あなたの弱さをあなたの強さの源にしてください

Abbey ruins – Tresco Abbey Garden
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あなたの弱さをあなたの強さの源にしてください

ユアチャーチのメンバーシップ、カヴェナント(誓約)II

池田真理


 ユアチャーチのカヴェナントの二つ目の約束、「互いに愛し合い仕え合う」を、私たちは教会の中でどのように具体的に実践しているのでしょうか?実際にできているか否かは別にして、少なくとも、私たちはどのような共同体を目指しているのでしょうか?今日は、ペトロとイエス様のやりとりから、教会とは何か、私たちはどうあるべきかについてお話ししたいと思います。大切なことは3つあります。
 一つ目、この教会であなたはあなたでいてください。
 二つ目、この教会であなたはあなた自身を分け与えてください。
 三つ目、共に祈り、共に神様を待ち望んでください。
 それではまず、ヨハネ1章のイエス様とペトロの出会いの箇所を読んでいきます。

A. あなたはあなたでいてください
1. イエス様はあなたがあなただから選んだ

ヨハネから聞いて、イエスに従った二人のうち一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、…シモンをイエスの元に連れて行った。イエスは彼に目を留めて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ—『岩』という意味—と呼ぶことにする。」(ヨハネ1:40-42)

 ペトロは、このイエス様の言葉通り、やがて教会の中心的存在として、教会の土台、岩となっていきました。でも、イエス様がペトロを選んだのは、ペトロに何か特別な能力があったり、特別に優れた人物だったからではありません。イエス様は、ペトロがペトロだったから、ペトロを選んだのです。ペトロが教会の岩になったのは、ただひたすらに、イエス様が彼をそう呼んだからです。それは、イエス様のペトロに対する呼び出し、召命でした。
 私たちも、イエス様が私たちのことを同じように選んで呼んでくださっていることを、いつも覚えている必要があります。私たちが何か優れているのではなく、何か良いことをしたからではなく、ただ私たちをこのままで、そばに来て共に生きようと、イエス様は呼んでくださいました。
 教会の土台は、このイエス様の呼び出しです。目に見える教会は、このユアチャーチも含めて、人間関係の難しさがつきまといます。だから、一人ひとりがイエス様の呼びかけをよく確かめて、人からの評価や人との比較に惑わされないことが大切です。あなたはあなたのままでいて、人と比べて落ち込むことも、優越感を持つことも、必要ありません。
 イエス様は私たちのことを誰よりもよく知っておられます。そして、私たち以上に私たちの弱さと罪も知っていて、赦しています。それは、イエス様が十字架に架けられる直前にペトロにこう語りかけていることからも分かります。

2 . イエス様はあなたの罪も弱さも知っていて赦した

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないようにと、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい。」…「ペトロ、言っておくが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」(ルカ22:31-34)

 イエス様はペトロが自分を裏切ることを知っていました。同じように、イエス様は、私たちがイエス様のことを忘れることも、疑うこともあると知っています。間違いを起こすことも、間違いと分かっていてもやめられない弱さも知っています。他の人に苦しみをもたらす罪人であることも知っています。だから、イエス様は十字架で命を捧げられました。私たちを救えるのは、イエス様の命をかけた愛と憐れみだけなのです。
 イエス様は、私たちにも、「あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力付けてやりなさい」と言われます。それは、私たちが自分の力に頼ることなく、ただイエス様に赦され、愛されている喜びを、他の人にも伝えるということです。それができるのは、自分の弱さを知っている人だけです。自分には自分を救う力も他人を救う力もないと知っている人だけが、イエス様に救われた喜びを本当に知っていて、人に伝えることができます。

 だから、教会は、それぞれの弱さを強さの源にしていく人たちの集まりです。このことは、二番目のポイントの「あなた自身を分け与える」ということにも関係しています。

B. あなた自身を分け与えてください
1. それ以上に大きな愛はないから

 互いに愛し合うということは、それぞれの強みや得意なことを生かして助け合うということだけではありません。それも必要な時はありますが、もっと本質的に大切なことは、それぞれが弱さの中でイエス様に出会った経験を他の人に共有していくことです。または、イエス様を見失ってしまったと告白することです。それは、自分の弱さや醜さを他人の前にさらけ出すということでもあり、それができるためには信頼関係を作る時間が必要です。でも、そうやって弱さを受け入れ合える関係性を作っていく中で、私たちは互いの中に生きるイエス様の愛を伝え合うことができます。それが、互いに愛し合うということの本質です。

