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כ(カフ) 神様の言葉に期待する
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 11/22
詩編119:81-88
永原アンディ
律法への賛歌と呼ばれる詩編119編のシリーズに戻ります。11回目の今日は、11番目の段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット11番目の字、“כ (カフ)”が各節の初めに置かれた81-88節を取り上げます。 この字は手のひら(ヘブライ語: כף kaf)を描いた文字に由来すると考えられています。
命を脅かされるほどの苦難の中で、それでも神様に期待をかけて、神様に向かって訴えかける詩人の姿から、私たちはどのようなことを学ぶことができるでしょうか? 少しづつ読みながらお話ししてゆきます。
1. いつになったら私を慰めてくれるのですか?(81, 82)
81 私の魂はあなたの救いに思い焦がれ
絶え入りそうです。あなたの言葉 を待ち望んでいます。
82 私の目はあなたの仰せ を思い焦がれ
絶え入りそうです。
いつ私を慰めてくださるのか、と問いかけます。
これは歌われた詩らしく、二つの節が対になって整った形をしていますが、その内容は深刻です。願いが全く満たされていない状態、それも長く待ち焦がれて心にも体にも限界が近づいてきているような様子です。
なぜこんな苦境に置かれなければならないのか?
なぜこんなに長く待ち続けなければならないのか?
しかし詩人は知っています。今は全く手応えがないけれど、願うべき相手は神様しかいないということをです。ですから、悲鳴を上げながらも待ち続けます。希望を捨てません。
しかし、多くの人は詩人とは別の行動をとります。 どうせ神様は応えてくれないのだから、あるいは神様なんて存在しないのだから、何か頼るものを見つけ出そう。そして一時の気休めを追い求めます。
思い出したくもないことかもしれませんが、皆さんにも酷く辛い、そして長く続いた苦しみの経験があるかもしれません。しかし、わたしたちと詩人との間には決定的な違いがあります。それは、神様が一人の人イエスとしてきてくださったこと、そのイエスがご自身の体である教会を私たちに備えてくださったことです。実際今ここに、(重い心を引きずってやっと来られたのかもしれませんが)私たちが神様を礼拝するために集っているということは、私たちは詩人と同様に、今は聞こえないとしても、その存在を希薄に感じられるとしても、「神様の言葉」に期待しているのです。
詩人に倣いたいことは、「あなたの言葉を待ち望んでいます。」「いつ私を慰めてくださるのですか?」と問いかけ続けることです。つまりそれは神様との関係を断たないということなのです。それは神様を認めない人々には独り言に聞こえるでしょう。自分自身でさえ、そのように疑うときがあるかもしれません。けれども、神さまに対する呼びかけをやめてしまわない限り、わたしたちと神様との関係がなくなることはありません。
実はここに私たちが献げる礼拝の本質があります。先週のメッセージで聞いたイエスの呼びかけを覚ていますか? 「来なさい、そうすれば分かる」です。イエスは私たちがどういう人間で、何をしてきたか、何に悩んでいるのか、全てご存知の上で、「ついてきなさい、一緒にいよう」と招いてくださる方であると聞きました。不正義と悲しみに満ちているこの世界に、神様はイエスとして来てくださったのです。そして、私たちはペテロ(岩)の末裔です。彼自身と同様に、私たちはおよそ岩とは呼べないほど、弱く、互いに傷つけあい、神様を裏切ることも多い者です。神様なんて本当にいるのか、本当に私たちを愛しておられるのかと疑う私たちにも、「私についてきなさい、そうすれば分かる」と言っておられます。
その呼びかけに応えることこそ私たちの献げる礼拝です。そのような意味で、礼拝を献げるということは「いのちがけのこと」だと言っても決して大袈裟ではないのです。
2. いつになったら私を迫害する者があなたに懲らしめるのですか? (83, 84)
83 煙の中の革袋のようになったときでも
私は、あなたの掟 を忘れませんでした。
84 あなたの僕の日数はどれほどですか。
私に迫り来る者らに、いつ裁き を下すのですか。
この革袋とは英語の聖書ならすぐ連想できるようにワインなどの液体を入れるために動物の皮を鞣して作られた袋です。けれども、残念ながらこの「煙の中の皮袋」という比喩の意味は、はっきりとは分かりません。殺菌とか中身の発酵を助けるために燻されている状態とも、あるいはもう古くなり中身を入れられることもなく、炊事をする場所の上の方にかけられて煤で黒ずんでいる状態とも推測されていますが、詩人の正確な意図を知ることはできません。聖書ではこの箇所だけにしか出てこない比喩です。
ただ前の節からのつながりや、この節の後半の内容から、逆境を意味する表現であることは間違いありません。後半から類推すれば、あのヨブが経験したような、神様に従うことをやめてしまってもおかしくないほどの状態だったのでしょう。しかし、詩人は神様に希望を持ち続けているのです。
そして84節を読むと、詩人の苦しみが、ヨブのような喪失の苦しみなのではなく、その命を奪おうとする人の攻撃によるものであることがわかります。
私たちも、自分自身また家族が、勤め先や学校などで、理不尽な攻撃に遭うことがあります。本来なら、多くの益を得られ、喜んでいられるその場所が、居辛いばかりか、心身が傷つけられる場所になってしまうのです。しかもその苦痛をもたらすのは、同じ目的を共有する仲間であるはずの人々です。
ところが強い者、有利な者の方が発言力があるこの社会では、虐げられる方にも理由を求める風潮があります。「自己責任」という言葉が、力や富をもつ者が、持たないものを配慮しないことを正当化するために用いられます。
