「もっと大きなことをあなたは見る」

Christ speaks to Philippus (John 1:43). Klosterneuburger Evangelienwerk, fol. 36v.
Schaffhausen City Library, Public domain, via Wikimedia Commons

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日曜礼拝・英語通訳付

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「もっと大きなことをあなたは見る」

ヨハネによる福音書 1:43-51

池田真理


 今日はヨハネによる福音書のシリーズの続きで、1章43-51節を読んでいきます。この箇所は、前回に引き続き、イエス様と最初の弟子たちの出会いの場面です。前回はアンデレとペトロでしたが、今日はフィリポとナタナエルという人たちです。いつものように少しずつ読んでいきます。まず43-44節です。

A. フィリポ
1. イエス様に見つけ出される (43-44)

43 その翌日、イエスはガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「私に従いなさい」と言われた。44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。

 日本語だと単に「イエスは…フィリポに出会って」とありますが、英語は「フィリポを見つけて」と訳していて、英語の方が原語に忠実です。イエス様はフィリポに偶然「出会った」のではなく、自らフィリポを探して見つけ出して、自分の弟子にしたということです。
 これは、前回読んだアンデレとペトロの時と様子が違います。アンデレとペトロは自分たちの意志でイエス様に会いに行きましたが、フィリポの場合はイエス様の方からフィリポに会いに行っています。では、フィリポはイエス様にとって特別な存在で、アンデレとペトロよりも大切だったのかというと、そういうわけではないと思います。
 新約聖書に残っているフィリポに関する記録はとても少なく、フィリポはとても目立たない人です。マタイ・マルコ・ルカ福音書には名前くらいしか出てこず、このヨハネ福音書に数回登場するのみです。また、そのわずかな記録から分かるのは、フィリポは可もなく不可もなく、ペトロのように目立った失敗もなければ褒められたこともしていないということです。一箇所を読んでみたいと思います。ヨハネ6:5-7です。

2 . 小心者?(6:5-7)

イエスは目を上げ、大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、フィリポに言われた。「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」こう言ったのはフィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べたとしても、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。(6:5-7)

 これは、イエス様が5千人の群衆に食事を与える奇跡を起こす直前の場面です。フィリポのイエス様の問いに対する答えは至って常識的で、現実的に事実を述べているだけで、間違ったことを言っているわけではありません。でも、イエス様に対する期待もありません。この後、アンデレがわずかな食糧を持っている少年をイエス様の前に連れて来たのと比べると、フィリポの弱さが際立ちます。
 また、別の箇所(12章)では、外国人からイエス様に会いたいと訴えられて、フィリポはどうして良いか分からず、アンデレに相談しています。
 どうもフィリポは、突発的なことや緊急的なことに対処するのが苦手だったのかもしれません。また、そういう時にイエス様を信頼して期待する心もまだ育っていませんでした。だから、これは推測の域を出ませんが、フィリポは決断力のない、気の小さい人だったのかもしれません。
 でも、その推測があっているとしたら、イエス様がフィリポを探して弟子にしたのは、まさにフィリポがそういう弱い人間だと知っておられたからだったのだと思います。イエス様は、自分の意志でご自分に会いに来たアンデレとペトロに「私についてきなさい」と言われたのと全く同じように、小心者のフィリポにも「私についてきなさい」と言われました。
 ここから分かるのは、私たちがイエス様についていくのに必要なのは、決断力でも気の強さでもなく、「私についてきなさい」と言われるイエス様の呼びかけを聞いて応えることだけだということです。イエス様は、私たちのことをよく知っておられて、一人ひとりに最もふさわしい方法で出会ってくださる方です。このことは、続くナタナエルとイエス様の出会いの様子からもよく分かります。まず45-46節を読みます。

B. ナタナエル
1. 偏見にとらわれてイエス様を知ろうとしない (45-46)

45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちが書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」46 ナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出ようか」と言うと、フィリポは、「来て、見なさい」と言った

 ナタナエルの名前はこのヨハネ福音書にしか登場せず、十二使徒の名前のリストに出てこないので、十二使徒ではなかったか、または別の名前(バルトロマイ)で呼ばれていた十二使徒の一人だったのか、よく分かっていません。はっきりしているのは、ナタナエルはガリラヤのカナ出身だったということです。(ヨハネ21:2)フィリポとは友人だったと考えられます。
 ここでナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出ようか」と言って、フィリポに冷ややかに反応しています。これは、ナタナエルがガリラヤ出身でナザレのことも知っていたために、かえって偏見にとらわれていたからだと思います。ナザレなんて小さな田舎町から偉大な人が出てくるわけがない、と思い込んでいました。また、旧約聖書の預言にもナザレは一度も登場しないので、ナタナエルの反応はその知識に基づくものだったかもしれません。
 それでも、フィリポに「来て、見なさい」と言われてついて行ったところに、ナタナエルのイエス様に対する淡い期待が伺えます。その淡い期待を、イエス様は一気に驚きと確信に変えてしまいました。47-49節です。

2. イエス様が自分のことを知っていて驚く (47-49)

47 イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48 ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

