ご自分を人の手に委ねられた神様

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ご自分を人の手に委ねられた神様

(ルカによる福音書 2:1-7, コリントの信徒への手紙 II 4:6-11・待降節第四日曜日 クリスマス礼拝)

池田真理

 4週間に渡ってイエス様の誕生を待って祝う待降節も、今週が最終週です。今日は、イエス様の誕生を通して、神様は人となられたということに注目したいと思います。イエス様が誕生された時、神様は人の助けなしには生きられない弱い赤ちゃんになりました。全能の神様が無力な人間の赤ちゃんになったということは、とても象徴的です。イエス様はやがて十字架に架けられて亡くなりますが、その時もイエス様は無力でした。人間の悪意は、神様の力さえも打ち負かしてしまったかのように思えます。でも、イエス様の誕生も死も、確かに神様の意志に叶ったことで、神様が願った通りに起きたことでした。神様は、私たちのために、私たちのそばにいるために、あえて無力な存在になられたのでした。それは一体どういうことなのかを、今日は考えていきたいと思います。
 なぜ神様は今すぐに世界中の戦争や紛争を止めて下さらないのでしょうか。神様は、すでに起きている悲劇を放置するしかない非力な神様なのでしょうか。神様が無力になられたら、一体どうやって私たちを救えるというのでしょうか。これは一人ひとりが答えを見つけなければいけないことですが、今日のお話が少しでもヒントになればと思います。
 今日は聖書箇所を二箇所読みます。まず最初に、ルカによる福音書2章にあるイエス様誕生の記事を読みましょう。ルカ2:1-7です。

A. 無力になられた神様、イエス(ルカ2:1-7)

1 その頃、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録であった。3 人々は皆、登録するために、それぞれ自分の町へ旅立った。4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血筋であったので、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身重になっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6 ところが、彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、7 初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。(ルカ2:1-7)

1. 人の悪意に苦しめられた神様

 ここから分かるように、イエス様は社会的に何の力も持たない若い夫婦の元に生まれました。イエス様が生まれた時、夫婦は旅先で泊まるところさえ見つけられず、マリアは馬小屋で出産しました。生まれたばかりのイエス様は、家畜の餌を入れる飼い葉桶に寝かされました。なぜ彼らがそんな状況になったのかというと、時の権力者が税収を上げるために住民登録を命じたからです。その命令のために、マリアは妊娠中でお腹が大きかったにも関わらず、無理をして長旅をしなければいけませんでした。イエス様とその両親は、権力者たちの都合によって日常生活を翻弄される弱い存在でした。
 そして、先にもお話ししたように、このイエス様の無力さは、十字架で死なれた時も同じでした。イエス様は宗教指導者たちの権力欲によって罪人にされました。彼らに先導された群衆もイエス様を罵り、彼らの求めによって、刑罰の中でも最も苦しみを伴う十字架刑がイエス様に課されました。イエス様は抵抗しませんでした。そして、神様も苦しむイエス様のために何もしませんでした。イエス様を助けるための天の軍勢は現れず、イエス様は十字架の上で神様に向かって絶望の叫びを上げました、「父よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と。
 神様がイエス様としてこの世界に生まれ、死なれたのは、このように、人の悪意によって苦しむためでした。なぜなら、それが私たちの世界の悲劇で、多くの人が直面しなければならない現実だからです。権力者の都合に振り回され、叫んでも天の軍勢が助けてくれることはなく、神様に見捨てられたかのような絶望感を、神様ご自身が知っておられるということを、イエス様は示して下さったのです。
 いや、そんな現実を今すぐ変えて、この世界の悲劇を終わらせてくださるのが神様の役目なんじゃないですか、と思われるかもしれません。神様が人間に翻弄されてどうするのか、と思われるかもしれません。それも、もっともな感じ方だと思います。人の悪意に苦しまなければいけない時、私たちが欲しいのは、神様が「私もその苦しみを知っているよ」と言ってくれるよりも、今すぐ苦しみを終わらせてくれる力です。
 でも、神様のやり方は違いました。神様は、誰の心も、悪い人も良い人も区別なく、強制的に変えてしまうようなことは望まない方です。それは、私たちにしてみれば、恐ろしく無差別で不公平にすら思えるほど深い神様の憐れみです。神様は私たちが思っている以上に私たちが善く変わっていくことを期待して、私たちを信頼して下さっているのだと思います。

