差別と絶望との闘い

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差別と絶望との闘い


シリーズ「障害者と相互依存の神学」第4回 (マルコによる福音書 10:46-52)

池田真理

 今日はキャシー・ブラックさんの本を読むシリーズの第4回です。このシリーズでは「障害者と相互依存の神学」をテーマとして、障害を持つ人も持たない人も互いに依存して生きることの大切さを考えています。今日は、マルコ福音書10章にある盲人バルティマイの話を読んでいきます。

 この話は多くのことを私たちに教えてくれていますが、今日は前半と後半で違う切り口から考えていきたいと思います。前半は、バルティマイを取り巻く環境から考察して、障害を持つ人々とイエス様が差別とどのように闘ってきたのかを考えます。後半は、バルティマイ個人の行動を通して、生きることへの絶望感とどう闘えば良いのか考えます。それでは全体を読んでいきましょう。

46 一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。47 ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。49 イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、また見えるようになることです」と言った。52 イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。 

A. 障害者差別との闘い
1. 社会は障害を持つ人々を差別してきた

 48節に、「多くの人々が(バルティマイを)叱りつけて黙らせようとした」とあります。バルティマイは目が見えなかったので、イエス様がどこにいるのか見えません。だから、イエス様に気が付いてもらうためには自分の置かれた場所で叫ぶしかありませんでした。そんな彼を人々が「イエス様はこちらだよ」と手を引いて導くのではなく、「叱りつけて黙らせようとした」のは、彼らが障害者に対して差別意識を持っていたからです。彼らは彼のことをまるで子供が駄々を捏ねているだけかのように扱いました。盲目なら物乞いをするしかなく、物乞いをしている人が大声を出して人に迷惑をかけるべきではないと、彼らは当たり前のようにそう思ったのだと思います。

 このことは、現代にも残っている、障害者に対する差別に共通していると思います。障害を持つ人々のことを見下したり、邪魔者扱いしたり、彼らの考えや思いを無視したりすることです。障害を持つ人々はできるだけ社会に適合する努力をするべきであり、適合できないなら社会に参加することはあきらめるしかないだろうという考え方です。そのような考え方は、障害を持つ人々が持たない人々と全く同じ価値を持つ一人一人の人間であるということを無視した考え方です。

2. 障害を持つ人々は声を上げ続けてきた

 そのような差別の中で、障害を持つ人々は、自分たちの権利を守るために声を上げ続けてきました。ちょうど、バルティマイが人々に制止されても、なお一層激しく叫んだようにです。

 皆さんは、 “Nothing About Us Without Us” (私たちのことを私たち抜きに決めないで)という言葉を聞いたことがあるでしょうか?私は去年社会福祉の勉強をしている中で初めて知りました。この言葉は、国際的に障害者の間で掲げられてきたスローガンで、2006年の障害者権利条約を成立させる大きな原動力になったそうです。社会が障害者に対してすべきことが何かを、障害者を抜きにして勝手に決めるのはおかしいという意味です。多くの障害者が、差別をなくすために長年にわたって活動してきました。障害は障害者ではなく社会が作り出すものだというのが、彼らが訴え続けてきたことです。

 人々が自由にイエス様に近づくことができたように、盲人のバルティマイも当然同じことができるべきでした。それができなかったのは、目が見えないという彼個人の身体的障害のせいではなく、人々がそれを許さなかったからです。また、目が見えない彼の手を引いてイエス様の元に連れて行くという配慮を怠ったからです。だから、バルティマイは叫び続けるしかありませんでした。

3. イエス様は障害を持つ人々の自己決定権を尊重した

 バルティマイに気が付いたイエス様は、彼を呼びました。そして、これが今日の箇所全体を通して一番注目したい点ですが、イエス様は彼に「何をしてほしいのか」と尋ねました。イエス様はバルティマイが盲目であることに気が付いていたはずですし、彼が何を願っているのかも知っていたはずです。それでも、イエス様は彼が何を望んでいるのか決めつけないで、彼自身の口から直接聞こうとされました。イエス様は、バルティマイが自分で自分のことを決める権利を持っていることを尊重したと言えます。障害者権利条約で言えば自己決定権の尊重ということになります。イエス様はもちろんそんなことを意識したのではなく、バルティマイの意志を尊重することはイエス様にとって当然のことだったのだと思います。

 イエス様のように、障害を持つ人にも持たない人にも同じ権利があり同じ価値があるということを当然のこととして、一人ひとりの人間を大切にすることが、障害者差別をしないということです。ですから、障害者差別をなくす闘いの中でも、イエス様は私たちのリーダーです。実際に、差別と闘う多くの人にとってイエス様は励ましであり道標であってきました。私たちもその後に続くことができるでしょうか?

