死者の復活?

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死者の復活?

(ヨハネによる福音書11:1-44)

池田真理

 今日は、ヨハネによる福音書のシリーズの続きで、11章を読んでいきます。この章は、ラザロという人をイエス様が死からよみがえらせる話で、1節から44節まで続く長い箇所なので、今日は一部を省略して読んでいきたいと思います。
 死者の復活というのは科学的には不可能なことで、それが実際に起こったということを科学的に証明することもできません。でも、キリスト教信仰の中心はまさしくイエス様の死と復活にあり、死者の復活ということを抜きにしてイエス様を信じる信仰は語れません。そこで今日は、本文に入る前に、聖書が伝える死者の復活について整理したいと思います。整理しておいた方がラザロの話も理解しやすくなると思いました。

A. 聖書が伝える死者の復活について

 聖書が伝える死者の復活は三種類あります。

  1. イエス様が行った奇跡
  2. イエス様ご自身の復活
  3. 終わりの日の全ての人の復活

 第一に、聖書には、生前のイエス様が人々を死から復活させた奇跡が記録されています。直接的に記録されている箇所は3つあり、その3つの中でも最も詳細に記録されているのが今日読んでいくラザロの箇所です。他に、マルコ福音書(5:22-43)の会堂長ヤイロの娘の話と、ルカ福音書(7:11-17)のナインのやもめの息子の話があります。また、直接的な記録ではありませんが、洗礼者ヨハネに対してイエス様がご自分の働きについて「死人が生き返らされている」と伝えている箇所があります。(マタイ11:3,5、ルカ7:19,22)ただ、これらの人々は皆やがて死を迎えたので、彼らに起きた復活の奇跡は一時的なものだったと言えます。では、それにどんな意味があったのかは、この後考えていきましょう。

 聖書が伝える死者の復活の二つ目は、最も重要な、イエス様ご自身の復活です。十字架の死から復活されたイエス様が弟子たちのところに現れたところから、キリスト教会の全てが始まりました。私は、信仰を持つ前、イエス様が本当に死からよみがえられたということを信じていいのか、分かりませんでした。皆さんもそれぞれに葛藤があったと思いますし、今でも葛藤している方もいるかもしれません。私がイエス様の復活を信じて良いと思えたのは、三つの根拠からでした。一つ目は聖書の記録です。使徒言行録以降の新約聖書には、復活したイエス様と出会った弟子たちの変わりようが記録されています。イエス様の死と復活を証言する彼らの言葉はとても力強く、それが全て嘘だったとは思えませんでした。二つ目の根拠は歴史です。二千年に渡ってキリスト教会がこのことを証言し続けてきた事実は動きません。聖職者の堕落や過ちがあったとしても、イエス様の死と復活を証言するために生涯をかけてきた人々が二千年間絶えなかったというのはすごいことだと思いました。三つ目の根拠は、実際にこの教会で出会った人たちの存在です。非科学的なことを信じているとしても、この教会で出会った人たちは理性的で、人柄や生き方には憧れるものがありました。この3つの根拠によって、私はイエス様は私のためにも死なれ、蘇られたのだと信じました。でも、これは私の個人的な経験にすぎません。信仰は、一人ひとりとイエス様の関係であって、聖霊様の働きです。神様は一人ひとりに分かる方法で、一番良いタイミングに教えてくださいます。

 聖書が伝える死者の復活の三つ目は、やがて来る世界の終わりには全ての人が裁きを受けるために復活するという教えです。この教えは同時に、イエス様がその時には目に見える姿でこの世界に戻ってこられるということも教えています。キリスト教の終末思想というものです。これについては本当にそのことが起こるまでは誰にも確かめることはできません。でも、この三つ目の教えは一つ目の教えにつながっています。生前のイエス様が人々を死から復活させた奇跡の数々は、将来、世界の終わりが来た時に実現する復活の先取りだったと理解することができます。そこで重要になってくるのが、ラザロの復活の話です。