神様を信じる人でも、「呪うべきではない」といった聖書の言葉を連想して、「あの人をなんとかしてください」とはあまり祈りません。しかし詩人が叫んでいるように、不正義を行なう者に裁きを願うことは呪うことではありません。正しい裁きを求めることは正しいことです。
また「試練」という言葉で、逃げてはいけないと思ってしまうかもしれません。
逃げていいのです。いえ、逃げられるものなら逃げなければいけません。マリアとヨセフも、赤ちゃんイエスの命がヘロデ王にねらわれていることを知ってエジプトに逃れたではありませんか。
神様は預言者イザヤを通して預言された通り、低くされ苦しむ者たちを助けるために、イエスとしてこの世界に来られ、ご自身も低くされ苦しめられ十字架の上で死に至る苦しみを身に受けることで、私たちに希望を与えました。
今週はぜひ、この詩編と共にイザヤ書の53章と61章を読み返してみてください。そこには、イエス・キリストによってもたらされた希望が記されています。61章の最後には「地が芽を生えさせ園が蒔かれた種を芽生えさせるように主なる神はすべての国々の前で正義と賛美を芽生えさせてくださる。現実となった神様の言葉であるイエスに期待を持ち続けましょう。
3. 助けてください、生かしてください (85-88)
85 傲慢な者らは私に落とし穴を掘りました。
それはあなたの律法 にそぐわない。
86 あなたの戒め はすべて真実です。
彼らは偽りをもって私を迫害します。
私を助けてください。
87 彼らはこの地で私を終わらせようとしましたが
私はあなたの諭し を捨てませんでした。
88 あなたの慈しみにふさわしく
私を生かしてください
あなたの口から出る定め を守れるように。
なぜ悪人が栄え、自分勝手に生きているのに、神様の目に正しくいることを第一にしようとしている私が、正当な理由もないのに私を苦しめる人々に迫害されてこんな酷い目に遭わなければならないのか?神様を信頼しているとはいえ、周りは陰謀を巡らす敵ばかりで、詩人はとても孤独に見えます。
しかし私たちは、詩人のように孤独ではありません。
先にお話ししたようにイエスがご自身の体として教会を備えてくださっているからです。このことを、ぜひ忘れないでいてください。教会がキリストの体であるということは、どのようなことを意味するのでしょうか?このことはよく注意している必要があります。
世の中には沢山の組織、コミュニティーがあります。会社、学校、病院、政府、地方自治体、政党などです。教会はそれらと似ている面もありますが、根本的に異なる点があります。私たちは教会の所有者でも経営者でも、社員でも、お得意様でもありません。
折に触れて言っていますが、教会は大きな家族です。家族には、所有者も経営者も、社員も、お得意様もいません。家族は、喜びも悲しみも共に分かち合います。家族は利益を追求する必要はありません。互いの個性をそのまま受け入れます。また、ライフステージの違う者の集まりでもあります。
今日、詩人の苦悩を共に読んできた皆さんには共感していただけると思いますが、楽しいことだけ分かち合えるなら、それは家族ではなく、趣味のサークルです。教会が宗教的趣味の合うサークルなのか、それとも、神様の家族・イエスの体なのかの境目は、苦難を担い合えるかどうかにあります。世の中にはいろいろ魅力的なコミュニティーがあり、教会もいつの間にか本質を忘れ、楽しいだけのサークルや、利潤や効率を最優先する組織のようになってしまいがちです。30年目を迎えた神の家族・ユアチャーチは全く完璧ではありませんが、目指す方向として、そのあり方を追求していきたいと思うのです。
さて、ここまで沢山の「なぜ」を神様にぶつけてきた詩人は、一つの勝利宣言と未来に向かう願いをもって、この כ(カフ・ Kaph) の部分を閉じようとしています。(87) 「非常に苦しい思いをして来て、まだ未解決の問題はあっても、私はあなたの諭しを捨てずにいます。まだ生きています。」という勝利宣言です。
それは、前回紹介した「息を止めることはできても、、“命”を奪うことができない者を恐れるな」というイエスの言葉でいえば、ここでの生きているは、まだ息をしているということ以上に、“命”がある、神様と繋がっている、という宣言です。
ですから88節の「生かしてください」という最後におかれた願いは、「あなたと共に、あなたの思いを共有して、歩ませてください」という願いです。
私たちも、この願いを持って、神様からの言葉を切実に期待しながら今から神様に向かって歌いましょう。
(祈り)神様、私たちをあなたの体の一部であるユアチャーチの一人としてそれぞれを招き、ここに置いていてくださることをありがとうございます。
そして、家族の一員が置かれている立場は違っていても、あなたの体とされていて喜びも悲しみも共にできることをありがとうございます。
私たちが互いに重荷を担い合うことができるように、どうぞ一人一人のうちにあなたの霊を満たしてください。
感謝して、期待して、主イエスキリストの名前によって祈ります。
メッセージのポイント
一人一人が心から献げる礼拝によって神様と繋がっているからこそ、私たちは<教会・キリストの体>です。教会の健康は礼拝によって保たれます。健康な<教会・キリストの体>はうれしいことも、悲しいことも、苦しいことも分かち合います。
話し合いのために
- 詩人と私たちの違いはどこにありますか?
- 教会がキリストの体であるということはどのような意味ですか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
それぞれの家庭は、教会という大きな神の家族の一つの部分であることを伝えてください。また、家族で一緒に祈るだけでなく、折に触れて自分で祈ること。長くても、短くも、具体的でも、抽象的でも、何を願っても良いし、目をつむるとか、手を合わせるとかは気にせず、声に出してでも、心の中ででもいいので祈ってごらんなさいと勧めてください。