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日曜礼拝・英語通訳付
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私たちはどこから来て、どこへ行くのか?
(ヨハネによる福音書8:12-20)
池田真理
今日もヨハネによる福音書の続きで、今日は8:12-20を読んでいきます。全体を3つに分けて読んでいきたいと思います。早速最初の12節から14節を読んでいきましょう。
A. イエス様は私たちを導く光
12 イエスは再び言われた。「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」13 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」14 イエスは答えて言われた。「たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。しかし、あなたがたは、私がどこから来てどこへ行くのか、知らない。
イエス様はここで「私は世の光である」と宣言されています。そして、私たちがイエス様に従うなら、私たちは決して暗闇の中を歩くことはなく、いつも光を持っていることができると言われています。
イエス様をすでに信じている皆さんは、このことを実感されているでしょうか、つまり、「私は決して暗闇に落ちることはなく、いつも光の中を歩んでいる」と。私の実感としては、私は時に暗闇に心を支配されてしまうことがありますが、イエス様に助けを求めると、必ず光がまた心の中に灯されて暗闇を抜け出せる、という感じです。それが数時間で済むことも、数日または時に数ヶ月かかることもあります。
おそらく、常に心が雲ひとつない晴天で光が輝いているような人はいないのだと思います。誰にでも暗闇があり、悲しみや不安が消せない中で、何かしらの光を頼りにして生きているのだと思います。でも、その光が本当に頼りになるものなのかどうかが大切だと思います。
イエス様は、私たちがどんな状況にあろうと、決して消えることのない光となって、私たちを導くことができる方です。なぜそう言えるのか、イエス様は今読んだ箇所の中でこう言われています。14節「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。」自分がどこから来て、どこへ行くのか知っているということは、自分が何のためにここに存在しているのかを知っているということです。イエス様はそれを明確に知っていました。イエス様は神様の愛をこの世界に伝えるために、神様の元からこの世界に来られ、やがて神様の元に戻ることになっていたのです。
私がそのことを今ここで断言できるのは、もうそのことが実現したからです。イエス様は確かに2千年前にこの世界に実在し、十字架に架けられて死なれ、三日後に復活されて、弟子たちにご自分の働きを委ねて天に帰られました。イエス様は最初から人々に殺されることが分かっていましたし、殺されるために生まれてこられたとも言えます。それは、私たちの代わりに、私たちの罪を背負って、死という代償を払うためでした。
イエス様がただの一人の人間だったら、神様はひとりの人を全ての人のために犠牲にしたひどい神様ですが、そうではありません。イエス様は神様ご自身でした。神様は、私たちの罪を自ら背負って、私たちを責める代わりに罪から解放しようとされました。だから、イエス様は私たちの罪のために死なれましたが、復活されました。そのことを通して、私たちの罪の力も死の力も神様を支配することはできず、神様は私たちを赦したいと願われているということを、自ら証明してくださったのです。
皆さんは、ご自分がどこから来て、どこへ行くのか、確信を持って答えることができますか?イエス様は、私たちは全て、神様に愛されている子どもであり、神様から目的を持ってこの世界に置かれ、やがて神様の元に呼び戻される存在であると教えてくれます。神様の私たちへの愛は、私たちのために喜んでご自分を犠牲にする愛です。神様は、私たちがその愛を受け取って、互いの間でも実現することを望まれています。だから、イエス様は、私たちが行くべき方向を示し、私たちの歩む道を方向修正して導いてくださる方です。私たちのあるべき姿を示して、私たちを造り変えてくださる方とも言えます。私たちは、愛されるために努力する必要はなく、互いに競い合って傷つけ合うために共にいるのでもありません。私たちは、欠けのあるままで愛されている存在であり、互いに許し合い、支え合うために共にいるのです。
このように、イエス様が私たちを導く光であるというのは、イエス様が神様の私たちに対する愛を教えてくださるからです。私たちがどんな状態にあっても、神様の愛は確かで、変わることなく、尽きることなく、私たちを見離さないのだということを証明してくれるのは、イエス様なのです。
さて、でも、どんなに私がここでこのように断言したとしても、他の多くの教会で同じことが語られても、このことが真実であるという確信を人に与えられるのはイエス様だけです。一人ひとりが自分の心に語りかけるイエス様の声を聞かなければ、他人がどれだけ言っても神様の愛に対する確信は生まれないのです。次の15-18節に進みましょう。
B. そのことを証明できるのはイエス様だけ
15 あなたがたは肉に従って裁くが、私は誰をも裁かない。16 しかし、もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である。なぜなら私は独りではなく、私をお遣わしになった父と共にいるからである。17 あなたがたの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。18 私は自分について証しをしており、私をお遣わしになった父も私について証しをしてくださる。」
ここでイエス様が言われている通り、ユダヤ教の律法にはどんな犯罪でも証人が二人以上いなければいけないという掟がありました。ただ、当事者は証人にはなれません。従って、イエス様はここで自分で自分のことを証していると言われていますが、それは本来は成り立ちません。まして、自分以外の証人は天の神様であると言われているので、この一連のイエス様の発言は、ユダヤ教の律法の規定とは次元が違うと考えた方が良いと思います。
ヒントとなるのは、15節の「あなたがたは肉に従って裁く」という言葉です。英語では「人間の基準」と意訳されている通り、これは「あなたがたは人間の基準で物事を判断するが、私はその基準に囚われることはない」と言われているのだと思います。
