主に向かって憐れみを求めよう

King David with Harp by Master of Jean de Mandeville, 1360-70
Levan Ramishvili from Tbilisi, Georgia, Public domain,
via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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主に向かって憐れみを求めよう

(詩編142)

永原アンディ

 
今日の詩は142編です。ダビデがイスラエルの王になる前に経験した出来事について、詩人がダビデの祈りを想像して作った詩です。最初に全体を読みましょう。

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 表題に「マスキール」とある詩は、詩編150編中に13編あります。そしてこれが最後の「マスキール」です。今まで「マスキール」とは何かということをほとんど説明していませんでしたので簡単に触れておきたいと思います。 
 聖書学の研究では「マスキール」が指図する、教示する、理解するといった意味を持つ動詞を語源とする言葉であるというところまではわかっています。 しかし、それ以上のことはまだ明らかにはなっていません。元になる言葉から、教訓的な歌、技巧的な歌といった推論がなされてきました。 ルターは「教示する歌」「教える歌」と訳しています。

1. 御前に嘆きを注ぎ出そう (1-3)

1 マスキール。ダビデの詩。ダビデが洞穴にいたとき。祈り。2 声を張り上げ、主に向かって叫び声をかぎりに、主に向かって恵みを求めよう。3 御前に嘆きを注ぎ出し御前に苦しみを告げよう。

神 ダビデはなぜ洞穴にいなければならなかったのでしょうか?以前に読んだ57編も同じ状況を歌っています。この出来事の経緯は、第一サムエル記に詳しく記録されています。中心は22章あたりですが、8章ぐらいから読み始めないと背景はわかりにくいので、まだサムエル記を読んだことがなければ、ぜひ最初から少しづつ読んでみてください。

 サムエルはイスラエルに王がいなかった時代の預言者で民族のリーダーでした。しかしサムエルが年老いて、もう直ぐこのリーダーを失う時が近づいたとき、民は周辺の強国のように王が必要だと、サムエルに強く願ったのです。

 もし民が本当に神様に従うなら、王は不要であるというのが神様の考えでしたが、神様は願いを受け入れ、サムエルに候補者を示しました。それが初代の王サウルです。

 ところがサウルはだんだん神様の意思を聞いて行うことをしなくなり、神様はサムエルに、サウルとは全く血のつながらない若者を示し、王となる油を注ぐことを命じました。そのころダビデは琴の奏者としても有名だったので、初めサウルはダビデをミュージシャンとして雇い、大変気に入っていたのです。しかし、ダビデの才能は音楽にはとどまらず、戦士としても、ペリシテ人の勇士ゴリアテを倒す活躍で、民の人気はサウルからダビデに移りました。

 サウルはその嫉妬心からダビデを憎み、彼の命を狙うようになり、その結果、ダビデは洞窟に逃げ込むという事態が起こったのです。

 この時のダビデには何の野心もなく、サウルに忠実に支えていたし、サウルの息子ヨナタンとは親友でもあったし、妻はサウルの娘でもあったので、この理不尽な状況を嘆き悲しんでいたのです。そこでダビデが「声を張り上げ、主に向かって叫び、声をかぎりに、主に向かって恵みを求め、嘆きを注ぎ出し苦しみを神様に告げた」と詩人は想像するのです。

 このことは、私たちが嘆き悲しむしかない状況の中でも神様の近くにいて、神様と親しく語り合えることを教えてくれます。私たちの求められている礼拝の姿の一部です。ダビデは、決して自分でことを急いで進めようとはしませんでした。忍耐して、その時の最善を信じて進み、自分を殺そうとするサウルを憎んだり反撃することなく、むしろ対決を避けて時を待ちました。そして彼は王位に就き、最も偉大な王として今でも覚えられています。

 しかし、ダビデの生涯はサムエル記、歴代誌に詳しいのですが、彼は人間として恐ろしく酷いこともしています。日曜の朝に聞いて楽しい話ではないので、知りたい人は後でサムエル記下11章をお読みください。私たちのほとんどがしてはいないほどの悪いことに手を染めたダビデですが、それでも私たちが見習うべきことがあります。それが「声を張り上げ主に向かって叫び、声をかぎりに主に向かって恵みを求め、嘆きを注ぎ出し苦しみを告げる」という態度です。

