永原アンディ
(詩編 15)
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だめだ無理すぎる!でも…
1 【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り聖なる山に住むことができるのでしょうか。
2 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり
3 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
4 主の目にかなわないものは退け主を畏れる人を尊び悪事をしないとの誓いを守る人。
5 金を貸しても利息を取らず賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人はとこしえに揺らぐことがないでしょう。
A. 絶望的に高すぎる基準
1) この基準によれば主と共に聖なる山に住める人は一人もいない
正しくありたい、清くありたい、という願いをわたしたちは誰でも持っています。言ってみれば「良心」です。しかし私たちの心は良心で満たされているわけではありません。詩編の多くの詩と同様に、この詩もダビデの詩とされています。実際には後代の作であったとしても、ダビデの実体験を反映しています。ダビデは神様にできるだけ忠実に従って生きたいと願っていました。ユダヤの歴史上最も尊敬された王です。しかしダビデは「不倫」という罪を犯します。しかも王という地位を利用して、相手の夫を戦死させてしました。(サムエル記下11) 新約聖書はローマの信徒への手紙7章でこのように表現しています。
「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:18-24)
私たちは日常生活の中でほとんど、法を破ることはしません。それは良心で満ちているからではなく、罰を恐れるからです。ある大都市で夜間に停電が起きた時に、朝になるとデパートは空っぽになっていたということが起こります。しかしダビデは人からの罰を恐れる必要はありませんでした。国で一番偉い王なのですから、何でもできてしまいます。しかし、神様の目から逃れることはできませんでした。神様はナタンという預言者を通して、ダビデにその罪を自覚させます。ダビデがこの詩で挙げているような行為はどれも、神様の目にかなうものではないということをダビデは知ったのです。ダビデは自分が神様の基準をパスすることができないことを知っていました。同時に神様の助けなしに生きることはできないことも知っていました。ですからこの詩は、「人はこうあるべきだという道徳的教訓の詩」ではありません。
パウロが言っているように、私たちの心には、神と共にいたい思い(良心)と神に背を向けて勝手にやりたい思い(罪)が同居しています。それはダビデもパウロも私たちも共有しているジレンマです。良心は神の子供だったという創造以来の記憶です。しかしもうそこには戻る資格が自分にはない。戻りたくても戻れない現実が率直に歌われています。る資格が自分にはない。戻りたくても戻れない現実が率直に歌われています。
2) ただ一人の例外:イエス・キリスト
ところが、不思議なことにそのような内容であるのに、この詩には「もうだめだ」という絶望感がありません。神と共に歩みたいという思いを持っているのに自分にはその資格がないと嘆いてはいません。ダビデは知っていたのです。神様は私たちには高すぎる基準を持ちながら、先週お話ししたように、求めるものを探し求める神様であるということをです。神様は、どんなに欠けだらけでも、慕い求める人を決して見捨てないのです。しかし、ダビデはそれが現実となる出来事を見るには生まれるのが1000年早すぎました。パウロは、ダビデの期待が間違いではなかったことをイエスとの出会いで確信しました。今から2000年前に地上に現れたイエスは、歴史上最初で最後の「完全な道を歩き、正しいことを行い、心には真実の言葉がある人」です。福音書に記されているイエスの歩みと言葉は完全です。その十字架の死と復活が真実であったからこそ、2000年の時が流れてもイエスに従って歩んでいきたいと願い、そのように生きる人が多くいるのです。探し求める人々の中にイエスは確かに生きて働いています。ここに私たちの唯一の希望があります。高すぎる正しさの基準と求める者を見捨てることのできない愛を同時に満たす方法、それがイエスとして地上を歩み、十字架で死に、三日目によみがえられることだったのです。
B. 私たちが神と共に生きられる唯一の方法
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)
