虚しく生きる方法

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虚しく生きる方法

詩編 127:1, 2

永原アンディ

 今日も詩編を通して語りかけてくださるイエス・キリストの言葉に耳を傾けましょう。今日は127編です。この詩は前後半で異なる内容が歌われています。前半は「人のあらゆる営みも、そこに神様の働きを認めないなら虚しい」ということ。そして後半は、子孫、特に息子を得ることについての祝福が歌われています。この後半の部分は、内容的には次の128編の内容と繋がっています。そして、この127編後半と128編は、その記述の受け取り方によって大きく意味の変わる、聖書の読み方を根本的に問われる重要な箇所なので、クリスマスのメッセージシリーズの後、来年の初めに合わせてお話しすることにします。というわけで、今回は1、2節だけを取り上げてお話しします。

1 都に上る歌。ソロモンの詩。もし、主が家を建てるのでなければそれを建てる人々は空しく労苦することになる。もし、主が町を守るのでなければ守る人は空しく見張ることになる。
2 空しいことだ朝早く起き、夜遅く休み苦労してパンを食べる人々よ。主は愛する者には眠りをお与えになるのだから。

1. 背景

詩編120-134は冒頭に「都に上る歌」と名付けられていて当時の神殿での祭儀で歌われた一連の歌集とされています。中にはそれに付け加えて「都に上る歌・ダビデの歌」と書かれているものが3編あります。 そして、「都に上る歌・ソロモンの歌」という題名はこの詩編127編だけです。
 それは、「家を建てる、町を守る」といった事柄が、ソロモンの神殿建設の業績や、彼のすぐれた政治に結び付けられて伝承となったためのようです。実際には、バビロニアによる支配から解放された後の、二回目の神殿建設の時代が背景になっていると多くの学者は考えています。しかしこの箇所は、今を生きる私たちにも大切なことを教えてくれています。

2. 主が建て上げてくださる私たちの人生 (1a)

もし、主が家を建てるのでなければそれを建てる人々は空しく労苦することになる。

 現代では、多くの人にとって家は建てるものというよりは買うもの、あるいは借りるものでしょう。 イスラエルの民にとって家を建てるということは、個人の住宅以上に、神殿の建設という意味の方が強く意識されていました。それは、周りの強国の侵略による破壊と再建という記憶から、次にお話しする「町を守る」という事柄とも深く関わっていることでした。そのことから聖書には「家を建てる」という行為を比喩として使われている箇所が多くあります。
 預言者は、神殿の再建を後回しにして自分たちの家の再建に夢中になっている人々に警告を与えましたが、神様の真意は決して自宅か神殿かといった物質的な事柄ではなく、神様の思いを聞こうとする態度を求めることでした。

 イエスがこの世に来られて、当時の宗教指導者たちを厳しく非難したのは、彼らが神様のためと言いながら、神様の意図を受け取らず、空しい営みをしていたからです。彼らが人々に求めた神殿の祭儀や律法遵守が、神様の意図にそぐわず、人々を苦しめていたのです。そして、イエスは一人ひとりがしっかりと神様に結ばれることを勧められました。これは当時の宗教指導者にとっては受け入れ難いことでした。そして彼らは人々を扇動してイエスを字架にかけてしまったのです。
 イエスはそのことを、詩編118編を引用して、そこに書かれていることが、自分についての預言であることを指摘しました。そして正にその通りになったのです。

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石これが隅の親石となった。これは主がなさったことで私たちの目には不思議なこと。』(マタイ 21:42)

 宗教指導者たちがイエスの真意を受け取れず、社会から抹殺したはずのイエスがよみがえり、そこからキリスト教会は始まりました。そして彼に従って歩もうとする者には、家を建てることになぞらえて、次のように人生の歩み方を教えました。

「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞いても行わない者は皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」 (マタイ7:24-27)

私たちの人生を主イエスがたてあげられるとは、私たちが、日々イエスの言葉に耳を傾け、彼に教えられながら進んでゆくということなのです。

3. 主が守ってくださる私たちの人生 (1b)