 イエス様はまず、ナタナエルのことを「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と褒めています。これは、ナタナエルの心が正しく神様を求めていて、その心は真実であると認めていることを表しています。ナタナエルはイエス様のことを疑ったままでしたが、イエス様の方ではナタナエルの本当の心を知っていました。
 でも、ナタナエルは当然驚き、怪しんで、「どうして私を知っておられるのですか」とイエス様に問います。そして、イエス様の答えは、「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」という、私たちには不可解でしかないものですが、ナタナエルには衝撃と確信を与えるものだったようです。
 当時、いちじくの木の下というのは、木陰がいい日陰になったので、ユダヤ教の教師が聖書を教えたり、人々が祈ったり瞑想したりする場所だったそうです。これも推測に過ぎませんが、ナタナエルもいちじくの木の下で神様に祈っていたのかもしれません。
 いずれにしても、イエス様がそのことを知っていたということにナタナエルは衝撃を受け、それが人間を超越した力だと悟りました。そして、目の前のイエスという方は、自分のことを超自然的に知っておられるのだと確信しました。
 皆さんも、「どうして私を知っておられるのですか」と驚いてイエス様に問いかけた経験はあるでしょうか?イエス様を信じる決心をして歩んでいる人は誰でも、イエス様は私のことを知っておられると確信する経験を何度もしていると思います。それは、このナタナエルの場合と同じように、他人が聞いても不可解でも、その人にだけ分かる方法でイエス様が教えてくださるものです。祈りが聞かれる経験かもしれませんし、願いが叶わなくてもイエス様は自分と共にいてくださっていると確信する経験かもしれません。自分では想像しなかった方法で問題が解決された時や、人の力では起こしえない奇跡が起きる時かもしれません。イエス様は、私たち一人ひとりに分かるように、私たちの疑問や願い、嘆きや叫びを確かに聞いていると教えてくださいます。
 もしまだそんな経験をしたことがないという方がいたら、ぜひこの後のワーシップの時間にイエス様に「教えてください」と呼びかけてみてください。または、礼拝後のお祈りの時間に、誰かに一緒に祈ってもらってください。そして、1週間を通して、一人ひとり、イエス様と過ごす時間を持ってください。
 でも、イエス様との出会いはこれで終わりではありません。その先があります。最後に50-51節を読みましょう。

C. 「もっと大きなことをあなたは見る」 (50-51)

50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。それよりも、もっと大きなことをあなたは見るであろう。」51 さらに言われた。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 イエス様はここでナタナエルを咎めているのではありません。そうではなく、「私があなたを知っているというだけで満足していてはいけない、私があなたに見せたいと思っているのはもっと大きなことなんだから」と宣言し、励ましています。
 それは、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」ということだといいます。これには様々な解釈がありますが、私は、天におられるはずの神様が地上に来られて、神様の愛が私たちの間に表されて、イエス様がこの世界を変えていくということだと思います。
 私たちは一人ひとり、自分がイエス様を知る前からイエス様は自分のことを知っておられ、「私について来なさい」と招いてくださっていると知り、その招きに応えてイエス様と共に人生を歩み始めます。それは、それだけでとても心強く、嬉しいことですが、イエス様が私たちに見せたいと願っているのは、自分一人の人生の変化だけではありません。
 私たちは、イエス様がこの世界を変えていく様子を見るようにも招かれています。それは、私たち一人ひとりがイエス様に罪を赦され、愛されていることを繰り返し確認する中で、互いの罪を許し合い、愛し合うことを知っていくということです。また、それは個人の関係にとどまらず、社会全体の中でイエス様の愛が実現するように、さらに世界に広がっていくように、祈り、行動していくことでもあります。それは私たちの力ではできないことで、イエス様の愛が可能にしてくださることです。イエス様は私たちに、「あなた方はそれを見る」と宣言してくださっていて、「見ていなさい」と言ってくださっています。だから、私たちはただ、「私についてきなさい」というイエス様の声を自分で確かめながら、自分の小ささや弱さにとらわれないで、イエス様のなさる大きなことを見せていただくのを楽しみにしましょう。

(祈り)イエス様、あなたは迷っている私たちを探して「私についてきなさい」と言ってくださいます。あなたのことを疑う私たちのことをよく知っておられて、呼んでくださいます。どうか私たち一人ひとりの心に、それぞれが分かるように、語りかけてください。あなたの霊で私たちの心を導いてください。あなたは確かにおられること、私のことを知っておられることを教えてください。そして、私たちには想像もつかない方法で、私たちを変え、用いて、あなたの愛がこの世界にもっと実現するところを見させてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

私たちがイエス様を知る前から、イエス様は私たち一人ひとりのことをよく知っています。そして、私たちが願う前から、私たちの人生を共に歩みたいと願ってくださっています。私たちは、私たちを見つけ出して呼びかけてくださるイエス様と出会って、驚き、喜びますが、イエス様はもっと大きなことを私たちに見せてくださろうとしています。イエス様を信じて生きることは、神様の愛が私たちの想像をはるかに超えて大きいということを繰り返し発見することです。

話し合いのために
  1.  「どうして私を知っておられるのですか」とイエス様に聞いた経験はありますか?

  2. イエス様が見せてくださるという「もっと大きなこと」とは何でしょうか?

子どもたち(保護者)のために

保護者の皆さんには、ナタナエルがイエス様に「どうして私を知っておられるのですか」と聞いたような、イエス様が自分にしか分からない方法で出会ってくださった経験はあるでしょうか?それは初めて信じる決心をするきっかけになった大きな出来事かもしれませんし、日常の中の小さな出来事かもしれません。「私はあなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と言われても、私たちには何のことだか見当もつきませんが、ナタナエルにはイエス様が自分のことを確かに知っておられる神様なのだと分かりました。他人には分からなくても、一人ひとりと神様の関係の中で神様が語ってくださる経験が誰にでもあると思います。子供たちにもそういう経験があるかもしれませんし、ないなら「イエス様、教えてください」と一緒に祈ってみてください。