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日曜礼拝・英語通訳付
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主はあなたを見守る方
詩編 121
永原アンディ
今日のテキストは121編です。初めに全体を読んでから、2節づつ順番に味わってゆきましょう。詩人は初めに、「神様は自分を見守り助けてくださる方です」 (1,2) と宣言し、私たちに「あなたのことも見守って、助けてくださる方です」 (3-8) と呼びかけています。
1 都に上る歌。私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。2 私の助けは主のもとから 天と地を造られた方のもとから。
3 主があなたの足をよろめかせることがないように。あなたを守る方がまどろむことがないように。4 見よ、イスラエルを守る方はまどろみもせず、眠ることもない。
5 主はあなたを守る方。主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。6 昼、太陽があなたを打つことはなく 夜、月があなたを打つこともない。
7 主はあらゆる災いからあなたを守り あなたの魂を守ってくださる。8 主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。今より、とこしえに。
1. 私の助けはどこから? (1, 2)
1 都に上る歌。私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。2 私の助けは主のもとから 天と地を造られた方のもとから。
山を見て、神様のことを想う感覚は、誰もが共通して持っている感覚です。 住む世界が、宇宙の中の一つの天体の表面であることを知らなかった古代の人々は、シンプルに自分の手の届かない上の方に神様がおられると感じていました。高度は神聖さの尺度でもあったのです。そしてその感覚は、どの国の人のDNAにも残されているようで、山の上に宗教的なシンボルを設置せずにはいられません。
モーセは神様から重要なことを聞かされる時、山の上に来るように命じられました。十戒を与えられたのはシナイ山の頂でした。マタイによる福音書によれば、弟子たちが最初に復活したイエスに会ったのは、イエスがあらかじめ指示していたガリラヤ地方の山の上でした。
しかし2節にあるように、神様は山の中に“住む”ほど小さい存在ではありません。助けは山から来るのではなく、天地を造られた主から来るのです。世界を超越した方ですが、私たちが届かない存在ではありません。イエスとしてご自分の造られた世界の中に入って来られたからです。
詩人はまだイエスを知りませんでした。しかし私たちは、主であるイエスを知っています。山が見えないところにいても、話しかけることができる存在、語りかけてくださる存在です。助けはどこか遠くから来るのではなく、あなたと共にいるイエスが助けてくださいます。
2. 主はまどろみもせず眠ることもない (3, 4)
3 主があなたの足をよろめかせることがないように。あなたを守る方がまどろむことがないように。4 見よ、イスラエルを守る方はまどろみもせず、眠ることもない。
どうやら詩人の時代の人々は、人生の歩みの中でよろめくことがあると、神様が手を抜いているように感じたようです。大変なことが身に起こると、神様がうたた寝をしているのではないかと思ったようです。
イエスにはこんなエピソードがあります。
イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。すると、湖に激しい嵐が起こり、舟は波に吞まれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます」と言った。 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。27 人々は驚いて、「一体、この方はどういう人なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。(マタイ8:23-27)
弟子たちは、イエスが嵐の中で波に呑まれそうな舟の中でも寝ていられるような呑気な方だと思ったのでしょうか。しかし、イエスを起こすと「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と言い、風と湖を叱って嵐を静めてしまいました。
私たちは、イエスと共に舟に乗っていた弟子たちと同じ感覚で人生を生きているのではないでしょうか?イエスは彼らに「強い信仰を持ちなさい」と言ったわけではありません。ここを勘違いするとキリスト教も修行して高みに至る精神修養か律法主義に陥ってしまいます。
イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」ときつい調子で言ったというより、「え!信仰あるの?なぜ怖がるの?しょうがないなぁ」と言った感じではなかったかと想像するのです。イエスは私たちの弱さ、臆病さ、頼りない信仰をよくご存知です。そのままでいいからついておいでというイエスの福音には、信仰の勇者とか、信仰を深める、強めるといった表現は似合いません。疑いながら、躓きながら、それでも、十字架にかかり復活された主と共に歩むことが唯一の道であることを信じてついてゆくこと。それが信仰の全てです。 大きいも小さいも、強いも弱いもないのです。
3. 災いからも、病からも (5, 6)
5 主はあなたを守る方。主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。6 昼、太陽があなたを打つことはなく 夜、月があなたを打つこともない。
