。神様は、私たちに裏切られることも利用されることも分かっていた上で、それでもご自分の運命を私たちに託してくださったということです。なぜなら、愛するということは、信頼するということでもあるからです。神様は、私たちが想像する以上に、無謀なほどに、私たちを愛し、信頼し、私たちに多くを委ねているのです。

2. 永遠に変わらない価値あるものをこの世界に残すために

 では、神様は具体的に何を私たちに委ねておられるのかというと、それは神様のやり方そのものを引き継いでいくことです。自分の強さを誇るよりも、弱さを恐れずに人の前で認め、助けを求めることです。また同時に、他人の弱さを受け入れ、間違いを許すことです。そして、裏切られても、利用されても、人を信頼して、希望を失わないことです。それはとても難しいことです。でも、それが神様が私たちのためにしてくださったことで、私たちにもできると信頼して委ねてくださっている働きなのです。
 皇帝アウグストゥスは、全領土の住民を自分の意のままに動かすことができたかもしれません。でも、その富も権力も、やがては他人のものになり、死後の世界に持っていけるものは何もありませんでした。一方で、飼い葉桶に寝かされていたイエス様は、2千年以上にわたり、全世界の人々の心を動かし続けてきました。イエス様の愛は、いつの時代においても、人を立ち上がらせ、人と人をつなぎ、ドミノ倒しを覆してきたのです。私たちが互いの弱さを受け入れることは、どんな富や名誉を手に入れることにも優ります。それが、神様が私たちに与えてくださった、永遠に変わらない価値のあるものです。それをこの世界に伝え続けていくことが、私たちに委ねられている働きです。

(お祈り)主イエス様、あなたは神様の身分を捨てて、弱い人間の一人となってこの世界に来てくださいました。そして、私たちのためにその命を捧げてくださいました。どうか、私たちの心を、あなたに愛されている確信と喜びで満たしてください。そして、人を信頼し、愛する心を強めてください。自分の弱さを認め、人の弱さを受け入れ、互いに助け合うことができるように導いてください。主イエス様、どうぞ私たちを導いてください。あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

神様は無力な赤ちゃんとしてこの世界に来られ、無抵抗の罪人となって死なれました。人は武力や権力を使って強制的に人を支配しますが、神様は自ら無防備な姿となり、弱さを隠さないことによって、私たちの心を動かします。それは、互いの弱さを受け入れることは、どんな富や名誉を手に入れることに優ることだと、私たちに教えるためでした。それが神様のこの世界を支配するやり方で、私たちに委ねられている働きです。

話し合いのために
  1. どんな武力にも権力にも、富にも栄誉にも優る、神様の弱さとは?

  2. 神様が私たちに委ねている働きとは?

子どもたち(保護者)のために

「王様」「皇帝」の特徴を挙げてみてください。イエス様はどこが似ていて、どこが違っているでしょうか?性格、暮らし、友達関係、想像でいいので一緒に考えてみてください。なぜ神様は大切なイエス様を、立派な王宮ではなく、小さな馬小屋で産まれさせたりしたのでしょうか?大人の考えを伝えるか、答えを出さないままにするか、保護者の皆さんに任せます。