 私たちの主は必ず皆さんの声を聞き、それに応えてくださいます。詩人もまた、この詩を歌うことで、自身の置かれている情況とサムエル記に記されているダビデの情況を重ねて、嘆きを注ぎ出して礼拝しているのです。  

 そしてこの詩が詩編に収められているということは、それが個人的な体験にはとどまらず、民全体の危機の中で歌われ、民全体の叫びとして神様に届けられたということを示しています。私たちも、個人的な状況だけではなく、ユアチャーチという民全体のこととして、何を危機と感じ、何を主に叫び求めなければならないのか考える必要があると思います。

2. 魂が萎え果てるときにも逃れ場がある (4-6)

4 私の霊が萎え果てるときもあなたは私の小道を知っておられる。私が歩むその道で、彼らは私に網の罠を仕掛けた。
5 私の右側に目を注ぎ、よく御覧ください。私に気を留める人などいない。逃げ場も失われ私の魂を気遣う人もいない。
6 主よ、私はあなたに向かって叫び、言います「あなたはわが逃れ場 生ける者の地の、わが受くべき分」と。

 ダビデは若く優れた戦士でしたが、彼の命を狙うのは、ペリシテ人などの敵だけではありませんでした。同胞の、しかも自分の君主であり義理の父であるサウルからも命を狙われていたのです。
 敵の攻撃よりも、信頼関係で結ばれていた親しい間柄の人の裏切りは、はるかに大きなダメージを人に与えます。このときダビデは自分の魂が「萎え果てている」ことを感じていたのでしょう。この時期のダビデは、いつ仕掛けられた罠にかかり殺されてしまうか、全く気の抜けない日々を過ごしていました。そしてそばには、共に歩んで励まし慰めてくれる家族も友もなく、追い詰められて逃げ込むところもないような苦しみを味わっていました。

 それでも詩人は、ダビデが神様を信頼し続けていることを知っています。そこで、「私の霊が萎え果てるときもあなたは私の小道を知っておられる」と歌います。自分の目に映る絶望的な情況ではなく、神様の目に見えている現実があると信じているのです。
 それは、道を歩いている自分には見えなくても、神様にはドローンのカメラで上から俯瞰しているように先まで見えている。だから信頼していれば、仕掛けられている罠を避けることができるよう導いてくださるという信頼が心の底のあるのです。
 そして自分の右側には誰もいてくれないけれど、そうであればこそ神様ご自身がいてくれるはずだという期待を持っています。右と左は英語でも日本語でも単に位置的な違いだけではなく優劣の違いを表す言葉です。少しの例外を除けば「右」の方が優れた意味、「左」には劣った意味に使われます。皆さんも聖書の中では、特に右側という表現がよく出てくることに気づいているでしょう。聖書での使い方も例外ではなく、右は神聖さや正しさの側で、左は堕落や不正の側です。

 コヘレトは「知恵ある者の心は右に、愚かな者の心は左に。」 (10:2)と言い、イエスは 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。(マタイ25:3-34)と言っています。
 「自分の右側に誰もいないことをよく見てください。」とは、「自分を大切にしてくれる人、頼りにできる人はいないのです。」という訴えです。しかし、詩人にとってもっと切実なのは、神様がそこに、自分の右にいてくださるという気になれないということです。私たちにとって最も安心な状態は「主はあなたを守る方。主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。 」(詩 121:5) と実感できる状態です。皆さんは、主が右側にいてくださるという実感を持てているでしょうか?

 しかし、ダビデはそこで絶望して沈黙してしまうということはしませんでした。  そのかわりしたのは詩の最初にもあったように、主に向かって叫ぶことでした。 ここでは具体的にどのようなことを叫び、神様に言ったかが記されています。 「あなたはわが逃れ場、生ける者の地の、わが受くべき分」と叫んだのです。これがダビデの、そして詩人の、そして私たちの信仰です。困難の中で、不安や恐怖で魂が萎え果ててしまうことが不信仰なのではありません。困難の中で、自分の気持ちに正直になって叫び求めないことが不信仰です。 
 不信仰に陥らないように私たちも神様に向かって叫び、言いましょう。「あなたはわが逃れ場 生ける者の地の、わが受くべき分」と。礼拝は賛美、感謝だけの時ではありません。このように叫び求める時でもあります。このことも覚えて、今朝も主に向かって歌いましょう。

