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日曜礼拝・英語通訳付
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主に信頼する人
詩編 125
永原アンディ
今日も詩編を通して語りかけてくださる私たちの神である主、イエス・キリストの語り掛けに耳を傾けましょう。今日は125編です。初めに2節まで読みましょう。
1. 主が私たちを囲んでいてくださる (1,2)
1 都に上る歌。
主に信頼する人はシオンの山のように
揺らぐことなく、とこしえにとどまる。
2 エルサレムを山々が囲み
主はその民を囲んでおられる。
今より、とこしえに。
注目したい言葉は、今日のお話全体の題とした「主に信頼する」人です。「主に信頼する人は永遠に揺らぐことがない。」 それがこの詩の主題です。
エルサレムが山々に囲まれて守られているように、主の民は主に囲まれて永遠に守られるというのです。
神様がその翼の下に私たちを置き守ってくださるという表現は多く見られますが、主がその民を囲んでおられるという表現はほとんどありません。詩編139編に、「(あなたは)前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置かれる」という一節がありますが、聖書の他の箇所には見当たりません。
主に信頼する人ととはどのよう人のことを指すのでしょうか?ここでは、主に信頼する人がすなわち主の民であると言われていることがわかります。もちろん当時は主の民とはイスラエル人のことでした。
しかしイエスが来られて、神様が限定的な民族神ではないことが明らかになりました。主の民とはクリスチャンのことでしょうか?クリスチャンは全て「主に信頼する人」と言えるのでしょうか?
もっと率直に聞くなら、あなたは自分が「主に信頼する人」だと思いますか?という問いになるでしょう。それは、誰を信頼して生きるのか?という問いです。皆さんの多くは、イエスを主と信じている人だと思います。しかし問われているのは「イエスを神と信じるか?」ではなく「あなたはイエスを信頼して歩んでいるのか?」なのです。
そこで「信じる」と「信頼する」の違いを明らかにする必要があると思います。なぜなら、イエスを主なる神であると信じていても、彼を信頼して人生を歩んでいない人は大勢いるからです。
「信じる」ことは心の中の事柄です。それに対して「信頼する」ことは、心の中にとどまっているものではありません。生活に反映されるものです。
私は時々、家のTVで映画を見るのですが、その時にはできるだけ映画らしくしたいので照明を消して、ポップコーンと飲み物も用意して、ここが肝心なのですが音声はTVからではなく前後左右、六つのスピーカーから出すのです。テレビもアンプも古いものですがなかなかの臨場感を楽しめます。主を信頼している人は、神様の恵みを全方向から実感するような臨場感で受け取っている人です。
「聖書の神を信じています。」と言いながら、自分のこと、誰かのこと、地位や所属する組織に信頼を置いているなら、実はステレオでもないテレビの小さいスピーカーの音で映画を見る程度にしか、神様の恵みを受け取ることができません。
先週のお話を覚えているでしょうか? 主を信頼する者にとっては、この神様に囲まれている、神様の恵みの中に生かされているというこそ「現実」なのであって、日々の悩み、困難が逃れられないことが「現実」なのではありません。
人生の嵐はイエスに来ていただくことによって嵐ではなくなるのです。
だからこそ、私たちはこの週の初めの日を、自分の一週間の航海に乗り出す時に、イエスに同乗していただくために、心を開き礼拝することから始めるのです。
2. 悪人と正しい者 (3-5a)
3 悪人どもの笏が正しき人々の割り当て地に
とどまることなく
正しき人が不正に手を伸ばすことがないために。
4 主よ、よい人々、心のまっすぐな人々に
幸いをもたらしてください。
5 しかし、曲がった道にそれる者らは
悪事を働く者らと共に
主が去らせてくださるように。
詩人はこの部分で四つのことを神様に願っています。
悪人が正当な権利を持つ人々の土地を支配し続けることがないように.