もし、主が町を守るのでなければ守る人は空しく見張ることになる。

 町を守るということは私たちがあまり具体的に考えることではありませんが、私たちに守るべきものは多くあるでしょう。
 みなさんにとって第一に守るべきものを思い浮かべて下さい。そうしたら次に、それを自分の能力によって守ることができるかどうか考えてみて下さい。
 守りたい大切なもの、第一のことでなくても失いたくない物事は多くあると思います。しかし実は、自分の力で守ることのできるものなど私たちにはひとつもないのです。
それは個人でも集団でも同じことです。どんなに力を蓄えても、必ずそれ以上に強い脅威が現れ、心の落ち着く暇はありません。

 そこでお勧めしたいことは、このテキストに従って考え方を変えることです。私たちの人生を守るのは自分ではなく主イエスだということを受け入れるということです。人生は決して思い通りにはいきません。失うものも多くあります。しかし、思いがけず与えられたものも少なくなかったはずです。イエスは、私たちに不可欠なものを取り去ったりはなさいません。そして、私たち自身の存在をも守っていてくださるのはイエスです。

4. 労働は虚しい? (2)

空しいことだ朝早く起き、夜遅く休み苦労してパンを食べる人々よ。主は愛する者には眠りをお与えになるのだから。

 働きすぎてはいけないよ、ということでしょうか?早起きは空しいのでしょうか?このことについてイエスがどう考えておられるかを確かめてみましょう。マタイによる福音書の6章に、この事柄に関連する幾つかのイエスの言葉が記録されています。

そ「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。 あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。 なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。 だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 イエスは無計画にその日暮らしをすればよいと言っているわけではありません。勤勉であることも勧めています。

 ただ、イエスはこの話をされる直前に、「地上に宝を積んではならない。宝は天に積みなさい。あなたお宝のあるところに心もあるのだ」「誰も二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは神と富の両方に仕えることはできない。」と言われたのです。勤勉は良いことですし、蓄えは多い方がいいに決まっています。しかしそのことを追求し始めると、そのことばかりに心が向き、「思い煩う」ことになります。 「思い煩い」は人の心から神様への思いを締め出してしまいます。イエスはそのことを警告しているのです。

 働くという営みもまた、主が働くのでなければ空しいのだということでしょう。それは、働くことの動機の問題とも言えます。最近気になっているコンパクトな車があるのですが、ちょっと他の車にはないオシャレな色が何色かあって、街ですれ違うと「いいなあ」と思ったりするわけです。それで後からネットで、いくらぐらいするのだろうなどと調べてみると、みなさんもご存知のように、関連の広告が次から次へと画面に現れて、いつの間にか「それを自分が持つことは”ミココロ”なんじゃないかと思い始めたりしてしまうのです。

 ある人類学者が「結局、人の欲望とは模倣なのです」と言っています。それを簡単にいうなら、「誰かが持っている、使っている、食べている、着ていることを知るまでは、私たちはそれを欲しがったりすることは決してない」ということです。 欲望自体は決して悪いことではないのです。それは生活に張りを与えますし、実際それがさまざまな技術を発展させてきました。私たちが知るべきことは「欲望には際限がない」ということです。

 自分の欲望を満たすために働こうとするなら際限はありません。欲望は満足することを知らないからです。それは神様に代わる偶像になり、わたしたちを空しく憐れな偶像礼拝者に転落させてしまいます。

 そこで、働くということについても、私たちは考えを変える必要があるのです。家を建てたり、街を守ったりすることと同様に、私たちの仕事も、主がなさっていることなのです。実際そこにいて、頭を使い、手を動かし、汗をかくのは私たちです。しかし、私たちがイエスを主と認めているとするなら、私たちの働きの責任者もまたイエスだということです。それがうまくいっている時も、そうでない時も、思い煩うことなく主に用いられて働いていることを感謝して歩みましょう。

