❖ 見る
日曜礼拝・英語通訳付
❖ Audio (Message)
❖ 読む
ש(シン) 律法への愛
詩編119:161-168
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 21/22
永原アンディ
詩編119篇のシリーズ、21回目の今日は、21番目の段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット21番目の字、“ש(シン)”が各節の初めに置かれた161-168節を取り上げます。 この文字の読み方は、ヘブル語の歯を意味する語(שן šen)に関連すると言われていますが異説もあります。
今日は、このテキストに3回出てくる「律法を愛する」ということの、私たちにとっての意味を考えていきましょう。
1. 主の言葉は至上の宝 (161,162)
161 高官たちは訳もなく私を迫害しましたが
私の心が恐れるのはあなたの言葉です。
162 私はあなたの仰せを喜びます
多くの戦利品を見つけた者のように。
最初の2節には、「愛する」という語は出てきませんが、似たような表現として「あなたの仰せを喜ぶ」とあります。前回も触れましたが、彼を苦しめている悪い者とは、他国の勢力や犯罪者ではありません。同胞の、しかも大きな権力を持った人々です。
詩篇にはダビデの名が冠せられたものが多くありますが、ダビデを苦しめたのは、彼が仕えた王、サウルでした。またイエスもイスラエルの民を愛し救おうとされましたが、権力者たちは彼を迫害し十字架につけてしまいました。詩人も、ダビデも、イエスも時の権力者にとって疎ましい存在だったのです。 そして、彼らはその困難な状況にあって神様の言葉を支えとして歩みました。 世界は権力者が力を振るっているように見えても、神様が絶対的な力を持って、寄り添ってくれていることを信じていました。その証拠が神様からの語りかけだったのです。
その語りかけをを知った詩人の喜びが極めて大きかったことが、「多くの戦利品を見つけた者のように」という表現に表れています。イスラエルはソロモン王の時代には栄華を誇りましたが、それ以降は王国の分裂、周りの強国による支配によって、経済的、軍事的に疲弊していました。勝利に伴って得られる戦利品には縁遠い国だったのです。
皆さんにとって主の言葉はダビデやイエスや詩人が感じていたように大切な宝と感じられるでしょうか?このシリーズでお話ししてきたように私たちにとっては、この119編に出てくる律法、戒め、定め、諭しは、旧約聖書の中に見られるイスラエル民族のための規則ではありません。私たちにとっては、聖書に記されているイエスの言葉ももちろんそうなのですが、礼拝、祈りの中で語りかけられる言葉もまた神様の語りかけなのです。会話をするように、礼拝し、祈り、それが至上の喜びとなっている、ということが神様の言葉を愛する、神様ご自身を愛するということなのです。
詩人もまた、そのような時を大切にしていたことが次の部分でわかります。163,164節を読みましょう。
2. 律法はそれを愛する者に平安をもたらす (163-166)
163 偽りを憎み、忌み嫌います。
あなたの律法を愛します。
164 日に七度あなたを賛美します
あなたの正しい裁きのゆえに。
165 あなたの律法を愛する者には豊かな平安があり
この人たちをつまずかせるものはありません。
166 主よ、私はあなたの救いを望み
あなたの戒めに従います。
「律法を愛する」という言葉がここに出てきます。それは、「偽りを憎み、忌み嫌います」と対になって表現されています。それは律法を愛するというということが、「偽り」とは相容れないということです。
偽りは社会に溢れています。日本では、最近、急速に業績を伸ばしてきた中古車販売会社が、車の修理の際に傷を増やして保険会社に偽りの請求をしてきたことが発覚して問題になっています。
この社会は他者より大きく、強くなることに価値がある競争社会です。 そのために人を騙して、自分の利益を増やそうとする者が後を絶ちません。しかし、これは不思議なことではありません。人間の自己中心性「罪」の当然の産物です。聖書はこれを「罪」と言います。 人と人の間で、企業と企業の間で、国と国の間でおこります。どんなに厳密な法律を作っても、抜け道を見つけて蓄財する者がいるのです。 しかしそれは神様の望まないことです。
特に大きな力を持つ者、悪賢い者が偽りによって弱い者、小さいものを虐げることは神様の忌み嫌われることです。詩人も訳もなく位の高い者たちに虐げられていました。イエスの時代の「偽り」の例を一つ紹介しましょう。
9 また、言われた。「あなたがたは、自分の言い伝えを重んじて、よくも神の戒めをないがしろにしたものだ。10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父や母を罵る者は、死刑に処せられる』と言っている。11 それなのに、あなたがたは言っている。『もし、誰かが父または母に向かって、「私にお求めのものは、コルバン、つまり神への供え物なのです」と言えば、12 その人は父や母のために、もう何もしないで済むのだ』と。13 こうして、あなたがたは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」(マルコ 7:9-13)
イエスは、この言葉をファリサイ派や律法学者、すなわち宗教的リーダーに向かって言われたのです。それは現代のキリスト教の中でも起きていることです。聖書に書かれていることを勝手に解釈し、特定の人々に対する差別を正当化することをしてきました。人種差別、女性差別、性自認差別、性的指向差別を聖書が認めていると偽って、神様が創られ、愛されている人々を迫害してきました。
私はイエスは決してどんな差別を喜ばれないと信じます。イエスの言葉を喜ぶとは、訳なく迫害、差別される人々が解放され、神様の創られた者に相応しく扱われることを共に喜ぶことです。イエスのように、「偽り」に苦しむ人々と共に立つことです。
しかし、この社会は、人間の罪の性質が支配的です。社会は、さまざまな規制によって公正性を保とうとしていますが、それは十分ではありません。日本では大量の食べ残しが廃棄されているのに、国民の大半が日々の食べ物に事欠く国があります。このような格差も神様は悲しまれると私は思います。
このような社会の中で、希望を持ち続け、神様の喜ばれる社会を目指す働きに少しでも貢献するために、私たちが第一にすることが神様を礼拝し、賛美することです。一日に7回の賛美が意味することは回数ではありません。できるだけイエスのそばを、イエスと共に歩んでゆくということです。
私たちの信仰の健康度を測るのに最適なのが165,166節です。皆さんはこの詩人の神様に対する言葉に心からアーメンと言えるでしょうか?
