永原アンディ
(詩編 14)
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神は従う人々の群れにいます
今日から詩編を1編づつ読んでゆきます。1-14編は2008年にお話ししたので興味があればWebから読んでみてください。それでは14編を読みましょう。
A. 求める人々を探す神様 (1-8)
1) 神様はあなたを探している
今日皆さんに最初に注目していただきたいことは、神様があなたを探しているということです。なぜあなたかといえば、あなたがこの礼拝の場にいるからです。あなたがここにいるのは、あなたが神様を信頼している人か、あるいは信頼できるか本当に存在するのか知りたい人です。1節にあるような「神などいない」と思っている人はここに来たいとは思いません。そして神様はそのような人々には目を向けず、あなたのような人々を「目覚めた人、神を求める人はいないか、と主は天から人の子らを見渡し、探される」(2)のです。これは神様の恵みの中心です。人間は自分で本当の神様を見つけることはできません。しかし求める人を見つけ出してくださるのです。
イエスはこう言っています。「 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハ 15:16)」
イエスはあなたが選んだ神ではありません。あなたは確かに、本当に信頼できる神はどこにいるのだろうかと探していたかもしれません。しかし、あなたがイエスを見つけて、他の神々と比べてイエスに決めたのではありません。イエスがあなたを探して、見つけ出し、救い出したのです。 頭ではそう信じているかもしれませんが、私たちの神様に対する態度は時々、「自分が選んであげた」的なものになってしまいます。「こんなに祈っているのに聞かれない」「なんで信じている私がこんな目に遭わなければならないの?」
この態度は、人を高慢にさせ、やがて再び神に背を向けた生活に迷いさせます。そのような人は与えられている大きな恵みを受け取らないで、自分の頭の中にある神を信じている人です。自分をキリスト教徒だと信じていたとしても、必ずしも神様に従って歩んでいるとは限らないのです。
ですから見い出していただいたということをいつも忘れないでください。そうすれば高慢になって、再び神様に背を向けることにはなりません。どんなに険しく感じられる時にも信頼して従ってゆくことができます。あなたを選んだイエスは、あなたが出かけて行って、多くの実を結ぶことを保証した上で、あなたをこの世界に派遣したのです。
2) あなたも神様を探している
子供の頃、迷子になった経験をあなたは覚えていますか?例えば誰かに連れられて初めてのデパートかスーパーマーケットに行きます。最初は広くて人が大勢いるので、緊張してその人の手をしっかり握っています。けれども慣れてくると、関心は美味しそうなお菓子や欲しいおもちゃに気を取られ始めます。それで手は離して付いて行くことにします。そして、ちょっと何かの前に長く居すぎてふと前を見るとそこには誰もいないことに気付いて慌てて辺りを探し始めます。しかし、見当外れの方に行ってしまってますます遠くに離れてしまうことも多いのです。子供は結局、見つけてもらうか、泣き出してカスタマーサーヴィスのお世話になりアナウンスされて再会できるのです。神様を自分で見つけることはできません。それは遠くに離れすぎてしまっているからです。けれども幸いなことに、探しているのはあなたの方だけではないのです。子供を見失った人も必死に子供を探すように、神様はあなたを探し求め、今ここで、あなたに目を注いでおられるのです。もうあなたは人生の迷子になる必要はありません。
B. 従う人と共にいる神様 (5-7)
5 そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。
6 貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても主は必ず、避けどころとなってくださる。
7 どうか、イスラエルの救いがシオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるときヤコブは喜び躍りイスラエルは喜び祝うであろう。
1) イエスはあなたと共にいたい
預言者エゼキエルはイエスが地上に来られる600年ほど前にこう預言しています。
まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。 (エゼ 34:11,12)
この預言が、イエスの十字架と復活そして昇天によって実現しました。迷子の羊を探し求める羊飼いのように、人となって地上に来られ、あなたを探し求め、見い出したイエスは、それからあなたを大切に世話をしてくださっているのです。イエスは十字架で神様に背を向けて生きてきた人の償うべき罪をイエスが引き受けてくださいました。死からのよみがえりで、共に歩む者にも肉体の死に対する勝利を与えられました。天に帰られ、永遠の神として、私たちが帰るところを用意して待っていてくださいます。今私たちは、この神様の霊、聖霊の導きによって歩んでいます。目ではイエスを見ることができなくても霊の目で見ながら、耳で聞こえなくても霊の耳で聞きながら歩んでいます。私たちはイエスと共に、イエスに従って歩んでいるのです。イエスは従う者の群れにいるのです。遠くから、空の上から眺めているのではありません。ともに喜びともに泣き、私たちを慰め、励まし、戒めてくださる聖霊という霊的な存在として私たちと共にいることを喜んでおられるのです。私たちが「群れ」であることも心に留めていてください。私はしばしば教会を神の家族と表現してきましたが、神様に世話されなければ生きられないという意味では群れです。群れと表現しようと家族と表現しようと神様が私たちに期待しておられることは同じです。それは聖霊の導きに従って互いに愛し合うこと、世話をしあうこと、迷子の羊をイエスに引き合わせることです。
2) イエスと共に歩んで永遠の喜びを知ろう
迷子になった子供のように、人生になくてはならないものがあることにあなたは気付きました。そして辺りを見回し探し求めているあなたのことを神様は見出し、私と一緒に生きましょうと招いてくださったのです。イエスは言われました。
あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ18:12-14)
イエスと共に歩んでいる。それがあなたの救いです。あなたを見いだしたことを神様は喜んでおられます。この喜びはイエスと共に歩み続ける限り変わることはありません。神様が、神様を信頼して生きる人々にこのような恵みを与えたのは、その人の喜びのためだけではありません。神様は喜んでいるあなたを見て、同じ喜びを知りたいと思い始める人を待ち望んでおられます。あなたは、かつてのあなたのように「神などいない」と言いながら、心から満足することのできない歩みをしている人に、もしかしたら信頼できる神様が存在するのではないかと思い始めるきっかけとなることができます。何があっても変わらない喜びで世界が満たされる時まで、イエスと共に歩み始めましょう。歩み続けましょう。愛しましょう。愛し続けましょう。
メッセージのポイント
この詩によって明らかにされている真理は、私たちが神様を探し求める以前に神様が私たちを探し求めていることです。神様との関係の回復は、一方的な発見ではなく出会いだということです。神様は、祈ったら何かを叶えてくれる便利な道具なのではなく、人生を共に歩んでくださるパートナーなのです。
話し合いのために
1) 神様が探しているのはどのような人々ですか?
2) 神様はどこにいますか?
子供達のために
迷子になった経験を尋ねてみてください。そこには、親を捜す子供と、同時に、子を捜す親がいます。神様はそのように、神様を見失って求めている人を探していることを教えてください。神様のことがわからなくなる時、礼拝、聖書、祈りで見つけ出すことができます。神様の方もそのような人を探して出会ってくれます。しばらく取り上げたことがなかったらマタイの18章をお話ししてあげるのもいいでしょう。詩編は難しいかもしれませんが部分的にでも(例えば2-6節)紹介してください。