❖ 見る
日曜礼拝・英語通訳付
❖ Audio (Message)
❖ 読む
深い淵の底から主に叫べ!
詩編130, マタイによる福音書 26:36-39
永原アンディ
来週は、主イエスの復活を記念するイースターです。イエスはその一週前のこの日曜日に、エルサレムのにロバの子に乗ってやってきました。その時、人々がシュロの葉を振ってイエスを出迎えた、とヨハネによる福音書は伝えています。それでこの日曜日はシュロの日曜日と呼ばれています。預言者ゼカリヤはこの出来事を600年も前にこう預言していました。
娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る雌ろばの子、子ろばに乗って。 (ゼカリヤ書9:9)
イエスは、もちろんこの預言を知っていて、自分がメシアであることを自覚して子ろばを借りてエルサレムに入ったのです。この日から十字架、復活に至るまでの1週間の出来事を福音書は多くのページを割いて記録しています。福音書はどれも、クリスマスの出来事を例外として、イエスの宣教の開始から復活までの約3年間の記録なのですが、その最後の1週間について、章の数で言えば全体の1/3、ヨハネに限って言えば半分近くをこの週の出来事に割いています。
受難週と呼ばれるこの1週間、どれか一つの福音書を選び毎日少しずつ読んでみてはいかがでしょうか?
毎年、シュロの日曜日には普段のメッセージシリーズから離れて、この時期にちなんだテキストからお話ししているのですが、今回は詩編のシリーズを続けることにしました。それは今回の詩編130編がイエスの受難に重なる内容だったからです。
1. 主に叫び求めよ (1,2)
初めの2節を読みましょう。
都に上る歌。主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。わが主よ、私の声を聞いてください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。
皆さんは、今までの人生の中で絶望的といえるような状況に置かれたことがあったでしょうか?詩人は深い淵の底から叫び、嘆き、祈っています。確かに叫びは聞かれていると信じてはいても、感覚的には神様は遥か遠く上の方におられて自分は暗黒の中に捨て置かれているような気持ちでいるようです。
実は、私たちの主、イエスもそのような状況に置かれていました。それは、この受難週の木曜日のことでした。マタイ、ルカも記していますが、マルコによる記録を読んでみましょう。
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「私が祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく苦しみ悩み始め、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 少し先に進んで地にひれ伏し、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」(マルコによる福音書14:32-36)
イエスは何を苦しみ悩まれたのでしょうか?もちろん、これから起こるであろう、死に至る暴力にさらされるということでもあったでしょう。
しかし、もっと彼を苦しませたのは、神様から遠く離れ、深い淵の底に存在している人間のありさまだったのではないでしょうか?イエスはその代表として神様に裁かれようとしていたのです。
「この時を過ぎ去らせてください。この杯を私から取りのけてください」 どんなことについても、私たちはイエスのように叫び求めることができます。しかし、イエスと共に人生を歩みたいと思うなら、イエスの祈りの最後の部分を無視することはできません。「しかし、わたしの望みではなく、御心のままに」そうしてイエスは、十字架につけられることから逃げ出すチャンスはいくらでもあったのに、抵抗することなく十字架にかけられました。
叫び求めることは、どんな時であっても神様との関係を諦めないということです。 残念ながら、多くの人は叫び求める事をやめて成り行きに身を任せています。 それは神様の与えようとしている恵みから、さらに自分を遠のけることになります。
叫び求めることと同時に、「しかし、わたしの望みではなく、御心のままに」という意識を持つことは、理念としても、実際に心を落ち着かせる効果があるということでも大切なことです。先週マーティンが話してくれたヨブ記の主人公も、理不尽な苦しみ、悩みの中で叫び求め、最後にイエスのように神様に我が身を委ねる心境になりました。
神様が私たちの叫び、祈りに応えてくださるというのは、私たちの望むタイミングで、私たちの思い通りになるということではありません。私たちにとって、自分の思い通りになるということは決して最善ではありません。私たちのうちには善を求める一方で、自分の内には善がないからです。アドルフ・ヒトラーのような人が権力を持ち自分の思い通りに事を進めた結果がどのようなものかを私たちはよく知っています。使徒パウロはローマの信徒への手紙でこのように説明しています。
私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。(ローマの信徒への手紙 7:18-20)
この私たち人間の持つ共通の性質を詩人は次のように言っています。
2. 自身の罪深さを知れ (3,4)
主よ、あなたが過ちに目を留めるならわが主よ、誰が耐えられましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあります。あなたが畏れられるために。
クリスチャンがよく聞かれる質問に、「神様がいるならなぜ世界はこのように悲惨な状態なのか?神様が本当にいるのなら、悪を滅ぼしてもっとまともな世界にしているはずだ。」というものがあります。みなさんならこの問いにどう答えますか?パウロの説明も、詩人のこの言葉もこの問いに答えるための大きなヒントです。
多くの人は、先に触れたヒトラーのような人々を思い浮かべて、神様なら悪人を滅ぼしていいはずだと思うでしょう。つまり、自分はヒトラーとは対極にある善人なのだと思い込んでいるのです。しかし神様の視点で見るならそれは大いなる誤解です。どんなに私たちの目から見て善人であっても、その内にある悪は、何かのきっかけで大きくその人の人生に影響を与え、基本的には善をなそうとしているその人をコントロールしてしまう、ということが起こるのです。
