イエス様は一人ひとりとの出会いを大切にされる

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日曜礼拝・英語通訳付

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イエス様は一人ひとりとの出会いを大切にされる

ヨハネによる福音書 4:1-26

池田真理


 今日もヨハネによる福音書の続きで、4:1-26を読んでいきます。本当は4:1-42で一つのお話なのですが、さすがに長いので2回に分けて読むことにしました。それでも今日の
1-26節だけでも十分長いので、今日は細かい内容の説明は一部省きながら読んでいきたいと思います。今日の箇所は、一人の女性とイエス様の出会いを描いています。ここには、イエス様が私たち一人ひとりとの出会いを大切にされる方であるということが表れていると思います。
 では読んできましょう。まず1-6節です。

A. 神様の計画とイエス様の旅 (1-6)

1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作り、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、2 ――洗礼を授けていたのは、イエスご自身ではなく、弟子たちであった――3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。5 それで、イエスはヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 情報量の多い段落ですが、二箇所だけに注目したいと思います。4節「サマリアを通らねばならなかった」というのと、6節「イエスは旅に疲れて」というところです。
 まず、「サマリアを通らねばならなかった」というのは、物理的な必要というよりは、神様の計画の中で必要だったという意味だと考えられます。当時、ユダヤからガリラヤに行くために、サマリアを通らないルートもありました。だから、道がそれしかなかったということはありえません。では、神様の計画で必要だったとはどういう意味かというと、イエス様がサマリアに行って、そこで神様の愛を伝えることが神様の計画だったという意味です。ユダヤ人とサマリア人は元々は同じイスラエル民族ですが、イスラエル民族の王国が南北に分裂してから敵対するようになり、それがイエス様の時代にも続いていました。でも、それは神様が望んだことではありませんでした。神様は、ユダヤ人もサマリア人も関係なく愛され、ユダヤ人が見下していたサマリア人に対して特別な思いを持っておられたのかもしれません。それは、この箇所だけでなく、「良いサマリア人のたとえ」など、サマリア人を特に好意的に描く話が聖書にはいくつかあるからです。
 さて、今の段落でもう一つ注目したいのは、イエス様は旅に疲れていたと書かれているところです。イエス様には神様の壮大な計画が委ねられていたと一方で、イエス様は生身の人間であったということがよく分かります。イエス様は、私たちと同じように、体の疲れも喉の渇きも空腹も感じるひとりの人でした。神様は、そのような生身の人間となって、私たちと関わり、私たちと同じ目線に立ってくださったということです。
 それでは話の内容に入っていきましょう。まず7-9節です。

B. 人としてのイエス
1. 誰に対しても何の偏見も差別もなく接する (7-9)

7 サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったからである。

 一つ前の節には、この出来事は正午ごろのことだとあります。当時の習慣として、水汲みは朝夕にするのが普通だったので、この女性は井戸が混み合う時間帯を避けて、人目を避けていたのではないかと推測できます。それは、後で読むように、この女性が社会的に蔑まれる立場にあったことと一致します。だから、この女性は、誰もいないはずの井戸に、知らないユダヤ人の男性が疲れた様子で座っているのを見て、身を固くしたと思います。でも同時に、自分に関わってくることはないだろうとも思ったのかもしれません。先にもお話ししたように、ユダヤ人とサマリア人は敵対関係にあり、特にユダヤ人はサマリア人は汚れていると見下し、関わりを避けていたからです。その上、こんな変な時間帯に一人で水を汲みにくる女性というのは、何か訳ありなのは明らかだったからです。

 でも、イエス様は、そんな民族的な差別も社会的な偏見も持たず、この女性に「水を飲ませて下さい」と頼みました。イエス様はこの女性に対して、ひとりの人間として敬意を持って接したということです。そして、自らを彼女の助けを必要とする弱い立場に置き、彼女には人を助けることができるのだと示しました。人目を避けて、人から避けられて生きてきた人にとって、当たり前のように人から助けを求められることは、「あなたを助けてあげよう」と言われるよりも、ずっと心強いことだと思います。そんなことをさらっとやっているイエス様に、私は今回改めて気付かされ、やっぱりすごいなぁと思いました。

 続く10−14節を読んでいきます。

2. 豊かな生き方があると教える (10-14)

10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生きた水をもらったことであろう。」11 女は言った。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から飲んだのです。」13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。14 しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 ここでイエス様は、この女性に声をかけた理由を少しずつ明かしています。イエス様はこの女性に、もっと豊かな人生を歩むことができると教えたかったのです。自分の内に決して枯れることのない泉を持ち、永遠に渇くことのない人生です。それは、どんな時でも希望を捨てず、最後まで前向きに歩み続ける人生です。イエス様は、この女性がこれまで自分の力では乗り越えられないとあきらめてきたことや、自分は人目を避けて生きるしかないと思っていること、その後悔や孤独を知っていたのだと思います。そして、あきらめないで、ここから新しい人生を自信を持って歩んでほしいと願われました。その鍵になるのは、イエス様が与える水を飲むということでした。
 それはどういうことなのか、この女性と一緒にイエス様の言葉を聞いていきましょう。15-18節です。

3. 「私はあなたのことはよく知っている」と示す (15-18)

15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17 女は答えて、「私には夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』というのは、もっともだ。18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたの言ったことは本当だ。」

 イエス様はこの女性に、「私はあなたのことをよく知っているよ」と示しました。この女性に5人の夫がいた、つまりこの人は5回の離婚を経験していて、しかも今は他の男性と同棲していた事情は、私たちには分かりません。彼女に非があったのか、彼女にはどうしようもない理由があったのか、分かりません。でも、少なくとも、その経歴が彼女の社会的孤立の理由だったことは明らかです。イエス様がここでこの女性に伝えているのは、「私はあなたの事情を全て知っているよ」ということです。

