和解の使者

David Hayward @nakedpastor (https://nakedpastor.com/)
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日曜礼拝・英語通訳付

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和解の使者

(ヨハネによる福音書7:45-52、2コリント5:14-21)

池田真理

 日本では4月から新しい学年や年度が始まるので、4月から新しい環境になった方も多いと思いますが、それから1ヶ月が経って、どんな心持ちでいらっしゃるでしょうか?生活環境に大きな変化がなくても、私たちは日々、様々な人と影響し合って生きていて、良い刺激もあれば、嫌な刺激もあります。
 私は平日は福祉施設で働いていますが、この4月から上司が代わりました。その人事異動が3月に発表になった時、私は自分が思った以上に動揺していることに自分で驚きました。それまでの上司とは意見が合わないことも結構あったのですが、その上司と何とか仲良くやっていこうと思っていたので、肩透かしをくらった気分でした。それで、私は間違った方向に努力していたのではないかと気が付きました。人間の組織の中で誰が上司であろうと、私が仕えたいと願っている主人はただ一人、イエス様だけです。そして、施設の仕事の中で、利用者さんたちに対してはもちろん、同僚たちの間でも、上司に対しても、私がするべきことはただイエス様の愛を伝えることです。それなのに、いつの間にか私は、目の前の人に嫌われないために、評価してもらうために、イエス様から目をそらしていました。このことに気が付いたら、施設での仕事が、それまでよりもやりやすくなりました。優先すべきことはイエス様の愛を伝えることだと集中できていれば、何を言うべきか言わないべきか、考えやすくなります。もちろん、いつも正解が分かるわけではなく、迷いながらするしかなく、するべきことが分かっていてもできないことも多いですが、それでも向かうべき方向がはっきりしました。
 今日読んでいくヨハネによる福音書の箇所は、私たちに、様々な人間関係の中でイエス様の愛を伝えていくことの実践例を教えてくれています。決して大袈裟なことをするわけではありませんが、イエス様の愛に反することに逆らっていくことの大切さを教えてくれます。今日は、そのことを具体的に説明してくれている箇所から読んでいきたいと思います。2コリント5:14-21を、途中を省略して読みます。

A. イエス様の愛が私たちを和解の任務に駆り立てる(2コリント 5:14-21)

14 事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。15 その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。…19 つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。21 神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。

 私たちが社会の中で果たしていくべき役割を一言で言うなら、神様の和解の使者となることです。イエス様が全ての人のために命を捧げて、全ての人の罪を赦してくださったことを知ってしまったので、その愛を受け取ることを他の人々に勧めずにいられません。神様の愛を受け取って神様との愛し合う関係を回復させることを、神様と和解すると言います。神様の側では和解の手を既に差し伸べてくださっていて、私たちはその手を取るだけです。先にその手を取って、神様の愛の中で生きるようになった人たちは誰でも、神様の和解の使者です。重要なのは、この和解の任務というのは、強制的に押し付けられた業務なのではなく、そうせずにはいられない願いであるということです。「キリストの愛が私たちを捕らえて離さないからです」と、パウロがここで言っている通りです。イエス様に愛されていることを知って、その愛の大きさを知った私たちは、その愛が同じように全ての人に注がれていることを確信します。だから、それをまだ知らない人たちに知ってほしいと願わずにいられません。また、人がその愛を打ち消すなら、反対せずにいられません。神様が差し伸べている手を払い除けたり、その手を掴もうとしている人を邪魔したりする人には、はっきりと対抗なければいけないと感じます。それが、和解の使者です。
 それでは、この和解の使者は具体的にどのようなことをするべきなのか、ヨハネによる福音書7章を読んでいきたいと思います。まず45-49節です。

B. 社会的に上下関係にあっても (45-49)

45 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。46 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。47 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。48 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。49 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」

1. 上の立場だから正しいわけではない

 私たちは、様々な上下関係の中で生きています。親と子。先生と生徒。上司と部下。社会的に弱い立場の人達を保護するために、誰かが責任者になることは必要だと思います。また、集団を正しい方向に導く責任者も必要だと思います。