2. 人の善意を信頼した神様

 そのことがよく分かるのも、イエス様誕生の状況です。そもそも、人間の赤ちゃんとして生まれるということは、自分の力では泣くことしかできない、人の手に守られて食事も排泄もお世話をされなければ生存できない、とても弱い存在になることを意味します。神様がそのような存在になるということ自体、神様が人を信頼していなければできないことです。そして実際、神様はマリアとヨセフを信頼してご自分を託しました。社会的に何の力も持たない若い夫婦に、無防備な自分を守って育てる役割を与えました。神様がご自分を委ねる人に求めたのは、権力や財産や社会的地位ではなく、そういうものとは無関係に生きる正直な心でした。
 また、イエス様の十字架の死についても、イエス様が抵抗しなかったのは殺されることが自分の生まれてきた目的だと分かっていたからです。イエス様は十字架で死なれてそのままだったのではなく、三日後に復活されました。それは、神様は人間の悪意に打ち負かされたのではなく、人間の悪意をご自分の死とともに滅ぼしたということを意味します。神様は、ご自分の死と復活によって、私たちが互いの悪意に支配されない新しい人生を始められるようにしてくださいました。憎しみや敵意ではなく、赦しと憐れみによって導かれる人生です。
 イエス様はこの新しい生き方を世界中に知らせるために、ご自分を裏切って見捨てた弟子たちを用いられました。彼らが弱いことは百も承知で、それでも彼らを信頼して、世界に送り出しました。二千年にわたるキリスト教会の歩みは、この最初の弟子たちと同じようにイエス様に罪を赦されて新しい人生を始めた、無数の無名の人々の歩みです。人間である限り間違いも多く、教会が組織的に過ちを犯してきたことも歴史上に数多くあります。でも、確かに神様はそのように欠けの多い者たちに、ご自分の働きを委ねてこられました。
 聖書をもう一箇所読みたいと思います。第二コリントの4章です。

B. 土の器である私たち(2コリント4:6-11)

6 「闇から光が照り出でよ」と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです。7 私たちは、この宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。8 私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、9 迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。10 私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。イエスの命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためです。(2コリント4:6-11)

 私たちは信仰のあるなしに関わらず、間違いを犯す存在です。そんな私たちが作る世界は、当然間違いだらけです。戦争や紛争が絶えず、差別や貧困の問題も解決せず、自然環境は人間の活動によって悪化するばかりです。一人ひとりの生活にも絶えず課題がやってきて、毎日を生きるのに精一杯な人がほとんどです。

 それでも、神様はこんな私たちの元に来られて、ご自分の弱さを私たちに委ねられ、ご自分の働きの続きを私たちに委ねられました。人の悪意が生み出す憎しみや絶望はあまりに大きく、すでに起きている悲劇をどう解決すれば良いのか、ひとりの人間には何の力もないように思えます。実際、一人では何もできません。それでも、世界が変わるのは一人ひとりの心からです。

 皆さんはビクトール・フランクルをご存知だと思います。ユダヤ人の精神科医で、アウシュビッツ強制収容所から生還した人です。私は、恥ずかしながら、今年初めてフランクルの一番有名な「夜と霧」を読みました。フランクルは、強制収容所という最も残酷で非人間的な環境の中で、人間とはどういう存在かを考察し続けました。「夜と霧」にこんな一節があります。

人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。(ビクトール・フランクル「夜と霧」より)

