信仰的現実

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信仰的現実

(詩編144)

永原アンディ

 

 今日の詩は144編です。この詩は他の詩編からの引用が多く寄木細工のような印象があります。また11節までとそれ以降では内容も使われている言葉もかなり違っているのが、日本語の聖書でも良くわかると思います。例えば11節までの主語は「私」で、それ以降は「私たち」です。前半は特に、ほぼ以前の詩篇からの引用、加筆修正から編まれていて、特に18編からは多くの引用がされています。

1. 信仰はどのような意味で戦いなのか? (1-11)

1 ダビデの詩。わが岩、主をたたえよ。私の手に戦いを 私の指に戦闘を教える方。
2 わが慈しみ、わが城、わが砦 わが救い、わが逃れの盾 私の民を私に従うようにさせる方。
3 主よ、人とは何者なのか あなたがこれを知るとは。人の子とは何者なのか  あなたがこれを思いやるとは。
4 人間は息に似ている。その日々はさながら過ぎゆく影。
5 主よ、あなたの天を傾けて降り 山々に触れて煙を吐かせてください。
6 稲妻を光らせて敵を散らし 矢を放って彼らをかき乱してください。
7 高みから手を伸ばし 私を解き放って助け出してください大水から、異国の子らの手から。
8 彼らの口は空しいことを語る。その右手は欺きを行う右手。
9 神よ、私はあなたに新しい歌を歌おう 十弦の竪琴であなたをほめ歌おう。
10 王たちに救いを与える方 僕ダビデを災いの剣から解き放つ方。
11 私を解き放って助け出してください 異国の子らの手から。彼らの口は空しいことを語り その右手は欺きを行う右手。

a. それは異教、異文化、他国との戦いではない

 この部分はダビデの一人語りとして書かれています。それも、彼の内面のこととしてではなく、軍の最高司令官としての王の心境と願いとして描かれています。そして神様は異教徒の国に対する戦争を王に教え、民を王に従わせ、他国を滅ぼすことを望む存在として描かれています。

 私たちは、神様が「私の手に戦いを私の指に戦闘を教える方」であると歌われたこの詩をどのような意味で受け取ったらよいのでしょうか。

 「聖書は一言一句“誤りのない”神様の言葉であるから、その言葉通りに受け取らなければいけない」と主張する人々がいます。そのように主張する人々は、今でも、ユダヤ・キリスト教とそれ以外の宗教、ユダヤ・キリスト教国とそれ以外の国、キリスト教文化とそれ以外の文化とを対立的に考えます。そして異教・異文化の国や勢力は軍事力によって、場合によっては核兵器を使ってでも滅ぼすべきだと主張します。これはキリスト教原理主義・キリスト教民族主義と言われる主張です。これは決してイエスの教える道ではありません。

 極端に思われるかもしれませんが、この考え方の影響は無視できないほどに大きいのです。そしてこの考え方は、移民の人権が差別的な嘘によって脅かされたり、パレスチナ人の命が非常に軽く扱われたり、LGBTQ+への偏見差別が正当化されたりしている現実を生み出しています。原理主義というとイスラム原理主義を思い浮かべる人が多いと思いますが、原理主義の元祖はキリスト教原理主義です。むしろキリスト教原理主義に対抗するように他の原理主義も過激になってしまったと私は思います。それでは聖書はどのような意味で神様の言葉なのでしょうか?

