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クリスマスは真の王の誕生日
(詩編 149・待降節第三日曜日)
永原アンディ
今日はクリスマスを待ち望む待降節三回目の日曜日です。いつもなら詩編シリーズを離れてクリスマス直前の出来事についてのテキストを取り上げるのですが、今年は詩編シリーズをそのまま続けて149編を読むことにしました。それはこの詩で歌われている喜びへの期待が、イエス誕生を期待する待降節に相応しいものだからです。
1. 新しい王の誕生として期待されていたクリスマス (1-3)
1 ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。忠実な人々の集いで賛美の歌を。
2 イスラエルはその造り主によって喜べ。シオンの子らはその王によって喜び躍れ。
3 踊りつつ御名を賛美せよタンバリンと琴を奏でて主をほめ歌え。
今日から待降節も三週目です。クリスマスは期待されていた王の誕生という意味を持っていました。それはかつてのダビデのような優れた王が再来して欲しいという民の切実な期待でした。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、王はいましたがその権力は限られたものでした。
イスラエルの王の権力は二代目のダビデ、その子サロモンの時代をピークに、その後北側のイスラエル王国、南側のユダ王国に分裂し、弱体化してゆきました。ダビデは二代目と言っても先の王サウルとは血の繋がりのない、預言者サムエルに見出された羊飼いの少年でした。民はその苦難に満ちた歴史の中で、ダビデのような王が現れて他国に支配されない強いイスラエルが実現することを夢見ていたのです。
新約聖書の最初の書、マタイによる福音書は、イエスの誕生がその実現であることを示すために、民族の始祖アブラハムからはじまりダビデを通ってイエスに至る長い系図からはじまります。そして、その系図の直後にマタイは「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。」と言ってクリスマスの話を始めます。その中に次のようなエピソードが記されています。
イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。(マタイによる福音書 2:1-3)
多くの人々、特に貧しい民衆は、ローマ帝国と王の二重の支配に苦しみ、全く新しい救世主が現れて王となることを期待していましたが、当然、王はそのような事態を恐れ、イエスの生まれたベツレヘムで男の子たちを殺させるという暴挙を行いさえしています。
人々は王を求めますが、王としての権力を手に入れた人間は必ず民を支配し苦しめることを聖書は最初から警告しています。ダビデでさえ、イエスの生まれるこの時代には理想の王とされていましたが、彼自身のエピソードを読めば、せいぜい「最もマシな部類の王」であったに過ぎません。
この王政を克服した民主主義はより神意に近い政治形態ですが、それは非常に脆いものであることを最近、私たちは思い知らされています。民主主義が最も成熟した国々でさえ、人々は不満や不安に駆られると、簡単に排外的で人種差別的な国家主義に引き寄せられて強い王を求め、選挙という民主的な方法で即位させてしまいます。アドルフ・ヒトラーが合法的な選挙で政権を取り、そこから独裁者になったことを忘れてはなりません。
この部分で歌われている、歌い出したくなるほど、踊り出したくなるほど嬉しい存在である王とは、人間の王ではなく創造主です。そして待ち望まれる王が人間でないとすれば、わたしたちには、神様ご自身に登場していただくしか救われる方法はありません。人間である誰が世を治めても民は苦しめられるしかありません。しかし旧約聖書は多くの箇所で救い主の誕生を預言しています。
クリスマスに生まれたイエスは30歳の頃になって公に教え始めました。その言葉と行いを通して、従う者たちは今までの指導者とは全く違う資質をイエスに見ました。彼こそ救い主かもしれない。その思いはイエスが十字架につけられ殺され3日目によみがえって確信に変えられました。それが、イエスを神、主と信じ、イエスに従って歩む信仰、キリスト教の始まりです。
2. 真の王と真の民 (4-9)
4 主はご自分の民を喜びとし苦しむ人を救いによって輝かせる。
5 忠実な人々は栄光のうちに大いに喜び床に伏していても喜び歌う。
6 その喉には神のほめ歌があり手には両刃の剣がある。
7 国々に報復を諸国の民に罰をもたらすために。
8 王たちを鎖につなぎ貴族たちに鉄の枷をはめるために。
9 彼らに、定められた裁きをするために。主は、主に忠実なすべての人の誉れ。ハレルヤ。
イエスこそが真の王であるとは、どのような意味なのか、4節が象徴的に指し示しています。
主はご自分の民を喜びとし苦しむ人を救いによって輝かせる。
サムエルが警告したように、権力を握った者は例外なく、民を支配し、搾取し、自分の繁栄を喜びます。人々を苦しい状態にとどめ自身を輝かせようとするのです。私たちは、福音書によってイエスがそれとは正反対の方であることを知っています。
イエスの民とは全ての人のことです。人種でも、国籍でも性別でも、性的指向性でも、性自認でも、その違いによる優劣を認めない方です。むしろ、このような違いを理由に差別され迫害を受ける人々を救い、輝かせる方なのです。
それでは、真の王イエスの民はどのような者たちなのか?4節の王のあり方と対させて「忠実な人々」のあり方が5節で歌われています。
忠実な人々は栄光のうちに大いに喜び床に伏していても喜び歌う。
