イエス様の死を「食べて」生きる

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イエス様の死を「食べて」生きる

ヨハネによる福音書6:41-59

池田真理

 今日もヨハネによる福音書の続きで、今日は6:41-59を読んでいきます。前回と今日と次回の3回を通して、「イエス様は命のパンである」というテーマが扱われている箇所です。その中でも今日の箇所が核心部分です。特に48節以降がメインですが、その前の41-47節では前回も確認した大切なことがより詳しく語られています。早速、41-47節から読んでいきましょう。

A. 信仰は神様が与えてくださるもの (41-47)

41 ユダヤ人たちは、イエスが「私は天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやいて、42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか。」43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。44 私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとへ来ることはできない。私はその人を終わりの日に復活させる。45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る。46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。47 よくよく言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

 前回読んだ箇所でも、イエス様は、私たちが信仰を持つのは私たち自身の力によるのではなく、神様の働きによるものだということを話されましたが、そのことをここでさらに詳しく言われています。

 ここでユダヤ人たちがイエス様に対して持った疑問や不信感は、私たちにも共通するものです。一人の人が「自分は天から降ってきた」と言うのを聞いて、すぐにそれを信じられる人は誰もいません。イエス・キリストという歴史上の人物の一人が天的な存在で、神と同等な存在であるということは、とても非常識な考えで、私たちがすぐに受け入れられないのは当然です。

 だから、イエス様もこう言われています。「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとへ来ることはできない。」(44節)神様が働いてくださらなければ、誰もイエス様を信じる信仰は持てません。

 私たちには見ることも聞くこともできない神様がどのように私たちに働きかけてくださるのかというと、それは聖霊様によります。今日の箇所には聖霊様への言及はありませんが、神様の霊以外に神様のことを私たちに教えられる存在はいません。聖霊様が私たちに働く時、私たちは神様のことを知るようになります。それが、イエス様が言われた預言者の書で書いてあることです。

(エレミヤ31:34) そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。

 ただ、聖霊様によって導かれて神様のことを知るということは、私たちが理性を手放して、非常識にしか思えないことを理由もなく無批判に受け入れることではありません。イエスという一人の歴史上の人物がこの世界を造られた神様ご自身であるということが真実であると判断していいのか、自分で考えることは大切です。その考える作業の中に、聖霊様は働かれます。そして、信じることができるのは、私たちの判断力や思考力の良さなどではなく、聖霊様の働きです。

 それでは、今日のメインパート、48節以降の箇所に入っていきましょう。まず48-51節を読みます。

B. イエス様は命のパン
1. 一度切りのパン (48-51)

48 私は命のパンである。49 あなたがたの先祖は荒れ野でマナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51 私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉のことである。」

 イエス様は既に35節で「私が命のパンである」と言われましたが、ここでももう一度それを繰り返されています。神様が私たちに与えてくださった命のパンは、イエス様ご自身であるということです。
 今読んだ箇所で注目したいのは、「天から降ってきた」と「食べる」という動詞です。日本語でも英語でも原語のニュアンスが伝わらないのですが、原語ではこれらの動詞は一度切りの動作を指しています。つまり、イエス様というパンは一度だけ天から降ってきたのであり、私たちはそのパンを一度食べるだけで永遠に生きることができるようになるという意味です。これは、私たちの感覚とは少し違うかもしれません。私たちは一度信じると決心しても、何度も揺れ動き、その度に「それでも信じる」と決心するからです。でも、ここで強調されていることは、イエス様が天から降ってきて命のパンとなられた出来事は歴史上一度切りであるということです。そして、私たちの救いの根拠は、その出来事を受け入れるかどうかという一点にかかっているということです。
 そして、ここからが最も重要なところですが、イエス様は単にこの世界に来られだけではなく、私たちに食べられるための肉となられました。52-59節を読んでいきます。

2. イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むとは (52-59)

52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と言って、互いに議論し合った。53 イエスは言われた。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。54 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。55 私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。56 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。57 生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。58 これは天から降って来たパンである。先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる。」59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

 イエス様はここではっきりと「私の肉を食べ、私の血を飲みなさい」と教えていますが、これを文字通り受け取るなら「人喰いになれ」という意味で、それではここで人々が気味悪がって驚くのも当然です。また、当時のユダヤ人はもう一つ別の意味の嫌悪感を感じたはずです。それは、旧約聖書では生き物の血は命を象徴するもので、どんな動物の血も飲んではいけないという掟があったからです。ですから、当時のユダヤ人にとってイエス様の言葉は非常識で冒涜的でしかありませんでした。
 それでは、「私の肉を食べ、私の血を飲みなさい」と教えたイエス様の真意は何だったのでしょうか?まず一つ言えるのは、聖餐式で使われる言葉は「イエスの体」ですが、イエス様は「私の肉」という、より生々しい言葉を使っている点です。もう一つは、旧約聖書で血は命を意味すると同時に、暴力的な死を意味することです。この二つを合わせて考えると、イエス様がここで言いたかったのは、ご自分の肉体の苦しみを伴う暴力的な死です。
 ここで、もう一つ注目したい言葉があります。「食べる」という動詞です。原語では、53節までの「食べる」と54節以降の「食べる」は違う動詞です。53節までの「食べる」esthioは、「消費する」とか、栄養を「摂取する」とか、無心に「ガツガツ食べる」というような場合に使われる動詞で、聖書の中では圧倒的にこちらがよく使われています。一方で、54節以降の「食べる」trogoは聖書の他の箇所ではほとんど使われていません。「噛む」とも訳せる言葉で、モグモグ、ムシャムシャ、ボリボリ、バリバリというような音を立てて食べる様子にも使われます。また、「常食にする」とか、「肉食性である」とか「草食性である」とか、習慣を表すこともあります。英語NIVの57・58節で “feed on” と訳されているのは、このことが意識されているからだと思います。
 これらのことから分かるのは、イエス様が「私の肉を食べなさい」と言った時、イエス様は私たちがイエス様の死を、日々、文字通り、生々しく味わうことを意味されたということです。