先週、木曜日に飛び込んできたMLB大谷選手の通訳、水原さんがティームから解雇されたニュースに皆さんも驚き、がっかりされたと思います。単なるファンでさえショックを受けるのですから、周囲の人々にとってはそれこそ深い淵の底に突き落とされたようなものです。前日のゲームで、ご家族が大谷選手のご家族と共に楽しく観戦している様子が映し出されていたので、あの歓喜と今の絶望的な状態とのギャップを恐ろしく感じます。
あれほどやりがいのある楽しい仕事をし、良い友人、家族がいても、善を行いたいという意思があっても、人は誘惑に負けるのです。他人事ではありません。私たちも、その本質に変わりはありません。
イエスは弟子たちに裏切られることを知っていて、十字架に向かわれました。
私たちもまた、あの場にいたらイエスを裏切っていたのです。
しかし、そのような罪深い私たちが、見捨てられることなく、再び神様と共に歩めるようにイエスは道を開いてくださった。それがイエスの十字架です。それは、誰一人例外なく、創ってくださった神様に対する裏切り者であるにもかかわらず、赦してくださるという出来事でした。私たちがなすべきことは「あなたと共に歩みます」という決心だけなのです。
それでは詩の後半を読みましょう。
3. 主を待ち望め (5-8)
私は主を望みます。私の魂は望みます。主の言葉を待ち望みます。
私の魂はわが主を待ち望みます夜回りが朝を、夜回りが朝を待つにも増して。
イスラエルよ、主を待ち望め。主のもとに慈しみがありそのもとに豊かな贖いがある。この方こそ、イスラエルをすべての過ちから贖ってくださる。
なぜ、自分を取り巻く状況がこれほど過酷なのか?と思い悩む人は、ゲッセマネのイエスと、この詩人と同じ思いをもっています。そして、イエスと詩人の差し出す希望を持つことができます。
詩人は主が現れること、主の言葉が語られる事を待ち望んでいます。いうまでもなく詩人が生きたのは、イエスが地上にこられる何百年も前のことでした。詩人はその希望を抱きながら世を去ったのです。それは彼の人生が失望に終わったということではありません。それは私たちの本質が肉体ではなく魂であるからです。私たちは望みを抱きながらその肉体が滅びるまでこの地上を歩み続けます。肉体がどんな状態であっても、魂は神様と共にあって喜び楽しむことができるのです。
イエスの十字架と復活、そしてイエスが天に帰られるとイエスの霊、聖霊が共にいて導いていてくださる事を知っている私たちは、詩人以上にそのことを確信しているのです。
(祈り) 神様、あなたが一人の人、イエスとしてこの世界に来てくださり、私たちの救いとなってくださったことをありがとうございます。
わたしたちの罪深さが、互いを傷つけたり、社会を荒廃させているにもかかわらず、一人一人を愛し、見捨てずに呼びかけてくださっていることをありがとございます。
私たちのうちにある罪があなたを十字架に架けてしまうほどに深刻なものであることを教え、そこから離れてあなたと共に歩む道を備えてくださった事をありがとうございます。
私たちがいつまでも、あなたに向かって叫び求め、あなたの意思に従う事を喜びとし、あなたの国の完成を待ち望みつつ歩み続けることができるように助けてください。
私たちの主、イエス・キリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
主イエスが、十字架に架けられる時が迫った時、天の父に、その苦難を取り去ってくださいと祈られたように、私たちは主に向かってどんなことでも叫び求めることができます。そして主はその叫びを無視することはありません。それは私たちが、救うに値する優れた者であるからではなく、神様の愛と憐れみによるのです。赤ちゃんが泣き叫んで親に必要を訴えるように、神様に求めることが、神様との親しい関係を築く第一歩です。
話し合いのために
- 主に叫び求めた経験をシェアしましょう。
- 自分の罪深さを感じるのはどのような時ですか?
子供達のために
メッセージの中でも触れたように、今週は子供達に受難週の出来事を読み聞かせてあげてください。今日はイエスがエルサレムに入られたときに、人々が棕櫚の葉を敷いて、ロバの子に乗ったイエスを迎えたことから、シュロの日曜日と名付けられた出来事(マタイ21:1-11マルコ11:1-11 ルカ19:28-40)を読みましょう。
以下、聖書の箇所をあげておきます。
月曜日:イエスは神殿の境内に入りそこで売り買いしていた商人を追い出され、神殿が祈りの家であることを宣言された。(マタイ21:12-17 マルコ11:15-19 ルカ19:45-48)
火曜日:様々なしるしと奇跡を行い、神の愛に燃えて、エルサレムの退廃ぶりを嘆かれた。(マタイ21:18-19 23:37-39 マルコ11:12-14 ルカ13:34-35 )
水曜日:イエスがベタニアのシモンの家で食事をしていたとき、マリヤがナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけた。これはマリヤの心からの献げものであると共にイエスの埋葬の準備であった。(マタイ26:6-13 マルコ14:3-9 ヨハネ12:1-8)
木曜日:イエスは弟子達の足を洗われた後、二階座敷で御自分の死を予告されて、聖餐式を制定された。この後イエスは、ゲッセマネで祈りの格闘をされた後、ユダの裏切りによって当局者に捕らえられることとなる。(マタイ26:17-75 マルコ14:12-72 ルカ22:7-63)
金曜日:イエスは鞭打たれ、人々から嘲られて、カルバリの十字架への道を重い十字架を背負って歩く。そして祭司長、律法学者達の手によって十字架に掛けられる。人類の贖いが完成して、神殿の幕が真っ二つに裂ける。(マタイ27:1-61 マルコ15:1-47 ルカ22:66-23:56 ヨハネ18:28-19:38)
土曜日:金曜日の夜イエスは墓に葬られた。当局者はイエスの死体が盗まれないように、墓の石に封印をして番兵に命がけの番をさせる(マタイ27:62-66)。