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日曜礼拝・英語通訳付
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自分の心を守るために神様に願うべきこと
(詩編141)
永原アンディ
みなさんと数年かけて詩編を読んできましたが、ついに最後の10編となりました。今日は141編です。
詩編の詩が基本的に礼拝として歌われたものであることを以前にもお話ししてきましたが、この詩もまたその典型的なものであることが、その構造からもよくわかります。礼拝する者の基本的な態度が歌い始めの2節までと締めくくりの8-10節で、神様に向かって呼び求める声をあげています。そしてその間に、この詩のユニークさとなっている二つの願いが、主題として置かれています。
それでは、いつものように少しづつ読んでゆきましょう。
1. 礼拝の心 1:主を呼び求める (1, 2)
1 賛歌。ダビデの詩。主よ、私はあなたを呼び求めます。急いで来てください。あなたに呼びかけるとき私の声に耳を傾けてください。
2 私の祈りがあなたの前に香として供えられますように。高く上げた両手が夕べの供え物となりますように。
神様はどこか特定の神殿にいて、思いを伝えるためには、呼んで来てもらわなければならないような存在ではないことは、詩人にもわかっていることです。
それでも「急いで来てください、私の声に耳を傾けてください」と呼び求める詩人の気持ちに私たちは同感できるのではありませんか。共にいる、共に立つということは、実際にそばに立っているということとは違います。だからその姿が目には見えていなくても、その人がたとえ遠くの国に住んでいたとしても、私たちの心は励まされます。
それでも、声が聞ければ、顔を見られればもっとうれしいことでしょう。礼拝は、神様との関係においてそのことが現実となる場なのです。
そして、そこでは2節にあるように、祈りが香として、高くあげた両手が供物となるとあります。旧約聖書には、献げ物、供え物、いけにえといった言葉がたくさん出てきます。 そしてそのほとんどは実際に神様の前に捧げられる動物や穀物を指しています。 そしてもちろん人々はそれを当然のことと考えていました。
しかし、ここでは祈りや礼拝自体が、私たちから神様への供物となるというのです。
イエスは、実際に何かを供えることが最重要なこととは考えませんでした。
むしろ、供え物が心を伴わない形式的なものになっていていることを強く非難されました。旧約聖書の中にも、このイエスの教えを先取りした考えが、わずかですが見ることができます。例えば預言者ホセアはこう警告しました。
私が喜ぶのは慈しみであっていけにえではない。神を知ることであって焼き尽くすいけにえではない。(ホセア書6:6)
また、イエスもそれを引用して宗教家たちを非難しました。
『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたら、あなたがたは罪もない人たちをとがめなかったであろう。(マタイによる福音書12:7)
以前に読んだ詩編にはこのような部分がありました。
あなたはいけにえを好まれません。焼き尽くすいけにえを献げてもあなたは喜ばれません。神の求めるいけにえは砕かれた霊。神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません。(詩編51:18,19)
そしてパウロはこう言います。
こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。(ローマの信徒への手紙12:1)
ユアチャーチが礼拝を強調する理由がここにあります。心を尽くし、思いを込めて、力の限りに礼拝することが私たちが神様に捧げる最高の供物なのです。
2. 唇と心の正しさを保てるように守ってください。 (3,4)
3 主よ、私の口に見張りを置き私の唇の戸を守ってください。4 私の心を悪事に向けないでください不正を働く者らと共に不正を重ねることがありませんように。彼らの差し出すごちそうを食べることがありませんように。
ここから、詩人の具体的な願いが始まります。皆さんは、つい口に出してしまったことで人の心を傷つけてしまった、という経験をお持ちでしょうか。本当に口は私たちにとって制御しにくい厄介な存在です。
体が汚れることを恐れて、さまざまな食物規定に縛られている人々に対してイエスは「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである(11)。 口から出て来るものは、心から出て来て、これが人を汚すのである(18)。」と言われました。マタイによる福音書15章に記されています。
7世紀の中国の仏典の中に「心は煩悩の源、口は災難が出て来る場所」とあり、そこから「口は災いの元」という格言ができて今でもよく知られています。興味深いのは、イエスと同様に問題は「心」にあることを指摘していることです。口に見張りを立てて、悪い言葉が出ないようにすることもなかなか困難ではありますが、一番厄介なのは「心」でそこをなんとかしなければ対処療法にしかならないわけです。
そこで詩人は、焦点を「口」から「心」に移します。私たちの心は常に悪の誘惑にさらされています。自分の目先の利益のために「悪い者に引きずられて悪事を共に働く」、「悪い者の差し出すご馳走を食べる」ということが起こります。「心」は神様に守っていただかなければならない、私たちの最大の弱点です。私たちの心が守られて、いつもイエスと共に歩めるように願い続けましょう。
3. 慈しみを持って戒めるてくれる人を持つ (5)
5 正しき人が慈しみをもって私を打ち私を戒めますように。悪しき者の油が私の頭に塗られることがありませんように。彼らの悪行の中にあってもなお私の祈りを献げます。
詩人はここで「悪しき者」に代えて「正しき人」を登場させます。自分のことを慈しみを持って叱り、戒める人の存在を期待しています。皆さんにはそのような人が存在するでしょうか?
