慈しみはとこしえに

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日曜礼拝・英語通訳付

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慈しみはとこしえに

(詩編136)

永原アンディ

 今日のテキスト、詩編136編は、ワーシップリーダーが一節の前半を歌い、会衆が「慈しみはとこしえに(神様の愛はとこしえに続く)」と続ける、神殿礼拝で歌われた讃美の歌の形式をよく残していると考えられています。 現代のキリスト教会でもこのような形の賛美歌を礼拝で歌う教会があります。  

 今日のキーワードは日本語では「慈しみ」、英語では「Love」と訳された言葉です。 原語は、ヘブライ語で「ヘセド」といいます。 詳しく知りたい方は日本語でも英語でもウィキペディアに載っているので読んでみてください。

この言葉は広い概念を持っているので、同じ訳の聖書でも、文脈に応じて異なる現代語が用いられています。 またこの言葉は、同じ箇所でも聖書によって異なる現代語に訳されています。 たとえばNIVでは、ヘセドの半数以上をLoveと訳していますが、kindness、unfailing love、great love、mercyとも訳されています。日本語も同様です。

 このことからも私たちは、聖書がどのような意味で神の言葉なのか、注意深く考えなければいけないことがわかります。

 第一に、私たちは、聖書の中の様々な用例から「ヘセド」の概念を知ることができますが、この言葉に込められた神様の意図は、私たちの理解よりもはるかに広く深いことを認めなければなりません。

 第二に、日本語にしても、英語にしても、その使われてきた地域の文化の影響を免れることはできません。

 例えば、日本語は漢字を用いますが、聖書で用いられる漢字の多くは、もともと仏教的な概念を持つ言葉です。最適な訳ではあっても完全な訳とはいえません。ですから、あまり表面的な「字義通り」を強調すると、「聖書は男性優位を支持する」とか、「性的少数者は神に喜ばれない」といった神様の意図とは異なるメッセージを読み取ってしまうことになるのです。私は、これを現代の律法主義だと思っています。

 「ヘセド」に戻りましょう。「ヘセド」は愛とも優しさとも訳せますが、私たちが思っているよりも、もっと深刻なものです。 「ヘセド」は熱心で熱烈な強い意志を持って愛することを意味し、神様が人と結ぶ、決して変わることも破られることもない厳密な契約ともいえるものです。つまり、私たちがどのような境遇にあっても、自分で背を向けない限り、確かに存在し続ける、神様の私たちに対する態度なのです。

 内容に則して三つに分けて味わってゆきましょう。

1. 創造者の慈しみ (1-9)

1 主に感謝せよ。まことに主は恵み深い。慈しみはとこしえに。
2 神々の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
3 主の中の主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

4 ただひとり大いなる奇しき業を行う方に。慈しみはとこしえに。

5 英知をもって天を造った方に。慈しみはとこしえに。
6 水の上に大地を広げた方に。慈しみはとこしえに。
7 大きな光を造った方に。慈しみはとこしえに。
8 昼をつかさどるために太陽を慈しみはとこしえに。
9 夜をつかさどるために月と星を造った方に。慈しみはとこしえに。

 この部分では神様が世界を創造してくださったことを覚えて、その恵みはとこしえに変わらないと歌っています。

 厳密に言うと最初の3節は「感謝しなさい」と言う呼びかけで、詩の最後、26節でも締めくくりとしてくりかえされている部分です。4節は、5節から25節で歌われている神様がなされた一つ一つのこと全体を指して「ただひとり大いなる奇しき業を行う方に」という内容への導入の部分です。そして5-9節に創世記の第1章に記されている天地創造の要点を繰り返しています。

 創造の恵みを意識することは大切なことです。それは神様が、創造に際して私たちに大きな役割をお与えになったからです。創世記1:27-28にこう書かれています。

神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」

 そして、続く31節には「神は造られたすべてのものをご覧になった。それは極めて良かった)」とあります。

  そこで問題は、神様に似せられた者として創られ、極めて良かったこの世界を治める者として生きてきた人間は、その役割を正しく担ってきたのかということです。  世界は良いものとして維持されているのか、それとも破壊されつつあるのか? ご存知のように、人は最初から神様の期待を裏切りました。確かめたい方は創世記3章のアダムとエバの物語をお読みください。それ以来、人間は神様を差し置いて、人間が世界の所有者であるかのように振る舞ってきたとも言えます。そして人間の中でも力を持つ者たちが支配し、弱者、少数者を苦しめています。戦争や略奪、環境破壊が起こってきました。

 しかし一方で、神様の主権を認め、正義を求める人々も起こされて神様が用いられ、悪いことは起こるけれども、世界は長い目で見れば良い方に向かっている、というのが私の感じ方です。

 イエスは、マタイによる福音書の13章で、この状況について、「畑(世界)には良い麦に混じって毒麦が育っているけれど今抜くと良い麦も抜いてしまうかもしれないので刈り入れの時まで待ちなさい」とたとえて悪の存在についての私たちの持つべき態度を教えています。

 私たちは状況に絶望することなく世界の創造者であり主権者である神様の意思を行い続けてゆくことを求められているのです。

2. 解放者の慈しみ (10-22)