死を前にした極限の状態で、人の悪意と不正義の圧倒的な力の前で、それでも希望を失わないことが人にはできると、ここに証言されています。そもそも強制収容所もガス室もあってはならないもので、二度と同じようなことが繰り返されないように私たちは努力しなければいけませんが、そのようなひどい体験をしても憎しみに支配されず、希望を持ち続けた人がいたということは、私たちにも希望を与えてくれます。

 私たちは、神様によって土のちりから造られた脆弱な存在にすぎません。それでも、神様はその土の器を、ご自分の憐れみと赦しを運ぶために用いられます。私たち自身、壊れやすく、常に欠けを持っています。それは、私たちが運ぶ神様の憐れみと赦しが、私たち自身のものではなく、神様が与えてくださったものであるということを、私たちが忘れないために必要な欠けです。一人ひとりが自分の弱さと過ちを認め、神様の助けを求めることによって、その人の周りからこの世界は変わります。

 神様は私たちのために弱くなられ、無力になったご自分を私たち人の手に委ねられました。力を放棄するとは、誰のことも攻撃しないことを意味し、誰の脅威にもならないことを意味します。その代わり、自分が攻撃されたり、脅かされたりする危険は伴います。実際、イエス様は十字架に架けられました。私たちも、社会の中で自分を守る武器を持っていなければ、すぐに誰かに攻撃されたり利用されたりしてしまいます。それでも、この世界を良い方向に変えるためには、自分が無防備になって傷つくリスクを背負ってでも、人を信頼することが必要だと、イエス様は教えてくださいました。

 それが具体的に何を意味するかは、一人ひとりの状況によって違います。誰かの前で自分の弱さを認めて、許しを乞うことかもしれません。または誰かの過ちを許すことかもしれません。人の悪意に傷つけられても、憎しみや悲しみに心を支配されないことかもしれません。苦しんでいる人と一緒に苦しむことかもしれません。一つ一つはとても小さなことで、自分自身も確信を持てないまま葛藤を抱えながらかもしれません。でも、そういう一人ひとりの心の小さな変化が、確かにこの世界を変えてきました。神様は私たちの手に、ご自分の働きを委ねておられます。

(祈り)
主イエス様、あなたは無防備な赤ちゃんとなってこの世界に来られました。あなたは私たちが悪い者であると知りながら、良い働きを担うようにと信頼してくださいました。どうか私たち一人ひとりがあなたの前で自らの弱さと過ちを隠すことなく、ただあなたの助けを求められますように。親しい人との関係においても、遠い国の人々を思うときも、私たちのするべきこと、考えるべきことを教えてください。この世界にあなたの憐れみと赦しが広がるように、私たちの心から変えてください。主イエス様、あなたがこの世界に来られたこと、確かに私たちと共におられることを、ありがとうございます。あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約

イエス様がこの世界に誕生した2千年前のクリスマス、神様は人の助けなしには生きることのできない無力な赤ちゃんになりました。そして、その神様はやがて無実の罪で十字架で殺されました。人の悪意は神様を苦しめ、遂にその命も奪いました。でも実は、神様は人の善意を信頼し、その命を奪われたのではなく自ら差し出してくださったのでした。私たちは人の悪意が生み出す絶望に心を支配されがちですが、人の善意と神様の愛はどんな絶望の中にも確かにあります。それは一見すると小さすぎる希望で心許ないかもしれませんが、それは確かにこの世界を変えて来ました。神様の愛は私たちに委ねられているのです。

話し合いのために

1. 「正しい人は一人もいない」のに、人に善意があるのでしょうか?

2. 私たちは土の器として何をどうやって運ぶのでしょうか?

子どもたち(保護者)のために

人間の赤ちゃんをお世話する時のことを一緒に考えてみてください。神様が赤ちゃんになったということは、不思議なことですが、神様が私たちの助けを必要としていて、私たちが神様を守らなければいけないということを意味します。本当はそんなことは私たちにはできないはずで、私たちこそ神様に守ってもらわなければいけないのですが、神様はそれくらいに私たちを信頼してくださっているということも覚えてほしいと思います。