皆さんは、このイエスの言葉をどう受け取りますか?だからキリスト教でなければならないんだ。キリスト教徒にならなければ全く希望がないんだ。ちょっと待ってください。いつの間にかイエスがキリスト教にすり替わっていませんか? 必要なのはイエスにつながることであって、キリスト教徒になることではありません。イエスはユダヤ教が間違っているから、キリスト教を始めようとは考えませんでした。キリストに出会ったパウロもユダヤ教を捨てる必要を感じてはいませんでした。ですから、全世界に出て行って私の弟子にしなさいというイエスの命令は、世界中をキリスト教徒にさせなさいという命令ではありません。教会はペンテコステの時に誕生して以来、イエスの思いから少しづつ離れ始めリフォームが必要な時期がありました。教会史を見て行くとおよそ500年ごとに大きなリフォームが起こっています。最初の500年でほぼ、三位一体などの基本的教理が確立しますが11世紀には東西に分裂し、16世紀には宗教改革が必要となりました。今は21世紀です。宗教改革で新しくされた教会は500年経って構造疲労を起こしています。問題はどこにあるのでしょう?宗教改革のポイントは聖書に戻るということでした。それまでの教会は、聖書の教えより、教会の伝統や教会自体の権威が重要視されるようになり様々な面で堕落していたからです。それは必要な改革でした。しかし今、聖書にフォーカスしすぎて、聖書の教えの中心であるはずのイエスが忘れられがちになるという問題が起こっているのです。今必要な改革のポイントは「イエスに戻る」です。自分がキリスト教徒だと信じていても、その人がイエスに従って歩んでいるとは限りません。キリスト教国がイエスの心にかなう歩みをしているとは限らないのです。世界中を植民地にしたのはキリスト教国です。マハトマ・ガンディーは「イエスは好きだが、キリスト教徒は好きになれない。」と言いました。イエスの素晴らしさを知ったのに、イエスの教えに生きていないキリスト教徒ばかりを見てきたのです。ガンディーはイエスの教えと信じて、インドを非暴力によって独立に導きましたが、このガンディーから学んだキング牧師が公民権運動を導きました。キングはキリスト教の牧師なのに、キリスト教を嫌ったガンディーにイエスに従うことを学びました。「素晴らしい」皮肉だと思いませんか?今まで学んできた通り、完全にイエスに従うことのできる人は一人もいないことは事実です。ガンディーも、キングもダビデ同様、人間です。どんなにイエスに近づいてもイエスになれる人は一人もいません。何度も、失敗します。しかし、どんなにひどい失敗をしたとしても、それを悔いて改めようとする者から祝福を取り去るようなことはなさらない神様です。私たちはダビデの生涯を見てそのことを確信します。
イエスを知り、イエスに従うことこそが私たちに求められていることです。キリスト教を知り、キリスト教徒になることではありません。教義を信じてそれを守ることではありません。イエスと共に愛するためにどこにでも行くことです。文化の壁、宗教の壁、偏見の壁を軽々と超えていくイエスに懸命に従って行くことです。イエスに心を開かなければ、イエスを知ることはできません。イエスを知らなければイエスについて行くことはできません。もしあなたがイエスについていこうと思っているならあなたはイエスの弟子です。 到底、神様であるイエスについて行くことのできない罪深い、不完全な私たちが、ついて行くことを許されるために、イエスご自身が十字架の罰を身代わりとなって引き受けられました。あなたはこのイエスとどれほど親しい関係にあるのでしょうか?今よりもっとイエスと親しくなりましょう。もし初めてイエスに従って歩みたいと決心したなら、あなたは今日からイエスの弟子です。私たちは弟子となる決心を、人々にも見える洗礼を受けることによって表してきました。次はあなたの番です。洗礼(バプテスマ)とは何でしょう。もう一度ローマの信徒への手紙を読みます。今度は6章です。。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。(ローマ 6:4-6))
宗教改革で誕生したプロテスタント・キリスト教会の儀式はとても簡素です。儀式自体が大切になり、イエスにつながるという点が曖昧になってしまった反省からです。そこでプロテスタント教会はイエスにつながる上で重要な儀式を二つだけ残しました。聖餐式とこの洗礼です。洗礼は日本語では「洗う」という意味を持つ漢字を採用したので、何か表面的な汚れを洗い流すという印象を持たれがちですが、元の言葉は沈める、浸すという意味を持つ言葉です。人は水の中では生きられません、読んだ通り、沈められて死に、イエスの復活と共に新しい命に生きることを意味しています。洗礼自体が魔術的な力で人を変えるのではないのです。イエスについて行く決心をして歩みはじめた人はすでに新しく生まれ変っています。洗礼はそれを心の中にだけ留めておくのでなく、人々に言い表して、神の家族の一員となることを意味しています。。
メッセージのポイント
ダビデは自分がこの基準に達していない人間であることを知っています。そうであっても、神様が自分を見捨てないことを信じています。ダビデはイエスを知らずに生きた人です。彼は無意識のうちにイエスについての預言をしているのです。私たちに不可能なことを、私たちのところに来てやって見せ、それをできない私たちのために罰を引き受け、主となってくださった神、イエスについていくことを私たちは期待されています。。
話し合いのために
1) ダビデはどのような気持ちでこの詩を書いたのでしょうか?
2) イエス・キリストに従うべきなのはなぜですか?
子供達のために
心の中に二つの異なる動機があることを教えてください。愛と利己心あるいは良心と欲望です。私たちの心の中には優しくしてあげたい、仲良くしたい、喜ばせたいという気持ちと、いうことを聞かせたい、自分に楽しみ、喜びのために相手を我慢させたいという気持ちが同居しています。愛、良心100%で生きられる人は一人もいません。だからイエスについていくことが大切だと伝えましょう。失敗することがあってもいいのです。イエスについて歩いている限り、不完全でも、神様に喜ばれ、元気で、皆と仲良く、楽しく、気持ちよく生きてゆくことができます。悲しいこと、苦しいことも乗り越えることができます。