主に感謝をささげよう!

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日曜礼拝・英語通訳付

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主に感謝をささげよう!

(詩編138)

永原アンディ

 今日のテキスト、詩編138編は神様に感謝する。神様をほめたたえることにフォーカスした歌です。先週まで数回、この社会の問題点や、そこに置かれた神様を信じる者の生き方について考えてきましたが、今日のテキストは、困難の多いこの社会の中で神様に喜ばれて生きてゆくことのできる力の源泉を教えてくれます。

 三つの部分に分けて読んでゆきましょう。

1. 礼拝で魂に力を (1-3)

1 ダビデの詩。
私は心を尽くしてあなたに感謝し
神の前で、あなたをほめ歌う。
2 聖なる宮に向かってひれ伏し
あなたの慈しみとまことのゆえに御名に感謝を献げる。
あなたはすべてにまさって御名と仰せを大いなるものとされた。
3 私が呼び求めた日に答えてくださった。
あなたは私の魂を力づけてくださる。

ほめ歌う、ひれ伏す、感謝を献げる、という表現から、この部分を読んで誰もが想像するのは「礼拝」でしょう。間違いありません。この詩は礼拝することの大切さ、素晴らしさを物語っています。 

 ただ本題に入る前に、翻訳に関する注意点を二つ挙げておきたいと思います。今日の詩にも日本語でも、英語でも、現代語訳の聖書の間で、見たところかなり異なる翻訳がなされている単語があるのです。

 ひとつは協会共同訳では「感謝する(Give thanks)」とされている言葉ですが、NIVで「ほめたたえる (praise)」とされています。英語の聖書でも「感謝する(Give thanks)」と訳されているものもあれば、日本語でも「ほめたたえる (praise)」を採っている聖書もあり様々です。言ってみれば単純なことなのですが、元々の原語が両方の意味を含む言葉なのです。旧約の民にとっては、感謝はほめたたえることの主要な動機です。また、ほめたたえることは感謝を表現する方法でもあります。

 もう一つは一節の、協会共同訳では「神の前で(before God)」、NIVでは「神々の前で(before the “gods”」と訳されていることばで、他の聖書では「天使たちの前で(before the angels)」と訳されているものもあります。  原語はエロヒム(Elohim)、ヘブライ語と同じ系統の言語では、エル(アッラー)の複数形で神々ですが、ヘブライ語では単数としても複数としても使われるのです。さらに、初めてギリシア語に訳された旧約聖書では天使たちとされているので、文脈によって使い分けられているのですが、ここではどちらでも意味が通じるので訳によって採用が分かれたのです。

 本題に入りましょう。詩人は心を尽くして神様に感謝して、神様をほめたたえています。神殿に向かって平伏しています。  私たちの神殿はどこにあるのでしょうか? 

 この場所が私たちの神殿ですか?そうすると、私たちはたとえば旅行するときには正確なコンパスを持って行って、ここのある方角を割り出さなければいけません。イエスは、自身の受難を予告してこう言われました。

イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、三日で建て直すと言うのか」と言った。 イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである。(ヨハ 2:19-21)

 イエスの体が神殿だというのです。それではイエスの体とは何を意味するのでしょう。それは私たちです。使徒パウロはこう説明しています。

あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 (1コリ 3:16, 17)

 しかも、私たちがバラバラに一つの神殿なのではなのではありません。同じ手紙の中でパウロはこうも言っています。

あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。 (1コリ 12:27)

 私たちには共に集う場所が必要ですが、場所に神様が住まわれるのではなく人の集まりである私たちの内に神様はいてくださるということです。この礼拝のようにみんなでいても、ミニチャーチのように数人でいても、一人でいる時も、神様はそこにいてくださいます。そして心を合わせて、心を尽くして礼拝するとき、私たちの魂に力がみなぎってくるのです。今日もそれを礼拝の中で体験しましょう。

2. 地上の王と天上の王 (4-6)

4 主よ、地上の王は皆、あなたに感謝を献げる
あなたの口から出る仰せを彼らは聞いた。
5 主の道について彼らは歌う「主の栄光は大きい」と。
6 主は高くおられ、低くされた者を顧みる。
遠くから、高慢な者を見抜かれる。

 詩人が願っているように、地上の権力者たちが皆、神様に従順になり神様をほめたたえ、感謝するようになればいいのですが、いまだかつてそのような時代はありませんでした。そしてそれは終わりの時まで実現することはないでしょう。先週お話しした通り、私たちはこの世界では寄留者なのです。けれども神様はすべてをご覧になっておられます。この世界で差別され、迫害され、軽視される者を見捨てることはないのです。私たちはこのことに希望を持って生きることができるのです。