先週のメッセージの中で互いに依存し合うことの大切さを教えられました。そして、それは神様が私たちにその働きを委ねられているということでもありました。私たちは皆、そのような人が必要です。 誰も自分だけでで自身の心を正しく保つことは難しいからです。
家庭の中では、子供が小さいうちは親がその役割を果たします。親に適切に戒められない子供は不幸です。私はそのようにしてきたつもりですが、いつの間にか立場は逆転して、自分が子供たちに叱られ、戒められる存在となりました。実のところそれはとても恵まれていることだと思います。
教会は、そのように互いに神様の愛を動機として戒め合うことのできるコミュニティーです。牧師、リーダーが指揮し統制するような組織ではありません。かといって、互いに何の責任も追い合うことのない気ままなサークルでもありません。やはり、キリストの体であり神様の大きな家族なのだと思います。私たちが互いに、必要な時に必要な戒めをもらうことができるのは、イエスを中心とした互いの信頼関係です。
そしてその信頼関係を築く第一歩は互いに知り合うことです。教会の全ての人とよく知り合う必要はありません。でもミニチャーチのように数人の何でも話せ祈り合える人があなたにも必要です。
私は横浜の中華街の中にある教会にいたことがありますが、その日に礼拝の後でおしゃべりをしていた人たちと、教会の周りのいろいろな中華料理店でランチをすることが日曜日の一つの楽しみでした。今日も急いで帰る必要がなければ、誰かとランチしておしゃべりして過ごしてください。
4. 悪の敗北を期待する (6, 7)
6 彼らの支配者らが岩の傍らに投げ落とされるとき彼らは私の言葉を心地よいものとして聞くようになるでしょう。
7 地で石臼が砕かれるように彼らの骨は陰府の口にまき散らされます。
この部分は、NIVと協会共同訳では違った意味になっています。また多くの聖書がさらに異なる訳をしています。なぜそんなことになるかというと原文が“破損”しているからです。破損とは欠けている部分があって想像を加えなければ訳すことができない状態のことです。
聖書翻訳には元にする原語の聖書がありますが、それは、聖書学者たちが発見された多くの写本を比較検討、取捨選択して構成したものです。残念ながら、今までに発見されている写本の中には、この部分の意味が確定できるほど整ったものはないのです。
しかし、詩人の心を想像することを困難にするほどの破損ではありません。どの訳を取ろうと、はっきりしているのは、自分を苦しめている悪い者が滅ぼされることへの期待です。神様は、私たち一人一人の状況を知っておられます。私たちを耐えられない試練に合わせる方ではありません。それでも苦しい時、耐え切れずまだ目にしていない希望を口にすることを神様は喜んで聞いてくださいます。遠慮することはありません。 神様はきれいに整った祈りではなく、正直な心の願いを聞きたいと思っておられるからです。
5. 礼拝の心 2:主に目を向け、主に逃れる (8-10)
8 主よ、わが主よ、あなたに目を向けあなたのもとに逃れます。私の魂を捨て置かないでください。
9 私を守ってください彼らが仕掛けた網の罠から悪事を働く者の罠から。
10 悪しき者がこぞって自らの網に落ちますように。私はその間に逃れ去ります。
この部分から、礼拝の場が危険から逃れて駆け込む避難場所でもあるということがわかります。
私たちは日常生活の中で、さまざまな困難に直面します。不安、恐れ、怒りの感情が、平和、喜びの感情を吹き消して、生きる希望さえ失うことがあります。しかし、私たちには恵みによって礼拝の時が与えられているのです。
礼拝は日曜日の朝のこの場所に限らず、どこでも一人でも献げることができますといつもお話ししていますが、あまりの困難にその気持ちさえ削がれてしまうような時があることは皆さんもご存知だと思います。しかし日曜の朝のこの礼拝は、私たち一人一人の心の状態とは関係なく、イエスが手を広げて待っていてくださるところです。
教会はキリストの体です。イエスが、様々な人を通しても助けの手を差し伸べ、慰め、励まし、時には戒めてくださいます。そこが、一人で捧げる礼拝との大きな違いなのです。そして私たちにはその両方が必要です。
もし日曜日に人々と共に礼拝することを義務だと感じているなら、そうではなく大きな恵み、与えられている大きな特権であると思い直してください。
そして、今日、今ここでどのような願いでもイエスに打ち明け、期待しましょう。 この礼拝が、人生の大きな転換点となるかもしれません。期待して礼拝を捧げましょう。
(祈り) 神様、私たちも詩人のようにあなたを呼び求めます。あなたにもっと近づきます。
どうぞ、あなたが近くにいてくださることを実感させてください。
私たちは、自分では心やその思いが出てくる唇をコントロールすることができず、人を傷つけ、あなたを悲しませてしまうことがあります。
どうか、祈りの中で、またあなたが与えてくださっている、あなたにある誠実な友を通して、あなたの意思を教えてください。
また、友があなたの意をもって戒めてくれる時に、それをあなたの戒めとして聞くことができるように、私たちの心を整えてください。
私たちがいつもあなたの救いの翼のもとにいることができますように。
イエス・キリストの名によって祈ります。
要約
この詩では、礼拝に期待するべき基本的な態度と、その中で求めるべきことが歌われています。礼拝は神様と親しく過ごす場であり、私たちが困難から逃げ込んでこられるところでもあります。私たちの心の弱さは、神様に守っていただかなければ、災いを引き起こします。神様は教会という人々の集まりをご自身の体として守り導いてくださいます。私たちは、その中にあっては互いに支え合い、この世にあっては神様の働きを担っています。
話し合いのために
1. 詩人はなぜ神様に急いで来てほしいと呼びかけたのでしょうか?
2. どうしたら慈しみを持って戒めてくれる友を得ることができますか?
子どもたち(保護者)のために
この詩を一緒に読んで、年齢に合った易しい言葉に置き換えて説明してあげてください。なぜ自分たち(親・保護者)が礼拝を大切にするのかを伝えましょう。また、口から出る言葉の暴力が子供の言葉であっても深く人を傷つける力を持っていることをつたえ、神様にコントロールしてくれるように祈ることを勧めてください。叱ってくれる人、戒めてくれる人が必要なのは大人も子供も同じで、神様は誰かを通しても戒めてくれることを伝えてください。