 私は、聖書は「人の言葉で書かれた神様の言葉」であると信じています。

それはどういう意味かと言えば、書かれた一言一句には、はじめに伝承を文字として残した人の限界が反映されているということです。その人の生きた時代、文化の限界です。そしてまた、古代語からの翻訳という点で、真意が十分には伝わらない、誤解を生むという、人間の言葉の限界もあるということです。

 ですから、よく言われるようにその部分だけを抜き出して読むのではなく、文脈を踏まえて読んだとしても、真意が伝わらない場合があります。「行間を読む」という表現があります。表面的な「文字通り」ではなく、著者の意図を注意深く解釈することの勧めです。しかし、それには信頼できる基準が必要です。そうでなければ、読み手は自分の都合で、神様の意図を“盛る”ことになります。 

 幸いなことに私たちには基準があります。それは福音書です。そこに記録されているイエスの言葉、イエスの行動を念頭において、語られていることが自分にとってどのような意味を持つかを考えればよいのです。

 もちろん記録されているイエスの言葉も、人の言葉で書かれた神様の言葉であることは免れません。現代であれば差別語として非難されるような言葉も使っています。人となられた神様は、人としての限界をも引き受けました。しかし、当時の宗教家たち、弟子たちや使徒パウロらの言動と比較してみれば、その違いは明らかです。あの時代にあっても、イエスには人種や性別、宗教の違いによる偏見や差別がほとんど見られません。むしろ、イエスは少数者、社会的弱者の側に積極的に立たれました。異邦人を滅ぼすべき敵とは見做しませんでした。自分たちの基準に合わない人々を罪人と断罪した宗教家たちを厳しく非難されました。イエスの弟子たちの中には、熱心党と呼ばれたローマ帝国の支配を武力で覆そうとする民族主義団体にいた人もいましたが、イエスはローマに対する軍事的反抗には興味がありませんでした。それどころかローマの軍人の願いを聞き入れて彼の部下の重い病を癒しさえしています。

b. それは自分の内なる罪との戦い

 それでは私たちが戦うべき戦いの相手は誰なのでしょうか。ヨハネによる福音書の18章で、イエスはローマ総督の「あなたはユダヤの王なのか」という問いにこう答えています。

「私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦ったことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない。」

 このイエスの言葉によれば、彼の言う戦いが目に見える国と国、人と人の間の争いではなく、目には見えない霊的なものであるということがわかります。 

 しかし「霊的な戦い」という言葉は注意深く扱わなければなりません。一部のキリスト教会では「霊の戦い」という言葉が誤解されて使われてきました。 それは私たちの生活の中で悪霊が力を発揮し、私たちはそれに対抗する戦いを悪霊に対して挑まなければならないという考え方です。この考え方の致命的な問題は、「悪霊」という自分以外の存在に責任を押し付け、問題の核心が自分自身にあるということから目を逸らせるところにあります。

 そして自分が受け入れられない存在を悪霊と結びつけてしまいます。それは最初にお話しした、他国や他宗教を敵とする考え方を信仰的に補強するものでしかありません。YouTubeには、キリスト教原理主義や、キリスト教ナショナリズムに加えて、他宗教や、異文化や、性的マイノリティーを悪霊に支配されている悪だと主張するような動画も多く存在します。それはイエスの教えから遠く逸脱したものです。

 イエスは、ご自身がこの世界にこられた理由を福音書の中で何回かはっきりと告げておられます。それらの言葉に、イエスの示す本当の“霊的戦い”の意味が表されています。2箇所紹介します。

私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」 (ルカによる福音書 5:32)

私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。(ヨハネによる福音書 10:10)

これらのことから、イエスは人や国や宗教を敵と想定して戦うことを教えにこられたのではなく、一人一人の魂を罪の力から解放するためにこられたことがわかります。

 6月に聞いたヨハネによる福音書8章前半のメッセージを覚えていますか?姦淫の罪で捕らえた女性を石で打とうとしている人々に対してイエスはどのように言われましたか?イエスは「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」といわれ、内心を偽って石を投げる者はひとりもいませんでした。

 人を責める前にまず見つめなければならないのはあなたの内なる罪です、とイエスは言われたのです。皆さんは、自身の内なる罪がどれほど醜く強力なものであることをよく自覚していると思います。しかしイエスは、自分でそれを始末しなさいとはおっしゃいません。私たちにはイエスの助けなしに罪に勝利する力はありません。イエスが主となって、私たちの内なる罪と戦ってくださるのです。私たちにできることは、イエスに聞き従って歩み続けることです。