10 エジプトで初子を打ち慈しみはとこしえに。
11 そこからイスラエルを慈しみはとこしえに。
12 力強い手と伸ばした腕で導き出した方に。慈しみはとこしえに。
13 葦の海を二つに分け慈しみはとこしえに。
14 イスラエルにそこを渡らせ慈しみはとこしえに。
15 ファラオとその軍勢を葦の海に投げ込んだ方に。慈しみはとこしえに。
16 その民に荒れ野を行かせた方に。慈しみはとこしえに。

17 大いなる王たちを打った方に。慈しみはとこしえに。
18 力強い王たちを慈しみはとこしえに。
19 アモリ人の王シホンを慈しみはとこしえに。
20 バシャンの王オグを殺した方に。慈しみはとこしえに。
21 彼らの土地を相続地として慈しみはとこしえに。
22 僕イスラエルの相続地として与えた方に。慈しみはとこしえに。

 イスラエルにとって最も印象深い神様の有り様は、民族の原点であり、確固とした信仰の根拠です。出エジプトとカナン定着を導いた解放者としての側面です。強大なエジプトから自力で逃れる力は小さな民族にはありませんでした。同様に、カナンの地においてすでにそこにいた諸民族の中で独立を保てたことは神様の導き以外には考えられないことでした。

 その当時の人々の限られた世界観を考えれば、またアブラハムの来歴を考えれば、彼らの行動を侵略と非難することはできません。しかし、それは現代のイスラエル政府のガザ侵攻を正当化できるものでもありません。

 イエスの世界に対する功績の一つは、人種、階級、国籍、性のありかたなどを理由に、人を自分より劣った者として扱うことは神様の意思に反するということを、ご自身の生き方で示されたことです。神様は、私たちがどのような束縛のもとに置かれることも認めない方です。私たちは例外なく、誰もが“神様のもとに”自由なのです。

“神様のもとに”ということが大切で、そうでなければ自由の行使は貪欲となって他者の自由を奪ってしまいます。

 神様の解放を期待して祈り続けましょう。

3. 同伴者の慈しみ (23-26)

23 私たちが低くされていたとき私たちを思い出し慈しみはとこしえに。
24 敵から私たちを助け出した方に。慈しみはとこしえに。

25 すべての肉なるものに糧を与える方に。慈しみはとこしえに。
26 天の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

 イスラエルは、今まで読んできたように、様々な奇跡的な導きによって、神様を信頼していましたが、イエスの時代のイスラエルに最も欠けていた感覚が、共に歩んでいてくださる神様という感覚ではなかったかと私は想像します。その代わりに虚しい律法主義が支配し、神様の愛と正義は傍に押しやられていたのでしょう。律法が彼らにとっての偶像のようになってしまっていたのだと思います。それが神様への信仰にも、国の力にも悪い影響となって、イスラエルは政治的にも、精神的にも行き詰まっていたのです。

 話を今に移しましょう。イエスは来てくださり、弟子たちと共に歩んでくださり、私たちのために命を捧げられました。ギリシア人も、ローマ人もなく、男も女もなく誰もがイエスと共に人生を歩むことができるようになるためです。イエスは十字架にかかり3日目によみがえり、弟子たちにその姿をあらわされてから天に戻られました。再び、人間の目には見えない存在となられたということです。

 私たちにはもう同伴者イエスはいないのでしょうか?そうではありません。

 イエスご自身の言葉がヨハネによる福音書14章に記録されています。

16 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 聖霊は神様とイエスの霊です。使徒言行録に記録されている通り、聖霊は信じる者の内に住んでくださる神様なのです。それは、私たちが、いつでも、いつまでも、肉体の死を超えて、三位一体の神様と共に生かされる、ということを神様が約束していてくださるということです。

 あなたに、神様の慈しみはとこしえにあるのです。

(祈り)神様、ありがとうございます。あなたが天地を作られ、今も、そして永遠に治めていてくださいます。

私たちがその罪の性質によって、この世界を正しく管理してこなかったにも関わらず、恵みによって、一人一人に命を与え、喜びを与え、共にいてくださることを感謝します。

私たちが、あなたの意思をよく聞いて行うことができるように語りかけてください。

色々な苦しみのうちにある者を解放してください。

あなたがいつも、いつまでも、とこしえに、共にいてくださることを感謝して主イエスキリストの名によって祈ります。


要約

神様を完全に理解することは私たちには不可能なことですが、聖書を手がかりに、神様がどのような方であるかを知ることができます。この詩は神様が創造者であり解放者であり同伴者であることを教えてくれます。そして、神様はそれらの在り方をとこしえに変えることはないと約束してくださった方です。

話し合いのために

1. どのような時に、神様を創造主と実感しますか?

2. あなたに必要な解放とは?

3. どのような時に、神様が共にいてくれると実感しますか?

子どもたち(保護者)のために

まず子供たちが神様についてどのようなイメージを持っているか聞いてみましょう。そして、今日紹介した三つの観点について、話し合ってみましょう。必要なら子供達にわかりやすい言葉で説明してあげてください。