永原アンディ
(テトス 3:1-15)
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神様はイエスを通して私たちに聖霊を豊かに注がれた
今日はテトスへの手紙の最後の章についてお話しします。ここにはテトスへの最後の勧めと警告と指示と挨拶が記されています。内容は1、2章に重なることも多いのですが、重ねて言わなければならないほど重要だったのです。私達がイエスに従って生きる上でもしっかりと心に留めておくべきことです。始めに1, 2節を読みましょう。
A. 最後の勧め (1-8)
1) 良い業/良い態度 (1, 2)
人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。(1-2)
通勤電車の車内で些細なことから喧嘩を始まり、電車が遅れるということがこの頃よく起こります。若者だけではなく、中年も、年寄りも、中には孫とおじいさんほどの年の差で言い合っていることもあります。前回のメッセージで、誰であれ共通に求められている態度についてお話ししましたが、それが何であったか覚えていますか?それは自制でした。自制という言葉はもう辞書から消えてしまったように日常生活の至る所で人と人が対立、衝突するのを見ます。15年前の今日、マンハッタンで起きた事件を忘れた人はいないでしょう。誰もが世界はこのままではいけないと感じたはずです。しかし、その後の15年が平和に向かって大きく前進したとは思えません。世界中の人々、特に人々を指導する立場にあるような人たちが互いにもっと「自制」を働かせることができていたら、もう少し世界は平和になっていたことでしょう。しかし私たちは「自制」するより、”他制”(他人をコントロール)したいと思うのです。あの出来事によって大切な家族や友人を失った方々の悲しみは、たとえ今元気に生活していたとしても、心の底に重く存在しているでしょう。今日はひと時、彼らのために神様の慰めを祈りましょう。
現代の私たちは、特定の支配者、権威者がいなくても社会は成り立つことを知っています。民主主義は相変わらず完全ではありませんが、2000年前に比べれば、人権、正義、公平さにおいてはるかに良い社会です。私たちには支配者、権威者はいなくても服すべき支配、権威はあります。それは民主的方法によって決められたルールです。全世界に共通するような普遍的なルールもあれば、そこだけで通用するローカルルールもあります。看板に書かれているようなものもあれば、書かれていないルールもあるので、初めての人は戸惑いますが、たいていの人は、それに気付けば自然に従います。今私たちに求められているのは、自分が置かれている人間関係の中で、それを良好に保つルールを尊重しましょうということです。当たり前だと思うでしょうか?でも、私はそのように生きてきたと胸を張れる人はいないはずです。人は相手の気持ちより、つい自分の欲望を優先してしまうものだからです。
一方、迷惑な人に遭遇した時の態度についても、ここに触れられています。自分には落ち度がないのに迷惑をかけられる時、自制はもっと働かなくなります。相手を攻撃するのに正当な理由があるように思えるからです。しかし、イエスに従う人に求められているのは、「だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならない」 しかもここには「すべての人に」という厳しい条件が付けられています。
とても難しい。しかしそれは可能です。この後の部分にそのことが書かれているので読んでいきましょう。3-8節です。
2) 勧めの根拠 (3-8)
わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です(3-8)
ここに書かれている通り、イエスを信じ、過去の生き方から救われた私たちです。 しかし、その性質を突然変えてもらえたわけではありません。ですから時々その性質が現れてしまうことがあってもがっかりする必要はありません。ましてや自分が救われていないのではないかなどと考えてはいけません。私たちに与えられたのは「新しい性質」ではなく、新しい「物差し(yardstick)」なのです。私たちは自分の欲望という古い物差しで見ることをやめ、イエスという物差しで見ることを決心しました。これが救いです。そして、古い性質を持ったままの私たちが、何度失敗しても、不完全ながらも新しい生き方をして行こうと思いつづけられるのは、神様がイエス・キリストを通して聖霊を私たちのうちに豊かに注がれているからです。イエスを主と信じ従う者は、聖霊によって、日々成長しているのです。「この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、(全ての人)に有益です (3-8)」 これがユアチャーチで起こっていることです。世界は必ず変わります。あなたが新しい物差しで生きてゆく限り、そのことは全ての人にも益となります。私たちが毎週ここに集う理由の一つは、この聖霊の注ぎを新たに実感するためです。聖霊の注ぎは客観的な事実ですが、私たちが力強く歩んでゆくためには、事実として知っているだけでは足りません。ユアチャーチの礼拝では、聖書のメッセージの後で、神様に向かって歌う時を持ちます。このワーシップタイムこそ聖霊に満たされるチャンスです。一心に心を神様に向けて歌う時、神様はあなたのすぐ近くに来て、聖霊を豊かに注いでくださいます。今日も期待して歌いましょう。必要なら、礼拝の後でも、あなたが聖霊に満たされるように祈りますからリクエストしてください。 また午後のサンデーPAWSも聖霊の満たしを実感出来る良い機会ですから参加してみてください。次に読む9-11節は最後の警告です。