 それでは、ここから後半に入ります。ここからはバルティマイ個人の闘いに目を向けていきたいと思います。

B. 絶望との闘い
1. 体の機能を失う絶望感

 バルティマイ個人がどういう人であったのか、聖書にはこの箇所以外に彼について語られている箇所がないので推測するしかありません。ただ、いくつか注目すべき点があります。

 まず、福音書の中でイエス様が人々の病を癒す物語はたくさんありますが、癒された人の名前が記録されていることはほとんどありません。バルティマイの名前が記録されたのは、彼が後によく知られた人物になり、過去にどのような形でイエス様に出会ったのかを知らせる話だったのかもしれません。

 もう一つ、これは解釈が分かれるところですが、彼は生まれつき盲目だったのではなく、中途障害者だった可能性があります。私たちが今使っている日本語の協会訳聖書では、51節のバルティマイの言葉を「また見えるようになりたい」と訳していて、彼が過去には見えていたことを示唆しています。でも英語のNIVではただ「見えるようになりたい」と訳しており、「また(再び)」という言葉は含まれていません。日本語の一つ前の訳、新共同訳聖書でもNIVと同じように訳していました。

 キャシー・ブラックは彼が中途障害者であったと解釈しています。そして、彼は視力を失うという喪失経験をしており、視力を回復することできれば取り戻せる多くのことがあると知っていたのではないかと読んでいます。それは、生まれつき目が見えない人の苦しみとは別の苦しみです。

 それまでできていたことができなくなるという体験を、私はまだしたことがありません。なので、近しい人たちが事故や病気や老いによってそのような体験をしてどのように感じているのか、想像するしかありませんが、喪失感と無力感を感じるものだろうと思います。程度によっては恐怖や絶望感もあるのだと思います。それによって自信を失ったり、社会の中で取り残されたような寂しさを感じたりもするのかもしれません。そのような時にどうすれば良いのか、バルティマイは教えてくれているのではないかと思います。

2. 癒しよりも憐れみを求める

 バルティマイは、どこにいるのか分からないイエス様に向かって、「私を憐んでください」と叫びました。彼の願いが視力の回復であったことは明らかですが、彼が叫んだのは「私の目を治してください」ではなく、「私を憐んでください」でした。

 「私を憐んでください」という言葉は、「私のことを忘れないでください。こちらを見てください。私はここにいます。私を覚えていてください」と言い換えられると思います。これは、身体的にも社会的にも大きな喪失を経験している自分のことを、神様は変わらずに覚えてくださっているということを確かめるための叫びです。「私には失ったものがあり、それは私は失いたくなかったもので、あなたがなぜそれをゆるしたのか分からない。それでも、あなたは良い方で、正しいことをなさる方ですよね。それを示してください」という叫びです。体の健康を取り戻すことよりも、神様を信頼できることの方が重要だという告白でもあります。

3. 叫び続ける

 バルティマイはこの叫びを、周囲の人に邪魔をされても、叫び続けました。それは彼が必死だったからかもしれませんが、彼が自分が叫び続けることは正しいことだと信じていたからでもあると思います。自分は見下されていい存在ではなく、無視されていい存在でもないこと。人々が自分をそのように扱ったとしても、神様はそんな方ではないはずだということ。自分は自分のより良い未来のために何もできない受け身の存在ではなく、人々の哀れみにすがるしかないかわいそうな存在でもないこと。目が見えなくても、行きたいところに行き、会いたい人に会う自由があること。誰もその自由を奪う権利を持たないこと。

 私たちは、誰もがバルティマイのようにいつも強くいられるわけではありません。叫ぶ力がない時はそれでもいいと思います。ただ、彼から学ぶべきだと私が思うのは、叫びたいと思ったら叫んでいいということです。私たちが一人ひとり自分らしく生きるための自由や希望を、他人が妨げていることがたくさんあります。それをそのままにして黙っている必要はなく、堂々と声を上げていいのです。

4. 「あなたの信仰があなたを救った」

 バルティマイの願いを聞いたイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と告げて彼の目を癒しました。英語のNIVでは「あなたの信仰があなたを癒した」と訳しています。原語のギリシャ語の動詞が「救う」とも「癒す」とも訳せるので、両方の訳とも正しいのですが、私は「救った」と訳す解釈の方が全体の意味をとらえるのにふさわしいのではないかと思います。