5. 教会を建て上げる

 この教えは、お話ししてきたように、私たち一人一人の人生の営みに当てはめて考えることも大切ですが、教会の歩みについても大切な示唆を与えてくれています。みなさんも、今日の週報の写真のスペインのバルセロナにあるサグラダファミリアという教会堂をよくご存知だと思います。1882年に着工して今も建設途中です。当初は完成に300年くらいかかると言われてきましたが、さまざまな技術が進歩して3年後の2026年には完成予定と発表されました。けれども、残念ながら新コロナウイルスの世界的な感染拡大によって、さらに数年伸びてしまう見通しです。それにしてもすでに150年近くかけて作られてきたということになります。全部で18の塔を持つ予定で、2021年に全体で2番目に高い塔となる9番目の塔が完成したそうです。

 それが偉大な建物であることは間違いありませんが、それが教会とは言えない「教会堂」であることも忘れてはなりません。目に見えるものを、目に見えない大切なものと間違えれば、それは偶像礼拝となります。教会堂は信仰のために役立つものですが、教会堂を建てたり、守ったりすることが信仰ではありません。しかし「教会」は、私たちが信じるべき事柄であることが、使徒信条やニカイア信条で言い表されていることからわかります。そこには、「私は聖なる普遍的な使徒的な唯一の教会を信じます。」と言われています。それは建物ではなくイエスを主と信じ、イエスに従って歩もうとする人々の集まりです。その主はイエスであり、それはキリスト・イエスの体と呼ばれます。教会は使徒言行録に記されているペンテコステの時に始まり、サグラダ・ファミリアはもうすぐ完成しそうですが、教会は世の終わりまで建設中であり、完成を見ることはないでしょう。
 私たちは、この神様の働きである「教会を立て上げる」スタッフの一人として人生を歩んでいます。 聖なる普遍的な使徒的な唯一の教会の一部分であるユアチャーチの担当者として、ユアチャーチを神様の愛が表されているコミュニティーとしてより良いものとしてゆく役割を担っているのです。  

 みなさんは聴衆としてここにいるのではありません。神様の愛がこの世界にもっとはっきりと表されるために招かれ、それを受け入れ、そのための働き手として生きているのです。
 もちろん総監督はイエスです。イエスなしに教会を立てても空しいとは、どのようなことを意味しているのでしょうか?それは主の意向に耳を傾けず、自分の思いで教会を営むということです。ユアチャーチのユアは第一に神様のことです。ここはアワチャーチでもマイチャーチでもありません。何度でも「私たちはあなたの民です。これはあなたの教会です。」と告白すべきです。そうでなければ、私たちはそのことを簡単に忘れて自分たちの城を築くことになってしまいます。  そして、第二のこととして、神様がここに招こうとしているすべての人々に向かっては、ここは「あなたのための教会です」といえる者でありたいという意味でユアチャーチなのです。 

(祈り) 神様、私たちの日々の歩みを導いていてくださってありがとうございます。
その営みの全てにあなたが責任を持っていてくださり、導いていてくださるので、本当は思い煩う必要はないはずなのですが、あなたへの信頼を忘れ、他からの保証を得ようと思い煩う、わたしたちをお赦し下さい。
わたしたちを、日々あなたの霊で満たし、あなたと共に人生を建て上げる者、守る者、教会を建て上げる者として下さい。
私たちが本当の主を忘れ、迷い出して空しい人生を歩むことがないように、あなたの語りかけに注意深く耳を傾ける者として下さい。
イエス・キリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

自己責任という言葉に妨げられ互いに助け合うことが疎かにされる社会に生きる私たちですが、実は神様が一人一人の人生を建てあげ、それを守ってくださる責任者です。その私たちが組み合わされて存在する教会の歩みも神様によって導かれているものです。教会は組み合わされた者が互いの強さを生かし合い、弱さを補い合うコミュニティーです。神様はそれを社会全体のお手本として世界に存在させているのです。 

話し合いのために

1. 主が私の人生を建ててくださる、守ってくださるとはどういうことですか?

2. 第2節を読んで思ったことを話し合ってみましょう

子どもたち(保護者)のために

子供達はその人生を始めたばかりですが、すでに助けを誰に求めれば良いのかわからず苦しむ子供達が存在します。マタイによる福音書 6:25-34と7:24-27 を一緒に読んでイエス様が一緒に歩んでくださること、イエス様を知る大人たちが喜んで助けてくれる教会があることを伝え励まして下さい。