C. イエス様の死を食べて生きるということ

 それでは最後にまとめてみたいと思いますが、イエス様の苦しみと死を、日々、生々しく味わうとは、具体的にどういう意味なのでしょうか?それは、一つには、イエス様が私たちのために苦しんで死なれたと実感することで、もう一つは、イエス様は私たちと共に苦しんでおられると実感することです。

 まず、イエス様は私たちのために死なれたということに関しては、私たちはまず、誰もが自分勝手で自己中心的な罪人であるということを知らなければいけません。私も含めて、全ての人は自分が正しいと思い込んでいて、自分の間違いを認めず、他人を傷つけたり見下したり排除したりしていることに気がつきません。私たちは皆、「赦された罪人」です。イエス様がご自分の命を捧げて私たちの罪を赦してくださっていなければ、私たちは文字通り「救いようのない罪人」のままです。その恥ずかしさと情けなさを、私たちは日々の生活の中で謙虚に受け入れなければいけません。そうでなければ、イエス様をリアルに「食べて」いることにはなりません。でも同時に、イエス様の赦しと愛の大きさに驚き喜ぶ恵みも私たちには与えられています。それは、イエス様を生きる糧として常に頼りにしている者の最大の特権です。それが、文字通り、イエス様の愛を噛み締めるということだと言えるかもしれません。

 一方で、イエス様は私たちと共に苦しんでおられるということについては、私たちは自分の苦しみをイエス様の苦しみとして受け入れるということが必要です。イエス様が十字架で体の苦痛に耐えられたように、私たちも病気や障がいに苦しまなければいけないことがあります。また、イエス様が無実の罪で捕えられ、弟子たち全てに見捨てられて、十字架で孤独だったように、私たちも人に理不尽に傷つけられて孤独に苦しむことがあります。そしてまた、この世界の不条理や不正義に対して私たちにできることが何もないように感じる時も、イエス様もまた、同じ現実に直面していたことを忘れてはいけないと思います。そして、神様は、決して私たちが苦しむのをよしとされているのでも無関心に放置しているのでもなく、私たちを取り巻く苦しい現実は決してご自分の望んでいることではないことを教えるために、イエス様としてこの世界に来られました。イエス様は十字架で死なれて終わりではなく、復活されました。だから、私たちは、個人的な苦しみの中にも、社会全体の苦しみの中にも、イエス様の苦しみと復活の希望を見ることができます。そして、それによって苦しみは少しずつ希望に変わります。私たちには悲しみと不安しかなくても、神様には見えている希望があると信じることができます。また、私たちには希望を信じる力がなかったとしても、その弱い自分を神様に委ねていくことができます。それが、イエス様の苦しみを自分の苦しみとして味わうという、私たちの日々の闘いです。

 最後にもう一度イエス様の言葉を読んで終わりにしたいと思います。56節です。

56 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。

私たちの中にいてくださるイエス様、そのイエス様の中に私たちは生かされているということを、私たちが日常の中でリアルに知ることができるように、聖霊様の助けを求めて歩んでいきましょう。

(お祈り)主イエス様、弱い私たちを助けてください。苦しい時に、あなたが共にいてくださることを教えてください。私たちには見えない希望があるのだと信じられるように助けてください。私たちを謙虚にさせてください。自分の間違いや小ささを恐れずに受け入れて、あなたに造り変えられていくことを受け入れられるように導いてください。あなたが私たち全てを愛して、この世界を愛しておられることを、忘れないようにさせてください。あなたがこの世界に来られて、私たちのために命を捧げてくださった意味を、日々、教えてください。主イエス様、あなたに感謝して、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエス様はこう言われました。「(私)の肉を食べ、(私)の血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」イエス様の肉と血は、イエス様の十字架での苦しみと死を指します。それらを食べて飲むということは、イエス様の苦しみと死を自分の生きる力として頼りにするということです。それは、イエス様は自分と共に苦しんでおられ、また、自分のために死なれたのだと知り、そこに希望を見出すことです。苦しみはすぐに希望に変わるわけではありません。そこには、日々の具体的な葛藤の中での私たちの闘いがあります。だから、イエス様はわざと生々しい表現を使いました。

話し合いのために
  1. 神様は私たちの苦しみを取り除くよりも、共に苦しまれる方であるということについて、どう思いますか?
  2. 希望を見出せない時、どうすればいいですか?
子どもたち(保護者)のために

この聖書箇所は子供たちには難しいと思います。イエス様の体(パン)を食べ、イエス様の血(ワイン)を飲むという聖餐式の意味を子供達に話してあげてください。言葉だけ聞けば気持ち悪いと思うのが自然だと思います。イエス様の苦しみが、なぜ私たちの救いになるのか、話してあげてください。