 一方で私たちが、「なぜ、こんなに酷いことをする人々を神様は罰しないのだろう」と思うような人々も決して見逃されているのではありません。高慢な者を始め、神様に背を向ける者たちはすでに報いを受けています。それがどのようなものか私たちは完全に知ることはできませんが、少なくともキリストの体とされて神と共にいる者への慰めや平和は、神様に背を向けているなら受け取ることはできないのです。

 ですから、私たちは悪い者たちが繁栄しているように見えたとしても、そのことに心を囚われることなく、むしろキリストの体の一部として、低くされている者を顧みるという神様の手足となって働きましょう。それが、神様が私たちをこのような世界に置かれた理由です。私たちの王は、地上の王たち、権力者、支配者たちではなく、天上の王である神様なのですから。

3. 神様の右手のわざを期待しよう (7, 8)

7 たとえ私が苦難の中を歩んでいてもあなたは私を生かし
手を伸ばして敵の怒りを防ぎ右の手で私を救ってくださる。
8 主は私のためにすべてを成し遂げてくださる。
主よ、あなたの慈しみはとこしえに。
御手の業を止めないでください。

 みなさんは今、自分が苦難の中を歩んでいると感じているでしょうか?神様は私たちがたとえ苦難のうちを歩んでいても敵の怒りを防いでくださるとありますが、それを信じ、そこに期待しているでしょうか?

 健康が損なわれる苦しみ、経済的な苦しみ、人間関係の苦しみ、様々な理由でなされる差別による苦しみは、ここにいる一人一人が、経験してきた苦しみです。 そして今も、その中で苦しんでいる人がいるのです。

 それでは、ここに書かれている、右の手の救い、御手の業はどのように現れるのでしょうか?個人の切実な祈りに超自然的な形で応えられることもあります。しかし神様の方法はそれだけではありません。ご自身の体、つまり私たちの働きを通しても表されるのです。私の体験で言えば、多くの場合、神様は目に見える体を用いて手を差し伸べてくださいました。

 それはつまり、私たちが求める「神様の右の手」とか「御手の業」とは抽象的な表現なのではなく、実際に目に見える「神様の手」が差し伸べられるということなのです。そしてそれはみなさんのことです。みなさんが誰かのために親身になって助けようとするとき、その人に7節で書かれていることが起こっているということです。

たとえ私が苦難の中を歩んでいてもあなたは私を生かし 手を伸ばして敵の怒りを防ぎ右の手で私を救ってくださる。

 神様の手として誰かを助けたいと思うなら、その前に神様の目であり耳である必要があります。それは 「低くされた者を顧みる、高慢な者を見抜く」目であり、耳なのです。神様の目や耳を持ち正しい判断を持って、手足のようにこの社会に働きかけるために、私たちには礼拝を通して与えられる魂の力(3節)が欠かせないのです。  

 これから私たちは主に礼拝を捧げます。 

「心を尽くして歌う」と1節にありましたが、どのように心を尽くすのかの良いモデルが今日の最後の節にありました。

主は私のためにすべてを成し遂げてくださる。主よ、あなたの慈しみはとこしえに。御手の業を止めないでください。

 私たちは礼拝の中で「主は私のためにすべてを成し遂げてくださる」と告白し、「主よ、あなたの慈しみはとこしえに」「御手の業を止めないでください」と願い求めることに心を尽くすのです。

(祈り) 神様、私たちの内にいてくださることをありがとうございます。
私たちは心を尽くしてあなたを礼拝します。
どうぞ、私たちの魂にあなたが共にいてくださることをはっきりと教えてください。 
そして私たちの魂に新しい力を満たし、あなたが置いてくださるそれぞれの持ち場に、私たちを派遣してあなたの働きをなさせてください。
感謝して、期待して、イエスキリストの名によって祈ります。


要約

私たち一人一人はキリストを頭とする一つの体<教会>の一つの部分です。このキリストの体こそ、イエスがこられて以来、旧約の神殿に代わるものとして世に存在します。神様は教会という建物におられるのではなく、私たちの内に、私たちと共に、私たちの間に活き活きと働いておられます。私たちは礼拝を通して魂を強められ、神様の目や耳のように世界を見、なすべきことを神様の手や足として行います。

話し合いのために

1. 今、神様に期待しているのはどのようなことですか?

2. 低くされた者とは?

子どもたち(保護者)のために

神様にどんなことを感謝しているか聞いてみましょう。

また苦しみの中で、共にいてくださり救い出していただいた経験を話してあげてください。

もし子供たちが、自分が苦しんでいること、困っていることを言えるなら、そのことについて神様がどのように助けてくださるかを伝え一緒に祈りましょう。