「私の信仰」から「私たちの信仰」へ

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「私の信仰」から「私たちの信仰」へ

詩編 122

永原アンディ

 今日のテキストは122編です。この詩は、詩人が仲間について、友達について、きょうだいについて、喜びをもって言及している点で、今まで読んできた詩と雰囲気が異なります。
 ここのところ、他者といえば迫害する者や敵対する者ばかりが登場して重苦しい感じでしたが、詩人にも「私たち」といえる仲間が存在することにホッとします。
そこで「私」ではなく「私たち」、「私の神さま」ではなく「私たちの神様」という視点の大切さを考えてゆきましょう。初めに5節までを読みます。

1. 主の家に行こう (1-5)

1 都に上る歌。ダビデの詩。
「主の家に行こう」と人々が言ったとき
私は喜んだ。
2 エルサレムよ、あなたの城門の中に
私たちの足は立っていた。
3 都として建てられ
家々の連なるエルサレムよ。
4 そこへ、もろもろの部族、主の部族は上った
イスラエルの定めとして、主の名に感謝するために。
5 そこにこそ、裁きの王座が
ダビデの家の王座が据えられてあった。

A. 一体として礼拝に招かれている私たち

 詩人を迫害する者は多かったのですが、彼と同じ信仰を持つ人がいたことがこの部分でわかります。主の家を訪れる、つまり神様を礼拝することを喜びとする人々がいたのです。詩人が一番うれしかったことは、その人々が黙々と、それぞれバラバラに主の家に向かって歩いているのではなく、互いに「さあ共に主の家に行こう」と呼びかけ合う声を聞いたことでした。

 折に触れて、礼拝することの大切さをお話ししてきました。特に日曜の朝以外にもつ、一人で捧げる、あるいは家族や小さなグループでの礼拝の大切さを強調してきました。それは、キリスト教会の中で、日曜日の礼拝だけが礼拝だということが常識となっていたからです。しかし、日曜の礼拝には特別な意味があるのです。それは、神様が計画に従って集めた、目に見える一つの教会が、週の初めに一同で献げる中心的な礼拝だということです。

 この日曜の朝の礼拝に私たちはただ同じ時に同じ場所にいてバラバラにそれぞれの礼拝を捧げているわけではありません。

 イエスは、マタイによる福音書 18:19,20 で

「また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」

と言われました。

 パウロが

「一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。」(ローマ12:4,5)

と説明しているように、私たちは、バラバラの「私」の集まりではなく、キリストの体として一体の「私たち」なのです。

B. エルサレムとイスラエル

 今でもエルサレムはイスラエルの一都市であり、イスラエルは一国家ですが、この現在目に見える国家イスラエルと都市エルサレムを、聖書に記されているイスラエル・エルサレムと同一視してはいけません。それをすることによって現代国家イスラエルを神聖視する考えが、ユダヤ教だけでなくキリスト教の中にもありますが、それは世俗的な国家であるイスラエルの行動を無批判に受け入れてしまうことになります。
 恥ずべきことだと思いますが、イスラエルのパレスチナ人に対する弾圧を神の正義だと信じる原理主義的な人々がキリスト教の中にもいるのです。そのような人々は、現代イスラエルの好戦的な民族主義者には同情するのに、パレスチナ人のクリスチャンの人権には関心がありません。
 私は、イエスを主と信じる者は、聖書に出てくるイスラエル・エルサレムを現代国家とその都市と同一視することなく、象徴的な意味を知るべきだと考える者です。それは、教会の象徴です。イスラエルが世界に一つの普遍的な教会を象徴するものであり、エルサレムは普遍的な教会に属する、教派や一つ一つの教会を象徴なのです。

2. 主の家から始まる平和 (6-9)

6 エルサレムの平和を求めよ。
「あなたを愛する人々が安らかであるように。
7 あなたの城壁の内に平和があるように。
あなたの城郭の内に平安があるように。」
8 私の兄弟、友たちのために、さあ、私は言おう
「あなたの内に平和があるように。」
9 我らの神、主の家のために私は願おう
「あなたに幸いがあるように。」

 詩人は、この部分でまず、「エルサレムの平和を求めよ」と呼びかけてから、それが具体的に何を指すのかを、このように言っています。
「あなたを愛する人々が安らかであるように。あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの城郭の内に平安があるように。」
 先にエルサレムを教会の象徴として読みましょうと提案しましたが、私たちにとっては教会は、この建物のことではなく、「私たち」というコミュニティーのことです。そこで、問われているのは、このコミュニティーが誰にとっても安心、安全であるものかということです。
 間違ってはいけないことは、社会と教会を分けて考え、教会の中での平和さえ考えれば、教会の外のことは考える必要がないということでは決してないことです。イエスの最終目的は自分の教会を立てあげることではありません。イエスが実現される「神の国」にはあらゆる人=世界が含まれます。教会の平和は目的ではなく、世界の平和の出発点です。
 私たちは神様に派遣されている「平和の使者」です。それは抽象的な身分を言われているのではありません。実際に使者であることを求められています。それはどこか遠くの紛争地への使者ではありません。最も身近なところに遣わされている「平和の使者」なのです。私たちは、それぞれの家庭の中に、友達の中に、共に働く者の中に遣わされた「平和の使者」です。

 私たちは毎週、日曜日の礼拝の最後に、祝福されて、それぞれの遣わされたところに出て行くわけですが、この出発点であるコミュニティーが平和でなければ、心に平安を与えてくれる者でなければ、遣わされて出て行った場所に平安をもたらすことはできません。却ってトラブルメーカーになってしまいます。皆さんは、どのような人々に向かって「あなたの内に平和があるように。」「あなたに幸いがあるように。」というのでしょうか?それをいう時、決して口先だけで言っているわけではないでしょう。その言葉にふさわしい行動が伴っていると思います。それが可能なのは、ユアチャーチとして、それぞれのところに遣わされてゆく私たちの間に平和があるからです。
 しかし、その平和はそう願わなければ実現しないことです。私たち一人一人は罪の性質を持つという点においては、イエスを信じない人と全く違いはないからです。人の集まるコミュニティーの中で起こる問題なら、何が起こっても不思議はありません。だから心合わせて祈らなければならないのです。
 私たちに聖霊が働き、知恵を与え、神様の体にふさわしく聖いものであることができるように求め続けてゆきましょう。

(祈り)神様、私たちをユアチャーチというあなたの体の一部を共に構成する者として招いてくださったことをありがとうございます。
 私たちが、あなたに派遣されたところで平和をもたらす者となれるように、あなたの愛で、力で、知恵で満たしてください。
 ユアチャーチが世に平和をもたらす教会となれるように、まず私たちをあなたの平和を満たしてください。
 あなたからだにふさわしく平安と癒し、慰め、励ましのあるコミュニティーとしてください。 イエスキリストの名前によって、期待して感謝して祈ります。


メッセージのポイント

ユアチャーチはキリストの体の一部であり、私たち一人一人はその中の一つの部分です。それぞれが遣わされているところは違っても、イエスの体に一部分であるユアチャーチの中の一部分としてそこにいるのです。私たちが週の最初の日に、共に心を合わせて礼拝するのは、それぞれが同じ体の同じ部分として働くためです。

話し合いのために

1. なぜ「私の」だけではなく「私たちの」信仰というべきなのですか?

2. イスラエル、エルサレムはあなたの信仰にとってどのような意味がありますか?

子どもたち(保護者)のために

なぜ私たちが日曜日の朝、同じ場所に集まり共に礼拝するのか。その理由を今回引用したイエスの言葉、パウロの言葉を用いて話してあげてください。