主は私たちのSOSを聞けないほど遠くにいたり、近くにいてもボーとしていて、私たちを助けそこなたりする方ではありません。ただ近くでもなく、すぐ右にいてくださるとあります。
この最新の日本語訳以外は、ほとんどの訳が「右の手を覆う陰」としていますが、元の言葉は右手とも右側とも取れる言葉なので、この訳では右側にいて全身を覆うとしたのだと思います。なぜ右側かと言えば、戦いの時に左手は盾を持っているので、右の方が手薄だということのようです。左利きの人もいるわけですから、言いたいことは、すぐ隣にいて怠りなく守ってくださる方だということです。
6節では太陽と月が悪いことの象徴として用いられています。照りつける太陽は生き物を弱らせ、旱魃をおこすものです。月は病をもたらすものだと考えられていたのです。
月が人間の精神に悪い影響を与えるという考えも、イスラエルだけでなく広く信じられていたことのようです。ルナティック(lunatic)という狂気を意味する言葉がありますがルナはラテン語で月。月が人を狂わせるという考えからきた言葉です。日本最古の物語と言われる竹取物語にも、「かぐや姫が月を眺めては悲しんでいるのを心配して、「月を見ることは不吉なことだからやめなさい」とやめさせようとした人がいた」ということが書かれています。
しかし、聖書自体の教えでは、月もまた神様の創造によるものであって、実際に病気を起こすというのは人間の言い伝えに過ぎません。これは比喩として受け取るべき表現です。むしろ聖書は、神様が命じたこともない太陽や月や天の万象などにひれ伏さないように強く警告しています。(申命記17:3) 自然災害も病気も創造主である神様以外のものを頼ってコントロールしてもらおうと考えるのは偶像礼拝と同じです。
それでは、科学はどうでしょう。科学を信頼することは、不信仰や偶像礼拝にあたるのでしょうか。そうではありません。自然科学にしても人文科学にしても、それらは神様が下さる恵みです。神様の意思を行う手段となるものです。しかし罪の性質を持つ人間は、それを神様の意思に反することに使い、災いを起こしてきました。科学が悪いのではありません。人が自分の能力を過信し、神様ではなく科学を盲信するという偶像礼拝に陥ることが問題なのです。
そのような現代の偶像礼拝の中で身を守る方法は、神様に近づき、その影に覆われて保護されることだけです。それを具体的にいうなら、イエスと共に、イエスの言葉に従って人生を歩むということに他なりません。
4. 今より、永遠に (7, 8)
7 主はあらゆる災いからあなたを守り あなたの魂を守ってくださる。8 主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。今より、とこしえに。
災いが起こらないというのではありません。災いなら、世界中どこかで今も起っています。災いから守ってくださるというのです。主と共に歩むなら全てのことは益に変えられます。
神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。(ローマ8:28)
これは、神様を愛する者を依怙贔屓するということではありません。神様を愛する者は、完全にではなくても、神様のようにより広い視野で物事を受け取ることができるので、得られた結果はその人にとって実際に益になるのです。反対に神様が、その人にとって最善のことを与えたとしても、その人がそう思わなければ、その人はそれを益とは思えないままです。
神様は、災いと思えることも益に変えてくださる方です。体に治らない傷がのこることもあるでしょう。しかしどんな災いであっても、私たちを滅ぼすことはできません。より正確に言えば、私たちの魂を滅ぼすことはできないのです。
体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ10:28)
ここで命と呼ばれているのはもちろん、この世で生きているという意味での命ではありません。私たちの魂のことです。永遠の命とは肉体に保証されていることではなく、魂に保証されていることなのです。
私たちが地上に生まれた時から、地上から去る時まで、そして永遠に、私たちの魂は、主イエスと共にあって引き離されることはありません。今より永遠に、イエスと共に歩み続けましょう。
(祈り)神様、あなたが私たち一人一人を見守っていてくださることをありがとうございます。
あなたが、一人の人イエスとして私たちの中に来てくださり、私たちが、あなたと共に人生を歩むことができるようにしてくださいました。
日々の歩みの中で、苦難や災いを経験することは少なくありませんが、あなたが共にいてくださることを信じます。
あなたが見守っていてくださることを信じます。
そして、あなたが全てを益と変えてくださることを信じます。
私たちの助けはただあなたからくることを信じてイエスキリストの名前によって、期待して感謝して祈ります。
メッセージのポイント
神様は天地の全てを造られた方ですから、世界の中のどこかにいて、別のところにはいないという存在ではありません。けれども、この世界に住む私たちとは関係なく、この世界の外側に存在するとも言えません。創造主でありながら、ご自分の作った世界の中に、一人の人イエスとして来られるという、特別な方法でこられ、今も聖霊と呼ばれる霊的な存在として信じて従う者のすぐ近くにいてくださる方です。私たちの人生の最初から最後まで、そして永遠に見守っていてくださる方です。
話し合いのために
1. 神様はどこにおられますか?
2. 私たちはどのような意味で永遠に生きられるのでしょうか?
子どもたち(保護者)のために
神様はどこにいるのか考えさせてください。山とか教会とか神社とかお寺とか特定の場所にいるわけではない。世界を作った方だから、世界の中に収まらないかたです。しかしその一方でイエスという一人の人として、ご自分の作った世界に入って来られた不思議な方です。イエスが天に帰られてその姿は見えなくなりましたが、聖霊としてすぐ近くで見守っていてくださることを教えてください。