פ(ぺー) 聖霊に満たされることを求める

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פ(ぺー) 聖霊に満たされることを求める

詩編119:129-136
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する”17/22

永原アンディ


 詩編119篇のシリーズ、17回目の今日は、17番目の段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット17番目の字、“פ(ぺー)”が各節の初めに置かれた129-136節を取り上げます。   

 今日はペンテコステ、祈りつつ待ち望んでいた弟子たちに聖霊が注がれ教会が始まりました。いわばキリスト教会の誕生日です。復活されたイエスが弟子たちに姿を現され、40日にわたって神の国について話されたと使徒言行録の一章に記されています。

 「神の国の完成はいつになるのか?」と尋ねる弟子たちに対し、イエスは「あなた方はその時期を知る必要はない」と言わました。そしてイエスは続けて、「ただ、あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受け地の果てまで私の証人となる。」と言われた後、天に昇られたのです。 その10日後、つまりイースターから数えて50日目にこのことは起こりました。  

 「ペンテコステ」とは、ギリシア語の50番目という意味の言葉を語源とするラテン語から英語となった語です。いつもペンテコステの日には使徒言行録2章からお話しすることが多いのですが、詩編をシリーズでお話ししてきて、ちょうど今日の順番にあたるテキストからも、聖霊に満たされるということの大切さを学ぶことができるので、そのままシリーズの一部としてお話しします。

 早速、読んでゆきましょう。

1. 魂に届く神様の教え(129,130)

129 あなたの定めは驚くべきものです。
それゆえ、私の魂はそれに従います。
130 あなたの言葉が開かれると光が射し
無知な者にも悟りを与えます。

 ここで注目したい言葉は「私の魂はそれに従います」と「神様の言葉が光のように知恵のない者の心にも差し込む」です。これこそが聖霊の働き方でしょう。
 神様の定めを知ること、知って従うことのために必要なのは理性や知性ではありません。必要なのは魂の飢え乾きです。聖霊は光のように私たちの渇いた魂に届きます。魂に届いた光は、その魂を喜んで従うことができるように導くのです(NIVはここの主語を「私の魂」ではなく「私」と訳しているのではっきりしないのですが、多くの英語の聖書は日本語の聖書のように「私の魂」と訳しています)。

 イエスの弟子たちは、まさにこのことをペンテコステの日に経験したのです。イエスが十字架にかけられた時、人を恐れてその場から逃げ出したり、イエスの弟子と指摘されても否定したり、その後部屋に鍵をかけて閉じこもっていたりしたのがこの弟子たちです。彼らはこの日、聖霊に満たされて、イエスが「聖霊が降ると、あなた方は力を受け地の果てまで私の証人となる」と言った通り、力を受けて世界中にイエスを紹介し始め、今この極東に住む私たちにも届けられました。

 今週はぜひ、今日の詩編と使徒言行録の2章を読んでみてください。使徒言行録2章の多くの部分はペトロの演説で占められています。皆さんはペトロがどのような人であったかよくご存知でしょう。彼は漁師でした。イエスに「人を獲る漁師にしてあげよう」といわれてイエスに従った人です。まっすぐな心をもった人でしたが、当時の宗教指導者が受けてきたような教育は何一つ受けてきませんでした。イエスが十字架にかけられると、人を恐れてイエスとの関係を否定してしまった臆病な人でもあります。そのペトロが聖霊を注がれて語った言葉に、心打たれて、3000人もの人が仲間に加わったのです。
 私たちも神様の言葉が光が射すように自分の魂に届くことを期待して神様に求めましょう。イエスが、ご自分の昇天後に聖霊として私たちを導くと約束してくださったことを信じて、聖霊の導きを求めましょう。自分自身で強くなること、賢くなること、豊かになることを追求するのではなく、弱いままで聖霊の働きによって、強く、賢く、豊かにされることを求めましょう。詩人も飢え渇き切実に神様に求めたことが次の2節でわかります。

2. 聖霊に満たされることを求める (131.132)

131 あなたの戒めを慕い求めて
私は口を開け、あえぎました。
132 私の方を向き、憐れんでください
御名を愛する者への裁きに従って。

 「神様、どうか私の苦しい現状に介入してください」「私を憐んでください」 それが詩人の神様への訴えです。マラソンランナーが疲れてくる様子を見て解説者は「口が開いてきました、ちょっと苦しそうです」とコメントするのをよく耳にします。息が上がるのはもっと酸素が必要だからです。脈が上がるのは早く全身に酸素を届けるためです。
 私たちが人生というレースの中の苦しい局面にあるとき、そこに生きるエネルギーとして必要なのが聖霊に満たされることです。「どうぞ憐んで、あなたの霊を私に満たしてください」「聖霊よ、来てください」と求めましょう。必ず新しい力が与えられます。それは、詩人が確信しているように、主の御名を愛する者に約束されていることだからです。そのようにして私たちは人生のピンチをことごとく乗り越えてきたのです。

「聖霊を満たしてください」と願うのは、私たちの内に聖霊の実が実ることを願うからです。聖霊の実とはどのようなものかについて、ガラテヤの信徒への手紙 (5:22,23) にそのリストが記されています。