では、全体としてどういう意味なのかというと、イエス様が本当に神様の元から来られた神様ご自身で、神様の真実を伝えておられると知るためには、私たちは人間の基準に囚われていてはいけないということだと思います。人間の社会の常識や価値観でイエス様のことを理解しようとすると限界があります。さらに言うなら、私たちの理性にも限界があります。イエス様のことを真に証明できるのは、イエス様ご自身と、イエス様を遣わされた神様ご自身です。それは、ここには登場しませんが、イエス様の霊であり神様の霊である聖霊様の働きです。
このことは、続く19-20節でも別の面からさらに語られています。読んでいきましょう。
C. そのことを私たちが受け入れられない理由
19 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたがたは、私も私の父も知らない。もし、私を知っているなら、私の父をも知っているはずだ。」20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、誰もイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
イエス様は、「もし私を知っているなら、私の父をも知っているはずだ」と言われています。一見すると不思議な言葉ですが、神様を知るということの真理を示しています。イエス様が神様であると分かるのは、神様がどういう方であるかを知っているからです。または、神様がどういう方であるかを真剣に求めているなら、イエス様に出会った時にイエス様がその神様であるかもしれないと思えます。
ちょっと抽象的すぎるので、少し角度を変えてお話しします。
今日の箇所でイエス様と対話している相手はファリサイ派の人々ですが、なぜ彼らはイエス様のことが理解できなかったのでしょうか?また、イエス様も彼らに「あなたがたには分からない」と言っているのはなぜでしょうか?それは単純に、彼らは自分たちが正しいと信じていたからです。そして、自分たちは神様のことをよく理解していて、神様に代わって人々のことを支配して良いと思っていたからです。
彼らに同情的なことを一つだけ挙げるとしたら、イエス様がご自分を神様と同等の存在として話されたことに彼らが抵抗を感じるのは仕方ないことだと思います。目の前にいるひとりの人がこの世界を作った神様ご自身であると言われて、すぐに信じられる人は誰もいないでしょう。
でも、本当にその人は神様だったのです。
そんな非常識なことを信じる人と信じない人の差は何でしょうか?それは、自分がいつも正しいわけではないと認めているかどうかだと思います。そして、本当に正しいこととは何か、正義はどこにあるのか、真理はどこにあるのか、真剣に求めているかどうかです。
それらのものが自分の中にはないと知っている人に、神様の霊は働きます。本物の正義、真実、愛はイエス様の中にあるということを教えられるのは、神様の霊、聖霊様だけです。聖霊様という存在を信じられていなくても、自分の限界を知って助けを求める人には、聖霊様は豊かに働いてくださいます。反対に、自分は正しいと信じている人には、聖霊様は自由に働くことができません。
自分の常識や価値観が間違っていることがあると、私たちは謙虚に認められるでしょうか?それができなければ、神様のことも勝手な自分のイメージや期待で決めつけて、本当の神様を理解できません。これは、すでに信仰を持っている人の方が陥る危険性のある間違いだと思います。神様は、私たちの理解に収まる方ではありません。私たちの思い通りになる方でもありません。私たちはいつも、自分の理解できていることには限界があり、神様には私たちには見えないものが見えているということを認めなければいけません。でも、私たちがそれを忘れていなければ、神様は私たちを着実に造り変えて、神様の愛を人に伝えられるように成長させてくださいます。
この世界を造られた神様は、私たち一人ひとりのために自らの命を捧げられた非常識な方です。非常識なほどに愛の大きな方です。その神様の愛が本当であると確信を持って、暗闇の中を歩まず、命の光を持つ方がこの世界に増えてほしいと願っています。
最後に、マタイによる福音書18:20のイエス様の言葉を読んで終わりにしたいと思います。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである。
私もあなたも、神様の元から来て、神様の愛を伝えるためにここに置かれていて、やがて神様の元に戻っていくのだということを、互いに確認しあえることは、イエス様を信じる者に与えられた最大の喜びだと思います。今週も、そのことを覚えながら過ごせますように。
(祈り)イエス様、あなたが私たちそれぞれの人生の中に入ってきてくださってありがとうございます。生まれてきた意味、生きている目的、死んだ後どうなるのか、教えてくださってありがとうございます。どうか、あなたの愛を受け取って、あなたが望まれるように人生を歩むことができるように導いてください。暗闇に心が支配されそうになるときに、あなたという光を頼りにできますように。自分の力を過信して間違って道を歩んでいる時には、間違いを教えてください。あなたに従って生きる喜びをもっと教えてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
イエス様は、自分が神様の元から来て、やがて神様の元に戻ることを知っていました。イエス様は、自分をこの世界に遣わした神様のことをよく知っており、神様がこの世界を愛していることを伝えるために自分をこの世界に遣わしたのだと知っていました。イエス様を知ることは、その神様の愛を知ることであり、私たちが神様に愛されている存在であると知ることです。それが真実であると知るために必要なことは、私たちは弱くて間違いを犯す存在であると認めることです。自分はいつも正しいわけではないと知っている者に、神様の霊が働きます。
話し合いのために
- 私たちはどこから来て、どこへ行くのでしょうか?
- 何のために私たちはこの世界に置かれているのでしょうか?
子どもたち(保護者)のために
私たちは神様からこの世界に送り出されて、やがて誰もがまた神様の元に戻って行きます。でも、私たちは誰も、「神様の元」がどういうところなのか、記憶もありませんし、戻るまでは自分で確かめることもできません。そこがどういうところなのか、なぜ神様は私たちをこの世界に送り出されたのか、知っているのはイエス様だけです。だから私たちは、聖書に残されているイエス様の言葉や、他の人たちがイエス様について語ること(イエス様を信じている人たちが教えてくれること)を頼りにします。子供たちは、自分たちはどこから生まれてきて、やがてどこへ行くのか、考えたことがあるでしょうか。話し合ってみてください。