 先に、バルティマイが叫び続けたのは「私を憐んでください」であって「私の目を治してください」ではなかったとお話ししました。彼は、自分の目が見えるようになることも望んでいましたが、それよりもまず神様が自分のことを忘れていないことを確かめることを望みました。視力の回復よりも、神様の憐れみを信頼できることの方が、彼にとっては重要だったのです。

 そのように神様の憐れみを信頼できることこそが、私たちを救うのではないでしょうか。失ったものを取り戻せなくても、問題が解決しないままでも、神様の憐れみは変わらないと信頼できることが、私たちを絶望から救い、希望に導きます。神様を信頼するというのは、疑問や迷いが一切ないということではなく、バルティマイのようにただ「私を憐んでください」と叫んでいるだけの時もあります。それが私たちの信仰だと思います。それが、私たちを救い、導きます。

5. なお道を歩まれるイエスに従う

 目を癒されたバルティマイは「なお道を進まれるイエスに従った」とありました。これには象徴的な意味があると思います。

 今日は詳しく説明しませんでしたが、この場面はイエス様がエルサレムに向かってエリコの町を出るところで起きた出来事でした。イエス様はエルサレムで自分が殺されることになることを既に弟子たちに予告していました。

 なので、「なお道を進まれるイエスについて行った」というのは、イエス様の十字架の苦しみを共に担う道を歩んでいくという象徴的な意味があります。それは、声にならない叫びさえもイエス様は聞いておられて、確かに忘れていないということを、世界に伝えていく道のりです。イエス様自身が、十字架の上で、「神様、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。それは、その叫びを私たちが叫ぶとき、イエス様が共におられ、決して私たちを忘れていないと証明するためでした。どんな絶望の中にも、イエス様は共にいます。叫ぶことを諦めた痛みも、叫ぶこともできないほどの苦しみも、反対に誰かの叫びを邪魔したり無視した過ちも、イエス様は十字架で一緒に担ってくださいました。叫びにならない叫びが世界には溢れています。私たちは、イエス様と共に、その叫びを聞き取って、彼らの代わりに叫ぶ役割も与えられています。

 差別との闘い、絶望との闘いは、言い換えれば、正義を求める闘いであり、希望を信じる闘いです。私たちはそれを闇雲に闘っているのではなく、イエス様の十字架という確かな根拠と、イエス様の愛という確かな導きをいただいて闘っています。イエス様を信頼していきましょう。

(祈り) 主イエス様、どうぞあなたが私たち一人ひとりの心に触れてください。あなたは確かに私たちの叫びを聞いておられると教えてください。私たちの心が暗くなる時、弱くなる時、あなたの光で照らして強めてください。体や心の健康を失って、自分ではどうしようもない時、私たちには分からなくてもあなたは一番そばで支えてくださっていると分からせてください。私たちに分かるように、教えてください。そして、あなたの意志に叶うなら、具体的な状況を改善して私たちを励ましてください。それが叶わないなら、私たちが希望を失わないであなたを信頼できるように、強めてください。そのために私たちが互いに祈り合い支え合うことができるようにしてください。主イエス様、あなたが私たちを出会わせてくださいました。あなたについていきます。あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約

<キャシー・ブラック著「癒しの説教学−障害者と相互依存の神学」を読むシリーズ第4回>マルコ福音書に記録されている盲人バルティマイの物語は、古代から現代に至るまで障害を持つ人々は自分たちの権利が守られることを求めて差別と闘ってきたことを教えてくれます。イエス様は、障害者権利条約が国連で採択されるより二千年も前から、障害者の権利を当然のものとして守り、彼らの闘いを共に闘ってこられました。その闘いは、障害だけに限らず、私たちが生きることに絶望した時、どう闘えば良いのかを私たちに教えてくれます。それは、十字架に向かうイエス様に従う道であり、問題の解決や病気の癒しそのものを求めるよりも、神様の憐れみを信頼して歩む道です。

話し合いのために

1. 「あなたの信仰があなたを救った」とはどういう意味ですか?

2. 絶望の中で叫び続ける力がない時、叫ぶことに疲れてしまった人を目の前にした時、どうすればいいですか?

子どもたちと保護者の皆さんのために

短い箇所なので一緒に読んでみてください。絵本でもいいです。注目してほしいのは51節のイエス様の問いかけです。イエス様はバルティマイが目が見えるようになりたいと望んでいたことは分かっていたはずなのに、「何をしてほしいのか」と聞きました。なぜだと思いますか?一緒に考えてみてください。(「自己決定権の尊重」がヒントです。)