この詩には3回、この「忠実な人々」と訳された、この詩の特徴となっている言葉が出てきます。この言葉は、多くの現代語訳が「聖徒」と訳しています。神様の恵み(ヘセド)を受ける、またそれを隣人に施す人々という意味の“ハシディム”と呼ばれた人々がいたようです。現代にも、そう呼ばれるユダヤ教の中でも最も厳格な宗派が存在しますが、直接繋がりがあるわけではありません。元々の意味からいえば、私には、新共同訳による「主の慈しみに生きる人」という訳が最も相応しいと感じています。そして自分もそのような者でありたいと思うのです。
主の慈しみなしに人は生きることはできません。その慈しみは私たちに大きな喜びを与え、人生を戦い勝利する力を与えます。勝利と言っても、イエスと真の王イエスに「忠実な人」にとっての勝利は、地上の王や国々の求めるような、他人や他国を力で屈服させてえるような勝利とは違うことをみなさんはもうよくわかっていると思います。
ですから、その後に続く6節以下を文字通りに読むわけにはいきません。ところが、これを文字通りに読んで、他国、他宗教、自分とは属性の異なる人々に対する攻撃が神様の意思であるとする人々が“クリスチャン”を自称して、先にお話しした独裁的な傾向を持つ人を指導者に押し上げることが実際に起こりました。キリスト教の知識に疎い日本のメディアは、それを“福音派”で一括りにしてしまいがちですが、正確にはアメリカの福音派の中で大きな力を持ち始めた“キリスト教国家主義がその正体です。
キリスト教国家主義は、キリスト教という言葉がついてはいても、イエスの福音の本質、つまりキリスト教の本質とは全く異質なものです。ですから私はキリスト教国家主義を支持することとイエスに忠実に従うこととは相容れないと信じています。
それでは、主に忠実な者、主の慈しみに生きる人はどのような戦いを王イエスと共に戦うのでしょうか?私たちは福音書からそのことを知ることができます。「山上の説教」と呼ばれるマタイによる福音書ルカによる福音書が記録している部分を紹介します。今日はマタイによる福音書5章から読んでみましょう。
3 「心の貧しい人々は、幸いである天の国はその人たちのものである。
4 悲しむ人々は、幸いであるその人たちは慰められる。
5 へりくだった人々は、幸いであるその人たちは地を受け継ぐ。
6 義に飢え渇く人々は、幸いであるその人たちは満たされる。
7 憐れみ深い人々は、幸いである その人たちは憐れみを受ける。
8 心の清い人々は、幸いであるその人たちは神を見る。
9 平和を造る人々は、幸いであるその人たちは神の子と呼ばれる。
10 義のために迫害された人々は、幸いである 天の国はその人たちのもので
ある。
11 私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。
12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
最初の「心の貧しい人々」は、普通の日本語の意味とは異なるので気を付けてください。卑しいとか、汚いという意味なのではなく、「自分の心の貧しさを自覚している、神様に頼るしかないことを知っている人々」という意味の言葉です。
高慢な態度を持たない。
不正を憎み正義を追い求める。
憐れみ深く人々に接する。
心の清さを保つ。
平和を作り出す。
これらのことが可能なのはただ主の慈しみに寄り頼む人だけです。しかし主の慈しみに生きるなら、ほんとうにそのような人生を歩むことができます。
聖フランチェスコや、M.L.キング牧師や、マザーテレサのような人々、そしてそのような人々の働きに共感して協力した名前も記録されなかった数多くの人々が歩んだ人生の歩みです。
敵は、実際の国でも宗教でも個人でもなく、一人一人の心を支配しようとする自己中心性です。しかも罪は個々の心にとどまるだけはなく社会全体を影響を及ぼし、貧しい者、小さい者を苦しめます。
このような罪の支配する世界を変えるために、人々を罪の苦しみから解放するためにイエスはこられたのです。クリスマスの喜びは軽い喜びではありません。絶望の淵から救い出される大きな喜びの時なのです。
(祈り)神様、あなたが作られたこの世界に、イエスとしてきてくださったことをありがとうございます。
あなたの慈しみのうちに生かされていることを感謝します。
私たちが王として仕えるべきお方はあなたしかいません。
あなたに従って歩み、平和を作る者として、この地上で過ごす最後の日まで歩み続けることができるように助け、導いてください。
あなたがイエスとして世界に来てくださり、私たちを神の国の民になるよう招いてくださったように、私たちの愛する人々があなたの招きに応えて、あなたと共に歩み始めることができるようにご自身を表してください。
そのために私たちを用いてください。
イエスキリストの名によって祈ります。
要約
この詩編に歌われている、歌い踊らずにいられないほどの喜びは、イエスを心に迎え入れた人の喜びと同じ喜びです。神は、この喜びを地上のすべての人に与えるために、イエスとしてこられました。地上の権力者とは全く異なる真の王としての登場です。私たちは彼の民として生きるチャンスをイエスによって与えられています。イエスの民となって新しい人生を歩み出しましょう。
話し合いのために
1. イエスが地上の王たちと異なるのはどのような点ですか?
2. イエスの民である私たちはどのように生きることを期待されていますか?
子どもたち(保護者)のために
この詩ではなく、マタイによる福音書の2章1-12節を読んで、“王”について話し合ってみましょう。イエスが王として期待されていたこと、イエスも王である自覚があったけれども、それは地上の王たちとは全く異なった在り方の王であったことを教えてください。