3. 信仰は逃れ場に入る鍵 (7, 8)

7 私の叫びに心を向けてください。私は弱り果てました。追い迫る者から私を助けてください。彼らは私よりも強いのです。
8 私の魂を牢獄から引き出してください。あなたの名に感謝するために。あなたが私に報いてくださるので正しき人々が私の周りに集まります。

  詩人の気持ちは交錯します。「あなたは逃れ場」と告白しても、苦しい気持ちは心の中から続けて湧き上がってきます。魂に自由はなく牢に繋がれている思いでいます。サムエル記に記されているダビデの歩みを辿ると、彼も同様に長く苦しんでいたことがわかります。私たち自身の歩みにも当てはまります。

 8月15日は79回目の「終戦の日」でした。この国にとっての最悪の日々が終わった記念日です。私たちはダビデのように戦争の中で逃げ惑っているわけではありませんが、今この時に、ガザやウクライナではそれが起こっています。また80年前、サイパンや沖縄で実際に、アメリカ軍の上陸によって、人々はダビデのように山林に逃げ込み、その中の洞穴に潜むことになりました。
 実は、彼らの命を脅かしていたのはダビデと同様に、実際の敵だけではありませんでした。彼らは民間人であったのだから洞穴を出てアメリカ軍に保護を求めることもできたのです。実際に日系人の兵士によって、安全に保護するから自殺してはいけないと呼びかけられてもいました。しかし、それにもかかわらず自死を選ぶ人が多くいました。そうすべきだと教育されてきたのです。
 ですから、それは正確に言えば、多くの人々、特に子供たちにとっては、国家による無理心中(forced suicide)でした。アメリカ軍ではなく自国の軍事独裁政権によって命を奪われたということです。 これは日本人が忘れてはいけない記憶です。
 イエスを主と信じる者にとっては、この日まで日本ではイエスを主と告白することは、非国民(unpatriotic person)であったことを忘れるわけにはいきません。天皇は国家元首であるだけでなく神とされていたからです。

 私たちの取り巻く状況はいつ急激に変化してもおかしくはありません。それでも私たちには駆け込むことのできる逃れ場が用意されているのです。前の部分で、「困難の中にあっても、自分の気持ちに正直になって叫び求めないことが不信仰なのです」と紹介しました。つまり「信仰とは困難の中にあっても、自分の気持ちに正直になって叫び求め続けること」です。詩人はこの“信仰”によってこの時を乗り越えようとしています。
 身の危険を感じて洞穴に身を潜めているような最悪の時こそ“信仰”を働かせる好機なのです。声をあげることを諦めてしまわない限り信仰は死にません。声をあげ続けましょう。礼拝を捧げ続けましょう。そこに逃れ場はあるのです。

(祈り) 神様、私たちの心を探ってください。満たし、癒し、力づけてください。
あなたは、今私たちが直面している困難を全てご存知です。
私たちがあなたと共に歩み、この困難を乗り越えることができるように助けてください。 イエス・キリストの名によって祈ります。

要約

困難の中で、不安や恐怖で魂が萎え果ててしまうことが不信仰なのではありません。困難の中で、自分の気持ちに正直になって叫び求めないことが不信仰です。身の危険を感じて洞穴に身を潜めているような最悪の時こそ“信仰”を働かせる好機なのです。声をあげることを諦めてしまわない限り信仰は死にません。声をあげ続けましょう。礼拝を捧げ続けましょう。そこに逃れ場はあります。

話し合いのために

1. 霊が萎え果てるとはどのような状態だと思いますか?

2. 信仰とはとたずねられたらあなたはどう答えますか?

子どもたち(保護者)のために

ダビデがどのような人であったか、神様がサムエルに告げて、サムエルが彼に油を注いだことや、琴の腕を認められてサウルに仕えたこと、信頼されたが、やがて嫉妬され命を狙われたこと、神様を信頼して、サウルと敵対することなく王位についたことについて紹介してください。そして、彼の最も素晴らしいところが、どんな時でも、遠慮せずに、神様に叫び求め続けたことであり、それこそが私たちが持つべき信仰であることを教えてください。