B. 最後の警告 (9-11)
愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。あなたも知っているとおり、このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです。(9-11)
ここを読むことによって、私たちは、ただどんなことでも受け入れて、有害なことでも我慢しなさいと言われているわけではないことがわかります。特に、教会という神の家庭の中にあってはいけないことは厳しく取り除きなさいと記されています。私たちにとって「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議」とは何でしょう。それはイエス・キリストの福音の本質に関わらないことです。福音の本質とは神様がイエスとしてこられ十字架にかかり、私たちのために命を捧げ、死からよみがえられたということです。私たちはこの神様に「私に従って人生を歩みなさい」と招かれています。それだけは確かです。しかしイエスに従うとは具体的にどういうことなのか?を考えて実践するのは私たち、限界のある人間です。いろいろな考えがあります。どの考えが本当に正しいかは誰にもわかりません。真理に従ってどう実践するのかは、それぞれの目に見える教会に任されています。ユアチャーチで教えられている実践について受け入れられないことがあるなら、まず牧師に話してみましょう。話してみると誤解だったり、どちらかの考えが変えられるということもあるものです。しかし、話し合ってみても互いの確信が揺るがないなら方法は二つしかありません。ここを去って同じ考えを持つ人々と共に歩み始めるか、自分で新しく始めるかです。 留まって教会を自分の考えに変えさせようとすることは、エネルギー、時間の無駄であるばかりか、分裂を引き起こし、多くの人に害を与え、誰にも益をもたらしません。
この警告をした後、パウロは最後に幾つかの具体的指示をし、クレタの人々を祝福し筆をおきます。それではこの部分を読みましょう。12-15節です。
C. 最後の指示と挨拶 (12-15)
アルテマスかティキコをあなたのもとへ遣わしたら、急いで、ニコポリスにいるわたしのところへ来てください。わたしはそこで冬を越すことにしたからです。法律家ゼナスとアポロとを、何も不自由しないように、よく世話をして、送り出してください。わたしたちの仲間も、実際に必要な物を賄うために、良い行いに励むことを学ばねばなりません。実を結ばない者とならないためです。わたしと一緒にいる者たちが皆、あなたによろしくと言っています。わたしたちを愛している信仰の友人たちによろしく伝えてください。恵みがあなたがた一同と共にあるように。(12-15)
前半で学んだ勧めが具体的な指示として示されています。互いのために、また訪れる者のために、そして送り出す者のために私たちは最善を尽くすよう期待されています。この夏は久しぶりに2週間ほど独立した二人の子供たちが同時に滞在してくれたので思い出深い夏になりました。どちらもこれから家族が増えてゆくのでしょうから、このようなチャンスはもうないでしょう。しかし、彼らはどこに住んでいても家族であることに変わりはありません。ユアチャーチも同じです。23年の間、多くの人が集い、この大きな家族の一員となりました。そして、ここから人生の新しいステージに移るために旅立った人も多くいます。世界のどこに住んでいても家族であることには変わりありません。私たちが、「私たちはユアチャーチです」という時、その言葉は、パウロが勧めたのと同様、「全ての人」に向けられています。聖霊に満たされて、良いわざに励みましょう。聖霊に満たされてさらに「だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接する」ことができるようにしていただきましょう。
メッセージのポイント
イエスを信じ、過去の生き方から救われた私たちですが、その性質を突然変えてもらえたわけではなく、生き方の新しい物差しが与えられたのです。私たちは自分の欲望という古い物差しで見ることをやめ、イエスという物差しで見ることを決心しました。古い性質を持ったままの私たちが不完全ながらも新しい生き方をすることができるのは、神様がイエス・キリストを通して聖霊を私たちのうちに豊かに注がれているからです。
話し合いのために
1) 良い態度とはどのようなものですか?
2) パウロがユアチャーチに手紙を書くとしたらどのようなことを勧めるでしょう?
子供達のために
子供達に教えるべきことは、服従しなさい、良い態度をとりなさいではありません。そうではなく、イエスならどう考え、どうするだろうと考えることを勧めてください。基準は自分の考え(物差し)ではなくイエスの考え(物差し)。イエスの物差しをよく使えるようになるために大切なことは、聖書の言葉を読むことだけではありません。イエスの物差しを使う。つまり自分勝手に生きるのではなく、イエスの願いに従って生きるという決心が絶対に必要です。この決心をした人は洗礼を受けます。こうしてイエスに従い始めた人を聖霊(今、信じる人と共にいて生きて働いている神、イエスキリストの霊)が導き助けて、少しづつイエスのような者に変えられていきます。皆さんのお父さん、お母さんもそのような人たちなのです。