b. 正しい人が不正に手を染めることのないように
c. 心のまっすぐな人(良い人)に幸いがもたらされるように
d. 曲がった道にそれる人を、悪人らとともに追い出してくださいますように
土地を奪われるということが、さまざまなレベルで起こります。個人の土地が悪人によって騙し取られる、地上げされるというようなことはいつの時代、どの地域にも起こります。大きな国によって小さな国が占領されて、併合されたり、属国にされたりします。子供達の中でさえ、強い者が弱い者を支配して、苦しめ、傷つけ、命が失われるようなことさえ起こります。
私たちが、これらのことを自分のために、愛する人々のために祈ることは正しいことです。ただ気をつけなければならないことがあります。それは、悪人とは誰か、正しい者とは誰かということについての認識です。
国々は自国民を戦争に駆り出すために自国こそ正しく、敵国人は命を奪うべき悪人だと人々を洗脳してきました。ホロコーストも原爆投下もそのような考え方によって起こった悲劇です。第二次世界大戦が終わってからもさまざまな場所で民族浄化的な行為が続いてきました。
旧約の時代では、神様はユダヤの民族神と理解されていて、旧約聖書もそういう視点で描かれています。しかし創世記の最初の部分を見れば、神様はユダヤ民族だけの神様ではなく、すべてのものを作られた創造神であることは明らかです。そのような神様の目から見れば、人の善悪の違いの基準は人種や国籍や宗教の違いではありません。それは創造主に対する態度です。
「心のまっすぐな者」とありますが、それは神様に向かって心がまっすぐであるということです。神様の導きに従って歩もうとする心です。本当に神様を見上げるなら、偏狭な民族主義・国粋主義でいられるわけがありません。
1. の部分で、信じることと信頼することの違いについて考えましたが、神様を信じていると言いながら国家や民族に信頼を置いている人々が、残念ですが多くいるのです。そうしてキリスト教国のする戦争は正しく、異教徒は殺されて当然とする考え方が根強く残っています。
そしてそれが、今まさにイスラエルで起こっている出来事を引き起こしたのです。
3. 平和の祈り (5b)
イスラエルの上に平和があるように。
今日の詩の準備を進めていた真っ最中に、ハマスによるイスラエル攻撃が始まりました。なんと恐ろしいタイミングでしょうか?これが今日の詩の結びの言葉です。
イスラエルの上に平和があるように!
もし私たちが旧約聖書を表面的に読めば、今イスラエルで起こっている出来事について、イスラエル政府に一方的に肩入れして、ハマスが悪者、イスラエルが正しき者ということになるのです。
私たちはハマスを追い出してくださいと祈るべきなのでしょうか?実際にそのような発言がYouTubeなどでもされています。しかしそんな単純なことではないのです。ハマスの行為は決して正当化できません。ハマスもまた強権的にガザ地区を支配していると思います。しかし、パレスチナ人を狭い地域に押し込め抑圧し、結果としてハマスのような勢力を産んでしまったことに、イスラエル政府には負うべき責任があります。そのイスラエルを後押ししてきた欧米のキリスト教国にも責任があります。
現代のイスラエルは欧米キリスト教国の後押しによってすでにパレスチナ人が多く住む場所に人為的にまた政治的に作られた国家です。キリスト教国はアジアアフリカ大陸をことごとく植民地化して富を奪ってきました。私は、キリスト教徒がイエスの思いから随分遠ざかってしまっていると思っています。
イエスなら、ガザ地区で苦しむ子供達に一番同情を寄せたのではないでしょうか?
イスラエルの上に平和がありますように、それは決して他の国や民族の苦しみの上に実現するものではありません。パレスチナに平和が来ない限りイスラエルに平和は実現しません。全ての人の平和の一環としてイスラエル人の上にも、パレスチナ人の上にも平和があるように自分が何人であれ、祈りましょう。
アッシジのフランチェスコの平和の祈りは、平和が実現するために、自分自身がイエスによって平和を運ぶ者にならせてくださいという祈りです。
そして平和を運ぶ者になるとは、憎み合うところに愛を、偽りの満ちるところに真実を、絶望している人に希望を、悲しんでいる人に喜びをもたらす人になること。そして、私たちを求めるより与える者に、理解されるより理解する者に、愛されることよりも愛する者に作り変えてくださいという祈りです。
イスラエルであれ、パレスチナであれ、ウクライナであれ平和を求めるなら、また職場であれ、学校であれ、家族であれその中に平和を求めるなら、私たちが最初に求めるべきことは、自分自身と神様との平和を回復して、主を信頼する人となることです。
(祈りにかえて) きょうは私が祈るのではなく、一緒に平和の祈りを歌って、そのままワーシップタイムに入っていきましょう。
メッセージのポイント
クリスチャンであるということは、ある教派、教会のメンバーであるといったような所属ではなく、主イエスに信頼して歩む者であることを意味しています。イエスの愛と義には矛盾がありません。私たちはイエスの愛と義を知ってはいますが、それとは異なる自分の愛着、自分の正義が行動の基準になりがちです。しかしそれでは、イエスを信頼して歩んでいるとは言えません。イエスならどうなさるかを知ることができるように、そしてそのように歩むことができるように祈りつつ歩みを進めましょう。
話し合いのために
1. あなたにとって「主に信頼する」とは?
2. あなたはどのような平和を求めて祈りますか?
子どもたち(保護者)のために
悪人と善人(あるいは正しい人)について考えさせてください。人間の考える善悪の基準は相対的であること、自分(たち)が正しいと考えがちであることを知ってもらいましょう。その上で神様に信頼することこそ正しいことであり、平和を実現するために大切なことを伝えてください。