 それでは読んでいきましょう。まず、1-6節と17節です。

B. 死の力とイエス様
1. 死者を復活させる神様の栄光とは (1-6,17)

1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。 …17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

 イエス様はここで、ラザロの復活は「神の栄光のためであり、神の子がそれによって栄光を受ける」と言われています。聖書の研究者たちによると、このヨハネ福音書の中で「神の栄光」と言われる時、それはいつもイエス様の死を指しているそうです。なぜイエス様の復活ではなく死がイエス様の栄光なのかというと、イエス様の死は私たちのためにご自分の命を犠牲にする神様の愛の証だからです。また、私たちの罪を赦して、共に生きる道を与えてくださった神様の決意と憐れみの証とも言えます。ですから、イエス様がラザロの復活を通して私たちに示したかったのは、「死者を復活させる力がある神様は素晴らしいでしょう」ということではなく、「罪人を愛して救う神様の愛を知りなさい」ということです。私たちと共に生きたいという神様の望みは、ご自分の命と引き換えに私たちの罪を赦し、死者を蘇らせるほどで、それが世界の終わりに実際に起こることです。
 さて、イエス様はラザロが危篤だという知らせを受けてから、すぐには出発しませんでした。日数を逆算すると、この知らせをイエス様が受けた時にはすでにラザロは死んでいたと思われます。でも、イエス様はラザロの肉体の死が誰の目にも確実になるのを待っていたようです。死者の復活という奇跡を通して、神様の愛を人々に明らかにするためです。それは、ラザロの苦しみや姉妹の悲しみを思えば、少し薄情な行動に感じます。でも、続きを読むと、イエス様ご自身にも感情的な葛藤があったことが分かります。32-35節を読みます。

2. 友人の死に対するイエス様の憤りと悲しみ (32-35)

32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、憤りを覚え、心を騒がせて、34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35 イエスは涙を流された。

 私たちは、どんなに天国を信じていても、終末の日の復活を信じていても、親しい人がこの世を去る時には、動揺し、寂しく悲しく感じるものです。それは人間として当然の感情です。この箇所を読めば、イエス様ですらそうだったことが分かります。ラザロという親しい友人が亡くなり、その姉妹たちが泣き悲しんでいるのを見て、イエス様も動揺し、涙を流したとあります。これが、人間であるということだと思います。私たちには感情があり、信じていることや理解していることに感情がついていかないことがあります。それで良いのだと思います。
 
 ただ、ここには、人としてのイエス様の感情だけでなく、神様としてのイエス様の感情も表れています。それは、英語では「深く心を動かされた」と訳されていますが、日本語では「憤り」と訳されている感情です。どちらにしても、イエス様の感情が激しく揺り動かされたことを意味しています。イエス様は何に対して激しい感情を持たれたのでしょうか?それは、死の力に対してです。死は人を絶望させるという意味で悪魔の力でもあります。そのような力が自分の愛する者たちを支配していることに対して、イエス様は憤られました。イエス様は、私たちが死の力に支配されて絶望することを望まなかったのです。だから、イエス様は十字架に架かられ、復活され、死の力が私たちを支配することがないようにしてくださいました。
 それでは先に進みます。最後の場面、38-44節です。