165 あなたの律法を愛する者には豊かな平安があり
この人たちをつまずかせるものはありません。
166 主よ、私はあなたの救いを望み
あなたの戒めに従います。
3. 私たちのすべての道は主に知られている (167-168)
167 私の魂はあなたの定めを守り
それを何よりも愛しています。
168 あなたの諭しと定めを守ります。
私の道はすべてあなたの前にあります。
神様の語りかけは耳に聞こえるものではなく、魂に届くものです。「律法を愛する」ことの本質は、この神様の語りかけを聞き、それに応えて生きることです。私たちに対する神様の語りかけは、多岐に渡ります。それは聖書に記された言葉であり、礼拝の中で、祈りの中で、ときには誰かの言葉や行動を通して、直接心に語りかけられます。
しかし、どのような形であっても、神様の意図することを正しく受け取ることは簡単ではありません。神様の言葉を愛する、大切にするということは、それを正しく受け取ろうとすることに他なりません。
それが聖書の記述として聞く場合に起こりやすい誤りは、前の項でお話しした語の解釈によるものです。現代語同士の翻訳でも元の言葉のニュアンスを正確に表現する語は存在しません。ましてや古代のギリシャ語やヘブル語から現代語への翻訳ではさらに困難です。 言葉は時代や文化の影響を強く受けるものだからです。
例えば現代の同性愛が聖書の教えに反すると主張する人は、この違いを無視して、単純に特定の語を現代の同性愛と結びつけて、それが罪だと主張します。 聖書は神様の言葉です。しかし忘れてならないことは人の言葉で書かれた神様の言葉ということです。
つまりそれは時代や文化の制約の中でなされた表現であるということです。ですから、その語が使われた背景や文化を無視して現代の事象に結びつけてはならないのです。
礼拝や祈り、また他の人の言動を通しての語りかけの場合はどうでしょう?そこには思い込みによる誤解が生まれます。教会のリーダーが自分の考えを神の言葉として伝えるということが起こります。 「牧師である私の言葉は、神様の言葉として受け取らなければいけない」といわれたら、その教会からは逃げ出さなければなりません。それではもはやカルトでしかありません。
そのような過ちに陥らず、神様の語りかけを正しく受け取って歩むために必要なことは、福音書の記されているイエスの基本的な態度を知ることです。 ヨハネによる福音書1章にあるように、イエスの存在そのものが、神様の語りかけだからです。イエスならどう感じ、どうなさるのだろうかと自分に問いかけながら歩めば良いのです。
今日のテキストは、とても慰められる言葉で締めくくられています。
「私の道はすべてあなたの前にあります」
自分では不確かな歩みに思えても、神様には私たち一人一人の歩みが全て知られているということです。私たちが神様の語りかけを聞きながら、それに従って歩んでいる限り、目に見える状況はどうであっても守られ、導かれているということです。このことを喜び、感謝して歩み続けましょう。それが神様の律法を愛するということなのです。
(祈り)神様、あなたが私たち一人一人に語りかけていてくださることを私たちは心から喜んでいます。
あなたの声をもっとよく聞き取れるように、私たちを引き寄せてください。
日々の生活の中で、あなたと言葉を交わしながら正しい道を歩ませてください。
あなたが私たちの歩みを全て知っておられるので、あなたを信頼して歩みます。
この願いと期待と感謝をイエス・キリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
誰でも神様の語りかけを大切に思い、それに従いたいと思うでしょう。神様に創られた者として誰もが持つ気持ちです。しかしそれをどう受け取り、どう実践するかを間違えると、イエスの時代の律法主義、現代のキリスト教的カルトのように、自分では大切にしているつもり、実践しているつもりでも、実は正反対の道を歩んでいることになってしまいます。そうならないために必要なことはイエスともっと親しくなることです。
話し合いのために
- あなたにとっての律法とはどのようなものですか?
- 律法を愛するとはどのようなことですか?
子どもたち(保護者)のために
律法の本質は神様の私たちへの語りかけであり、イエスの言葉と行いにそれを見ることができます。共にこの詩を読んで、旧約聖書の神様の律法、戒め、諭し、言葉といった語が、規則のようなものではなく、今も心に語りかけられているイエスの語りかけであることを伝えてください。