 イエス様はこう言われました。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)

この言葉は、イエス様がまさにしてくださったことです。だから、文字通りの意味もあります。でも同時に、私たちが自分の人生の全てを友のために捧げることという意味もあります。それは、私たちそれぞれが経験してきた痛みや苦しみを、友のために生かすこと、注ぎ出すことです。そして、イエス様がそれらをどのように喜びに変えてくださったのか、また、変えてくださるのかを、一緒に確かめていくことです。これ以上に大きな愛はありません。
 このような生き方が最終的にどのような人生を意味するのか、イエス様はペトロにこう教えました。

2. 「行きたくない所に連れて行かれる」

「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年をとると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」(ヨハネ21:18)

 これは殉教を遂げるペトロの最期を預言する言葉ですが、イエス様はペトロに悲惨な人生の結末を語って怖がらせているのではなく、ペトロの成長を語っているのだと思います。「あなたは、若い頃には、自分の思い通りに、自分の力で生きていたけれども、年をとると、自分の思いを手放して、他の人に自分の身を委ねて生きていく」と。そして、たとえそれが自分の意志に反して、自分の身に危険があっても、あなたはそれを私のために受け入れていくだろう、という預言です。
 このことは、一見、教会で互いに愛し合うということとは、あまり関係ないように思えます。でも、教会が内向きにならずに、常に外を向いて、新しく人を迎え、社会のニーズに合わせて変化していくためには、とても大切なことです。私たちは、自分たちのために教会をしているのではありません。教会は神様のものであり、神様は全ての人にその愛を届けたいと願っています。私たちは、その神様の目的を果たすために、自分たちの居心地の良さや、自分たちが正しいと思っている価値観にこだわっていることはできません。時には、自分の安心を手放して、これまで積み重ねてきた力や経験を手放して、新しい変化を受け入れていかなければいけません。でもそれは、ペトロが神様への深い信頼によって殉教の道を歩んだのと同じように、苦しくても希望のある歩みです。

 さて、今日はここから詩編をいくつかピックアップして読みたいと思います。詩編は、個人の詩であると同時に、古代からずっと、集会で共に読まれ、人々の間で共有されてきた祈りでもあります。私たちが、自分の弱さを強さの源として、互いに愛し合い仕え合うとは、この詩編にあるような祈りを共に祈ることだと思います。今日ここまで私がお話ししてきたことは抽象的で分かりにくかったと思うので、ここで詩編を読むことで、もう少し具体的に参考になればと思います。

C. 希望を持って共に祈り、共に待つ
– 絶望の叫び(詩編22篇)

わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか。私の悲嘆の言葉は救いから遠い。わが神よ/昼に呼びかけてもあなたは答えられない。夜もなお、私は黙ることができない。(22篇)

 神様は私のことを見捨てられたと感じる絶望と孤独は恐ろしいものです。でも、この詩編の作者も、これを読んできた人々も、その絶望と孤独を知っています。そして、イエス様ご自身も、十字架でこの絶望を叫んだのでした。そこに救いがあるということを、私たちはこの詩篇を一緒に読むことで確認することができます。


– 罪の告白(詩編51篇)

神よ、私を憐んでください/あなたの慈しみによって。深い憐れみによって/私の背きの罪を拭ってください。過ちをことごとく洗い去り/私を罪から清めてください。(51篇)

 私たちは誰もが、神様の前で、自分は自分を救うことができないと認め、憐れみを乞うしかないと認める必要があります。神様に完全に正しいと認められる人は誰もいません。


– 感謝(詩編139篇)

どこに行けば、あなたの霊から離れられよう。どこに逃れれば、御顔を避けられよう。天に登ろうとも、あなたはそこにおられ/陰府に身を横たえようとも/あなたはそこにおられます。暁の翼を駆って、海のかなたに住もうとも/そこでも、あなたの手は私を導き/右の手は私を離さない。(139篇)