C. 将来の復活と今ここにある復活
1. ラザロの復活は将来の私たちに起こること (38-44)

38 イエスは、再び憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、もう臭います。四日もたっていますから」と言った。40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」と言われた。41 人々が石を取りのけると、イエスは目を上げて言われた。「父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。42 私の願いをいつも聞いてくださることを、私は知っています。しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らが信じるようになるためです。」43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 このように、イエス様はラザロを生き返らせました。でも、それは、ラザロがイエス様にとって特別な友人だったからではありません。ここでは生き返ったラザロも、この後永遠に生きたわけではなく、やがて肉体の死を迎えました。それではなぜ、イエス様はここでラザロを復活させたのでしょうか?それは、ラザロにイエス様がしたことは、将来、世界の終わりにイエス様が私たちすべてにすることだからです。その時、イエス様は再び目に見える姿でこの世界に来られ、私たち一人ひとりの名前を呼んで、私たちを復活させます。その復活は霊魂の復活ではなく、肉体の復活です。その体は今の体とは違う体ですが、復活後のイエス様の手に釘の痕があったように、復活後の私たちの体も一人ひとりの生前の記憶や闘いの痕が引き継がれているのだと思います。誰だか分からないような状態ではありません。神様は、私たちの肉体が生きている間も死んだ後も、私たち一人ひとりのことを覚えておられ、永遠を共に生きることを願っておられるのです。

 それでは最後に、少し読む場所を遡って、23-26節を読みます。

2. イエス様を信じることで得る永遠の命 (23-26)

23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と言った。25 イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。26 生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 イエス様がここでマルタに言われている命は、終わりの日の復活ではありません。そうではなく、今ここで、イエス様を信じることによって私たちに与えられる永遠の命です。最近いつもお話ししているような気がしますが、イエス様を信じるということは、イエス様の愛を信じるということです。ですから、イエス様が言われている「私を信じる者は死んでも生きる」という言葉は、「イエス様の愛を信じる者は、肉体が滅んでもイエス様と引き離されることはなく、共に生きている」という意味です。「生きていて私を信じる者は決して死ぬことはない」という言葉もほぼ同じ意味です。イエス様の愛を信じて生きる者は、肉体が生きているかどうかに関係なく、永遠にイエス様と共にいるという意味です。
 今日は死者の復活ということについてお話ししてきましたが、結局、最も重要なのは、死者が復活することよりも、今ここでイエス様の愛を受け取って共に生きる喜びを知ることの方です。今ここでイエス様と共に生きる喜びの延長上に、終わりの日の復活の希望があります。私たちの罪を赦して、私たちと共に生きる道を自らの命と引き換えに開いてくださったイエス様の愛は、すべての人に注がれています。私たちがその愛を拒絶する以外に、私たちをそこから引き離せるものは何もありません。最後にパウロの言葉を読んで終わりにします。

私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38-39)

(祈り)主イエス様、あなたが十字架で死なれ、三日後に復活されたことを私たちは信じています。あなたは今も生きておられ、私たち一人ひとりと共におられます。そして、あなたはやがてまたこの世界に来られます。主よ、どうぞ私たちが、あなたの愛だけは永遠に消えることはないということを、いつも覚えていられますように。そして、私たちがあなたを愛して、あなたの愛するこの世界とこの世界の人々に仕えることができますように。親しい人を失った悲しみの中で、あなたの中に希望を見出せますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。


要約

聖書は死者の復活という非科学的なことを教えており、実際、キリスト教信仰の中心はイエスの死と復活にあります。また、世界の終わりの日には全ての人が裁きを受けるために復活すると教えられています。これらのことを科学的に証明することはできませんが、これらのことを通して神様が私たちに伝えようとしたことは、「超自然的な力を信じなさい」ということではなく、罪の赦しと永遠の愛です。罪の罰としての死はもはやなく、肉体の死さえも私たちと神様を引き離すことはなく、世界の終わりにおいて私たちは永遠に神様と共に生きるようになるのだということです。そのように神様の愛を受け取って神様を愛して生きる命は、今ここに既に与えられており、それがイエス様がくださる永遠の命です。

話し合いのために

1. イエス様が死から復活されたということを、あなたはどのように信じましたか?
2. 死者を復活させる神様の栄光とは何ですか?

子どもたち(保護者)のために

人の死について、子どもたちの年齢に応じて、どう考えているか話してみてください。イエス様は私たちを死からよみがえらせると約束してくださっていますが、保護者の皆さんがそれをどのように信じているか、話してみてください。イエス様の復活をご自分がどのように信じたかを話してもいいかもしれません。