 でも、私たちは、自分が上の立場になると、下の立場の人を守る責任よりも、支配する権力を手に入れたと勘違いする傾向を持っています。下の立場にいると、自分で考えて決める責任を放棄して、何でも上の立場の人のせいにします。もちろん、上の立場の人が高圧的で支配的であれば、下の立場の人は自分の意見を持つことが怖くなり、自分を見失ってしまうこともあります。それが児童虐待やDV、パワハラにつながります。

 私たちは、誰もが神様に愛されている神様の子どもです。誰もが欠けを持っていますが、社会の中でどんな上下関係にあろうと、等しい重さの価値を持った人間であることに変わりありません。上の立場にあるからいつも正しいわけでもないし、下の立場にあるから何も考えなくていいわけでも、考えてはいけないわけでもありません。

2. 上の立場の人の過ちを見過ごさない

 今読んだ聖書の箇所は、祭司長たちやファリサイ派の人々などの宗教指導者たちと、彼らにイエス様を捕らえてくるように命じられた下役(衛兵)たちのやりとりです。下役たちは上司の命令に従わず、イエス様を捕まえないで帰ってきたことを咎められています。もしかしたらこの後、下役たちは仕事をクビになったり、ユダヤ人社会から追放されたりしたかもしれません。下役たちは、そんな危険を冒して、上司の命令に逆らったのです。彼らは、イエス様を捕まえなかった理由を、「弟子たちや群衆が邪魔をしたから」と言い逃れることもできたはずですが、そうしていません。「今まで、あの人のように話した人はいません」と言ったとあります。自分たちの判断で命令に従わなかったと認めたのです。
 下役たちが聞いたイエス様の言葉はどのようなものだったのでしょうか?聖書を遡ってみると、イエス様が「私は神様の元から来て神様の元に帰っていく。あなたがたは私を探しても見つけることができない」と言われたところに、下役たちはいたと思われます。また、「渇いている人は誰でも私の元に来なさい。私を信じる者は、その人の内から生きた水が流れ出るようになる」とイエス様が言われたのも、聞いていたかもしれません。下役たちは、イエス様が神様に近い何かの存在であるという畏れを感じながら、そばに招いてくださる親しみやすさを感じたのだと思います。それは、まだ言葉ではうまく説明できない、イエス様の魅力でした。
 そして、それが彼らを上司の命令に逆らうように動かしました。「この人が悪人だという上司の判断は果たして正しいのだろうか。この人を捕らえるなんてことは私たちにはできない」と思ったのだと思います。彼らはまだ、イエス様の愛を明確に認識していたわけではありません。それは十字架の出来事が起こるまでは誰にも分からなかったことです。それでも、彼らのこの行動は、イエス様が私たちを和解の任務に駆り立てることの例としてとらえていいのではないでしょうか。彼らは、上司たちが間違っていると自信を持っていたわけでも、自分たちの判断が正しいと自信を持っていたわけでもありません。でも、自分たちの社会的身分を失うリスクを負ってでも、イエス様のことを守りたいと思ったのです。自分たちの社会的身分や地位よりも大切な、譲れない何かが、イエス様によって彼らの中に生まれていました。
 
 私たちを和解の任務に駆り立てるイエス様の愛は、上下関係の中だけでなく、対等な協力関係にある仲間の間でも働きます。後半の50-52節を読んでいきましょう。

C. 社会的に協力関係にあっても (50-52)

50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。51 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」

1. 自分に同調しない人を敵とみなす過ち

 学校でも職場でも、私たちは協力し合える仲間を求め、共通の敵がいれば仲間内の団結をより強くしようとします。これは、戦時中のことや政治家の行動を考えると分かりやすいですが、仲間内の団結を求める傾向は、どんな集団の中でも起こると思います。日本は伝統的に欧米よりもその傾向が強いかもしれません。仲間の団結というのは良い作用もありますが、危険なことでもあります。最初は正義を守るための団結だったとしても、いつの間にか団結すること自体が目的になって、正義に反することをするようになるからです。そして、仲間がいると安心して、自分たちが間違いを犯していることに気が付きません。また、自分たちに同調しない人をすぐに敵とみなして排除しようとします。こうなるともう、正義が何か、真実は何かを追い求めることをせずに、全てが自分たちの立場を守るための偽善になり、不正になってしまいます。