 イエスはすべての人を罪から救い出す解放の戦いを今でも続けていますが、イエスに従う私たちの主戦場は自分自身です。イエスが命懸けで解放してくださった神の国の一部である魂が、再び罪の力に屈服してしまわないように、イエスと共に日々、小さな局地戦をひとつづつ勝ち取ってゆくことが私たちの戦いです。

2. 信仰的現実 (12-15)

12 私たちの息子は幼い時から健やかに育てられた若木のよう。私たちの娘は彫刻を施された宮殿の角の柱のよう。
13 私たちの倉は満ちておりさまざまなものを備えている。羊の群れは千倍にもなり野にあって万倍にもなる。
14 牛はよく子を産み死産も流産もない。巷に悲痛の叫びもない。

15 幸いな者、このような民は。幸いな者、主を神とする民は。

ここに書かれていることは詩人が生きている現実ではありません。詩人はこの描写とは正反対の困難の中で生きています。イスラエルは主の民を自認してきましたが、そのような時代は全くありませんでした。エジプトから脱出したとき、目指すカナンはそのようなところであることが期待されていました。しかし、カナンに定着してからも、ここに記されているような繁栄が実現されるような「神様の民」への特別扱いはありませんでした。

 この現実は、イエスを主と信じる私たちにとっても同じです。イエスは私たちにこの世の物質的な繁栄をもたらす方ではありません。先にお話しした、ピラトに対するイエスの答えを思い出してください。

「私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦ったことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない。」 

つまり、この部分に書かれているのは、イエスの治める神の国の現実なのです。しかしイエスは、神の国はすでに世界に来ているとも言われました。それは王であるイエスとイエスに従う私たち、つまり教会のことを指しています。教会は、この世界の様々なところに店舗を持つ神の国のアンテナショップです。ここでは、経験している現実が過酷なものであっても、私たちは皆、主イエスとの関係にあってかけがえのない存在として大切にされ、必要を満たされ、自分を幸いな者と自覚することができるからです。 
この神の国の現実は、私たちが置かれている状況とは全く異なっているので、私たちには直面する状況が現実と思え、絶望してしまいます。国籍が天にあることを忘れてしまいます。神様は私たちがその現実を見失わないために礼拝と教会を備えてくださいました。 
 この後のワーシップタイムで、私たちの魂がこの信仰的現実、霊的現実にふれてリフレッシュされることを期待して礼拝しましょう。

(祈り)神様、あなたが私たちを罪から解放してくださってありがとうございます。
私たちの内に罪の性質は残っていても、それにコントロールされることがないように守っていてくださり、ありがとうございます。
罪の誘惑に耳を傾けず、あなたの思いを行うことができるように、あなたの力を私たちのうちに満たしてください。
あなたが、私たちに神の国の国籍とともに与えてくださった、直面している状況より確かな信仰的な現実をありがとうございます。
私たちがもっとはっきりと神の国を指し示すことができるように教え導いてください。
イエス・キリストの名によって祈ります。

要約


旧約聖書の中には神様があたかもユダヤ民族だけを守り、他宗教や異民族を滅ぼすべき対象と考えているかのように受け取れる箇所がありますが、それは人の言葉で書かれた神様の言葉としての言語的な限界です。聖書の語る真意は、福音書の記されたイエス・キリストの言動を通して正しく受け取ることができます。私たちの属する神の国の現実は、置かれている情況にかかわらず、恵みに満ち足りた幸いなものです。私たちはそれを礼拝で、教会で実感することができます。

話し合いのために

1. あなたの敵は誰ですか?

2. 神の国とはどのようなものですか?

子どもたち(保護者)のために

マタイによる福音書5:43-48を読んで、敵とは誰か考えさせてください。