しかし霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。

“しかし”とあるのは、前段の「肉の行い」と対比して記されているものだからです。聖霊の働きなしに私たちの中に聖霊の実が生じることはありません。そのかわりにパウロが「肉の行い」と呼ぶ、聖霊の実とは正反対の苦い実が生じることになります。だから私たちは聖霊に満たされることを求めなければならないのです。
 ところで聖書には「聖霊の賜物」という言葉も出てきます。こちらにも聖霊の実と同様にリストがあります。典型的なのはコリントの信徒への手紙1の12章とロマの信徒への手紙の12章です。賜物とはプレゼント、聖霊が思いのままに、信じて従うものに与える特別な能力のことで、こちらの好みで願って与えられるものでも、代価を払って買えるようなものでもありません。預言、異言、癒しといった超自然的なものもあれば、教え、奉仕といったことも含まれています。コリントとローマの記述には一致しないものもあります。つまり解釈に幅があること、それがどういうものか正確にはわからないものがあることから、リストとしては不完全です。
 聖霊の賜物についての受け止め方は教会によってもかなり異なります。例えば最初のあげた超自然的な賜物は、使徒行伝の時代特有のもので、今はないと考える教会もあれば、時代を超えた普遍的なもので熱心に求めるべきだと勧める教会もあります。

 ユアチャーチがどう考えるかといえば、「それは核心的な事柄ではないので、どちらにも与しない」というものです。
 聖霊の賜物は聖霊の実を実らせるために用いられますが、自分の賜物を知らなければ、聖霊の実を実らせることができないわけではありません。また聖霊の賜物はコリントの教会では混乱の原因となったことがコリントの信徒への手紙の13章に記されています。
 そのようなわけで私たちは聖霊の賜物をどれも否定しませんが、それらを求めることを、ユアチャーチカヴェナントの三つの約束より上に置くことはないのです。それより聖霊に満たされることを求めてください。
 聖霊に満たされて、体や、心の不思議な感覚を覚えることもあるでしょう。
聖霊の賜物である異言が口をついて出てくることもあるでしょう。しかしそれらは聖霊に満たされた証拠ではありません。そのような現象がなくても聖霊に満たされます。聖霊の満たしは、やがて聖霊の実を実らすことによって確信できることなのです。 
 それでは後半の133-136節を読みましょう。

3.  聖霊に満たされて歩む (133-136)

133 私の足取りをあなたの仰せで
確かなものにしてください。
どのような悪にも私を支配させないでください。
134人間の暴虐から私を贖ってください
私があなたの諭しを守れるように。
135 御顔をあなたの僕に輝かせ
あなたの掟を私に教えてください。
136 私の目から涙が川のように流れます。
彼らがあなたの律法を守らないからです。

 この詩編119篇のシリーズを通して、私たちは“律法”の本質が、神様からの語りかけであることを知りました。それは、この部分で言えば「仰せ」であり「諭し」であり「掟」であり「律法」です。
 詩人は、神様の語りかけが、人の歩みを確かなものにしてくれることを知っていました(133)。だから、耐えられない苦痛によって、呼びかけが聞こえなくなることを恐れました(134)。そして、神様がその輝くようなお顔を自分にもはっきりとわかるように表されて、語りかけてくださることを切望したのです。

 私たちが今置かれている世界も、決して明るいものではありません。その暴虐は、直接自分に迫っているわけではないかもしれません。しかし世界中で、神様が愛する子どもたちが、身に迫る命の危険に怯え、飢餓、貧困に苦しんでいるのです。
 「涙の川が私の目から流れ出している」という表現をどう感じますか?多くの人が大袈裟と感じるでしょう。しかし、それを大袈裟に思えるのは、むしろ私たちが状況に慣れてしまって、涙腺も緩まなくなってしまっているからではありませんか?今、自分が受けたら、決して耐えられないと思われるような暴虐が世界に至るところで起こっています。“律法を守らない彼ら”とは、神様に聞き従おうとせず、反対に自分が神であるかのように振る舞う人々のことです。自分の野心のために人々が傷付き、命を落とすことも厭わない人々。独裁者とその取り巻き。利益のために環境を破壊することを意に介さない人々。人の健康のための安全基準より利益を追求する人々。それらの人々に苦しめられている人、死の危険にさらされている人がいます。
しかし、暗い気持ちになっている場合ではありません。ではどうすれば良いのでしょう?聖霊の満たしを求めるのです。聖霊に満たされたものが主の働きを担い、社会のあらゆるところに聖霊の実を実らせるのです。誰もが紛争地、貧困社会に乗り込んでゆく必要はありません。その働きをサポートする方法は様々です。しかし、そのことと共に、むしろ今置かれているところで、聖霊の実を実らせることができるように、聖霊の満たしを求めて、心を注いで主に向かい礼拝しましょう。

(祈り)神様、最初の弟子たちのうちに来てくださり満たしてくださったように、今私たちの心にあなたがお入りください。
私たちの魂をあなたの霊で満たしてください。
あなたが、それぞれにふさわしい賜物を与えていてくださることを信じます。  
どうぞ、あなたの働きを担うことができるように私たちを満たし、あなたの派遣するところにおいて用いてください。
そこで私たちが、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制などの聖霊の実を豊かに実らせることができますように。
今日、それぞれの心にペンテコステを再現してください。
イエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

詩人にも、イエスを天に送った弟子たちにも、そして私たちにも不可欠な歩み続ける力は聖霊が供給してくださいます。私たちの弱さの内に働く、神様の強さは私たちに宿られる聖霊の力による強さです。行き詰まった時、恐怖する時、思い悩む時、悲しみに沈む時、聖霊に満たしていただくことを祈り求めましょう。

話し合いのために
  1. 聖霊の実とはどのようなものですか?
  2. なぜ神様の言葉は無知な者でも悟れるのでしょう?
子どもたち(保護者)のために

子供たちには、ガラテヤの信徒への手紙5:22-26を読んで、聖霊の実の一つ一つがどのようなものか話してあげてください。そして、神様の霊が心の中に住んでくださること、神様の霊に従って歩むことで聖霊の実を実らせることができることを伝えて、最後に家族の一人一人が聖霊に満たされることを祈りましょう。