2. 仲間の過ちを見過ごさない

 ここに登場するニコデモは、ファリサイ派の指導者でしたが、以前、ひとりで人目を避けて夜にイエス様を訪ねたことがある人です。(ヨハネ3章)彼は、おそらくその時からすでにイエス様に惹かれていて、ここでもイエス様をかばう発言をしています。彼はまず、「我々の律法によれば」と言い、自分も同僚たちと同じように律法を重んじる立場にあるということを強調しています。思い返すと、ニコデモはイエス様と初めて会ったときにも同じような言い方でイエス様に近づきました。彼は、よく言えば慎重、悪く言えば臆病だったのかもしれません。でも、ここではっきりと律法に基づいて同僚たちの過ちを指摘しているのは、彼がすでにイエス様の魅力にとらえられていたからだと思います。律法に基づいて話したのは、同僚たちが耳を傾けてくれる可能性が一番高いからです。彼は、同僚たちの過ちに対して、この時点でできる最大限の抵抗をしたと言えます。
 残念ながら、ニコデモの思いは同僚たちに届きませんでした。彼らは、ニコデモが自分たちを裏切ってイエスの側についたのだということしか考えませんでした。
 ニコデモはこの後、どのような人生を送ったのでしょうか。聖書から分かっているのは、イエス様が十字架で死なれた後、その遺体の埋葬の作業を手伝った数人のうちの一人がニコデモだったことだけです。それ以上のニコデモに関する記録はありません。彼が復活したイエス様に会えたのかどうか、ファリサイ派をやめたのかどうか、分かりません。でもきっと彼は、イエス様に初めて会ったときに言われた言葉をずっと覚えていたと思います。それは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」という言葉です。(ヨハネ3:3)

 和解の使者の任務は、今日登場した下役たちやニコデモのように、イエス様に心を動かされて、それぞれの与えられた立場の中でできることを、迷いながらでもやれば、それでいいと思います。それは、イエス様がニコデモに言われたように、イエス様の愛によって何度でも新しくされる人生の歩みです。

(祈り)主イエス様、私たちは様々な人間関係の中で日々揺れ動いてしまう弱い者です。それでも、あなたに出会って、あなたの愛を教えていただいて、新しい人生を歩む力をいただきました。どうか、私たちが間違った判断をしているときにはすぐに教えてください。それを受け入れる謙虚さを与えてください。また、誰かがあなたの愛に反することをしているのに気が付いたら、そのことを伝えるための知恵と勇気をください。そして、私たちの周りであなたの愛が実現していくのを見る喜びをもっと教えてください。主イエス様、あなたを誰よりも信頼して、愛します。あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエス様の言葉や行いに惹かれた人たちの中には、「イエスを捕らえてこい」という上司の命令に逆らった人たちや、「イエスは罪人だ」と主張する同僚に「まずはイエス自身の言葉を聞くべきだ」と諭した人がいました。イエス様の教える神様の愛に触れた人は皆、自分の社会的立場が危うくなることを恐れずに、その愛に反するものに逆らいます。全ての人に神様の愛を伝えることは、神様の愛に反するもの全てに逆らっていくことでもあります。それが、神様の正義を実現するということでもあり、神様が私たちに委ねた「和解」の任務です。

話し合いのために

1. 神様と和解するとはどういう意味ですか?

2. 和解の使者として、あなたが今まずやりたいことは何ですか?話したい人は誰ですか?

子どもたち(保護者)のために

子どもたちは社会の中では弱い立場にあります。親や先生に気に入られるために頑張っていることも多いと思います。目に見える誰かに褒めてもらえるのは嬉しいことで、それを求めるのは間違っていません。でも、たとえ自分の頑張りを誰にも認めてもらえなくても、誰も気付いてくれなくても、神様はちゃんと一人ひとりの頑張りを見ていることを、子どもたちには覚えていてほしいと思います。また、例えばクラスの中で誰も自分の味方をしてくれなくても、自分の考えが正しいと思ったら、それを隠す必要はありません。できそうだったら、勇気を持ってみんなの間違いを指摘してあげてください。それをする勇気が出なかったら、みんなの前で言わなくてもいいので、自分の意見は違うことを大切に覚えていてください。そして、分かってくれそうな友達や先生がいたら、話してみてください。