 イエス様が与える水を飲むということは、まず第一に、この女性と同じように、イエス様が自分のことをよく知っているのだと知ることだと思います。それは、この女性がこの後驚きを隠さないように、私たちにとってもすぐには信じ難い不思議なことです。なぜイエス様は私のことを知っておられるのか、私に関心を持っておられるのか、疑うのが普通です。でも、イエス様は私たちそれぞれに対して個人的に、それぞれにしか分からないやり方で、「私はあなたのことを知っている」と教えて下さいます。それが、イエス様の水を飲むということで、決して枯れることのない泉を心に持つことの始まりです。

 それでは後半に入っていきましょう。まず、19-24節です。

C. 神様としてのイエス様
1. 「まことの礼拝」に招いてくださる (19-24)

19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20 私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21 イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」

 この女性はイエス様が自分のことを知っていることに驚き、興味を持ちますが、まだ距離を取ろうとしています。私はサマリア人で、あなたはユダヤ人。サマリア人が信じていることとユダヤ人が信じていることは違い、私とあなたでは住む世界が違うと、壁を作っています。これは、私たちも同じかもしれません。時代も国も文化も違うイエスと自分にどんな関わりがあるのか、そんな人を頼るのはおかしいのではないかと感じます。
 でも、イエス様はこう言われました。「私を信じなさい。」なぜなら、イエス様は、私たちが何人であろうと、どんな人生を歩んでいようと、神様は私たちを愛し、それぞれに豊かな人生を歩んでほしいと願われていると教えるために来られたからです。そして、そのために私たち全てを「まことの礼拝をする者」になるように招いておられます。それは、誰かが決めたやり方で形式的に神様を礼拝するのではなく、それぞれが自分の真実の心を持って神様に向き合い、神様の霊の助けを借りて、神様の声に耳を澄ますことです。「霊と真実を持って礼拝する」とは、そのように、それぞれが神様と一対一の関係の中で、神様に助けを求め、神様の思いを知ろうとし、神様を愛することです。そのような礼拝に決まった場所や時間は必要なく、いつでも、どこでも、私たちが心から神様を求めるなら、それが私たちの礼拝です。そして、それが、イエス様がくださる水を飲み、心に泉を持つための唯一の方法です。
 それでは最後に、25-26節を読みます。

2. 私たちに全てのことを知らせる方 (25-26)

25 女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」26 イエスは言われた。「あなたと話をしているこの私が、それである。」

 これは今日ずっとお話ししてきたことで、もう説明するまでもありませんが、ここで言われている通り、イエス様は私たちに全てのことを知らせるメシアです。私たちは皆、イエス様を通して神様の愛を知り、神様の計画を知り、自分の行くべき道を知ります。苦しい状況の中で、私たちが希望を持ち続けることは難しく、あきらめてしまった方が楽に感じることもあります。でもイエス様は、「私を信じなさい」と言って下さったので、私たち自身には希望が見えなかったとしても、あきらめないで前を向き続けることができます。毎日の生活の中で、イエス様が本当に自分のことを知っておられるのか、関心を持っておられるのか、それぞれがイエス様に心を向けて、確かめて下さい。それが私たちの礼拝です。そして、それが私たちの希望の源であり、枯れることのない泉です。

(お祈り)イエス様、あなたが十字架で命を捧げて教えてくださった愛と赦しを、もう一度私たちに教えて下さい。特に、自分には乗り越えられない問題を抱えて、あなたのことが分からなくなる時、それでもあなたの愛は何も変わっていないことを教えて下さい。そして、あなたの霊で私たちの心を守って、強めて、希望を持ち続けられるように助けて下さい。あなたは、私たちがあなたのことを忘れて裏切っても、赦して受け入れてくださる方です。どうか私たちがあなたの愛に応えて、いつも感謝を捧げていけるように、助けて下さい。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエス様は、私たち一人ひとりがこれまで歩んできた人生も今抱えている問題もよく知っておられ、時にその重みに押しつぶされそうになることを知っておられます。イエス様は私たちがそのまま押しつぶされてしまうことなく、それぞれに豊かな人生を歩んでほしいと願われ、「私を信じなさい」と招かれます。イエス様の愛を信じることが、私たちがどんな時でも希望を失わずに最後まであきらめずに前を向いて生きるための力です。それは私たちの内に備わっているものではなく、神様が私たちに与え、聖霊様が守ってくださるものです。

話し合いのために

1. あなたが「イエス様は本当に私のことを知っているんだ」と分かった経験をシェアしてください。

2. 「まことの礼拝をする者になる」とは?

子どもたち(保護者)のために

今回は子どもたちにぜひ、イエス様は私たち一人ひとりと一対一の関係を大切にしてくださるということを教えてください。この聖書の箇所に出てくるサマリア人の女性は、人目を避けて昼過ぎに水を汲みに来たと考えられます。この女性は仲間たちから嫌われていました。でもイエス様はそんなことにはお構いなく、一人の対等な人間として接し、「あなたも大切な人だ」と言葉と態度で示しました。この女性にイエス様が最初に言ったのは「水を飲ませてください」です。イエス様は、嫌われ者を見下すことなく、むしろ自分が喉が乾いて困っていることを隠さず、助けを求めました。イエス様には、この女性の寂しさや後悔が見えていて、愛さずにはいられなかったのだと思います。