 この詩は私たちがよく歌う歌の歌詞にも使われています。私たちが神様のことを見失ってしまう時でも、神様は決して私たちを離さず、共にいてくださるということを、私たちは何度も教えられてきました。


– 信仰の告白(詩編27篇)

私が主に願った一つのこと/私はそれを求め続けよう。命のあるかぎり主の家に住み/主の麗しさにまみえ/主の宮で尋ね求めることを。…御顔を私から隠さず/怒りによって僕を退けないでください。あなたは私の助けとなってくださいました。私を置き去りにせず、見捨てないでください/わが救いの神よ。父と母が私を見捨てようとも/主は私を迎え入れてくださいます。(27篇)

 この詩も歌になっています。「あなたを信じます」という告白と「助けてください」「見捨てないでください」という願いが繰り返されています。信仰は、一度きりの決心ではなく、何度も疑い、その度に確信を与えられて、強くされていくものです。


– 賛美と祈り(詩編121篇)

私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主のもとから/天と地を造られた方のもとから。 …主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。今より、とこしえに。(121篇)

 この詩は誰もが知っている歌に使われていて、馴染み深いですが、シンプルな真実を言い表していると思います。私たちの助けは、私たち自身ではなく、主のもとから来ます。そのことを共に確認していくことが、私たちが共にいる目的です。そして、この詩編の続きは、「主があなたを守ってくださるように」という祈りです。誰かのためにそのように祈り、誰かにそのように祈られていることが、私たちの力になります。

D. 教会は場所でも建物でもなく、人だから

 最後に、もう言うまでもないかもしれませんが、教会は場所でも建物でもなく、人であるということを付け加えておきたいと思います。皆さんが教会の誰かとつながっていて、そこであなたがあなたでいられて、互いの存在を分け与えられる関係があるなら、そこにイエス様も共におられて、そこに教会があります。イエス様がこう言われた通りです。

「二人、または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(マタイ18:20)

だから、日曜日に教会に来られなくても、遠くに住んでいてなかなか会えなくても、構いません。大勢と話す必要もありませんし、たくさん話す必要もありません。教会の様々な働きを担うということは二の次で構いません。それよりも、あなたがあなたでいて、互いに分け与える関係を持つために、リーダーたちに手伝えることがあれば、遠慮なく言ってください。私たちは、弱い時にこそ強いということを、一緒にもっと体験していきましょう。

(お祈り)主イエス様、どうか私たちがこの教会でもっと互いに愛し合い支え合うことができるように、助けてください。私たちはそれぞれ異なる環境で育ち、年齢も性格も職業も違い、ライフステージも違います。喜んでいる人も、悲しみの中にいる人もいます。それでも、あなたを見上げて、あなたに助けを求めて、ここに集まっています。どうぞ、私たちが互いに知り合い、祈り合い、希望を持って共にあなたを待ち望むことができますように。そして、あなたを讃えることができますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

 ユアチャーチがメンバーに求める誓約の二つ目は「互いに愛し合い仕え合う」です。そのために大切にしていただきたいことは、「あなたがあなたでいること」「あなた自身を分け与えること」「希望を持って共に祈り、共に待つこと」です。必要なのは、あなたの強さや得意なことよりも、弱さや苦手なことです。私たちが互いの罪と弱さを受け入れるところに、本当の愛が生まれ、人と人の本当のつながりができます。そして、そこにイエス様もおられ、そこに教会があります。

話し合いのために
  1. ユアチャーチであなたは「あなたでいる」ことができていますか?
  2. あなたにとって「行きたくない所に連れて行かれる」とは?
子どもたち(保護者)のために

教会や聖書というのは、どうしても道徳的な教えの根拠になりがちです。でも、イエス様の教えてくださったことの中心は、「あなたはあなたでいていい」ということと、「あなたがあなたでいることが、他の人にとって一番大きなプレゼントになる」ということです。神様の前では、強がったり、間違いを隠したりしないでいいこと、「いい子」でいる必要はないこと、を伝えてください。むしろ、そのような自分の弱さをよく知って受け入れることが、他の人の弱さも許して、一緒に助け合うことができる力になります。