汚れている人など存在しない

Christ Healing the Leper, from Das Plenarium MET
見る
日曜礼拝・英語通訳付

❖ 聞く (メッセージ)

❖ 読む



汚れている人など存在しない


シリーズ「障害者と相互依存の神学」第7回 (マルコによる福音書 マルコ1:40-45)

池田真理

 今日は、月1回のシリーズ、キャシー・ブラックさんの本を元にして障害を持つ人の視点から聖書を読み直す試みの第7回です。今日はマルコによる福音書1章40-45節を読んでいきます。短い箇所なので、早速全体を読んで始めたいと思います。

40 さて、規定の病を患っている人が、イエスのところに来て、ひざまずいて願い、「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、42 たちまち規定の病は去り、その人は清くなった。43 イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせ、44 こう言われた。「誰にも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた物を清めのために献げて、人々に証明しなさい。」45 しかし、彼は出て行って、大いにこの出来事を触れ回り、言い広め始めた。それで、イエスはもはや表立って町に入ることができず、外の寂しい所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。


 この箇所は、読んだ通り、障害を持つ人の話ではなく、病気の人の話です。聖書の時代、慢性の病気を持つ人は、障害を持つ人と同じように、その身に神様からの呪いや罰を受けているのだと考えられていました。そして、神様に選ばれた「聖なる」共同体にふさわしくない「汚れ」として、共同体から排除されていました。でも、この箇所から分かるのは、イエス様にとって「汚れている人」など存在しないということです。どういうことなのか、状況を詳しく見て考えていきましょう。

A. 「汚れ」の清め
1. 私たちがこの病者から学ぶべきこと

 まず最初に、この人が患っていた病がどのようなものだったのか、確認しておきましょう。日本語の新しい翻訳では「規定の病」とされていますが、前の翻訳では「重い皮膚病」、さらに前の翻訳では「らい病」と訳されていて、英語のNIVでは “leprosy” (らい病)と訳されています。このように翻訳が分かれる理由は二つあり、一つは、この人が患っていた病がなんだったのかはっきりしないからです。皮膚に異常が現れる病であったことは確かですが、それが現代医学で言うハンセン病に当たるのかは定かではありません。

この図は私が勝手に作ったものですが、聖書で使われている用語を整理すると大体こんなイメージになると思います。旧約聖書で使われているヘブライ語の「ツァラアト」という言葉は人にも物にも使われる広い意味を持ち、新約聖書で使われているギリシャ語の「レプラ」はもう少し狭い意味での皮膚病全般を指し、その中の一つが現代医学で言うハンセン病に当たると考えられます。
 旧約聖書では、衣服などの物質の表面や人の皮膚に現れる様々な異常を「ツァラアト」として規定しています。ツァラアトは接触することで人に伝染する汚れとして考えられ、それを持つ人は共同体から追放されなければいけないとされていました。また、その人々はボロボロの服を着て、髪の毛を結えてはならず、人前では「私は汚れた者です」と叫び続けなければいけないとされていました。皮膚の異常がなくなり、祭司による清めの儀式を完了したら、初めて共同体に戻ることを許されました。日本語の新しい翻訳で「規定の病」と訳されているのは、このように「旧約聖書で規定されている病」という意味ですが、分かりにくいと思います。
 翻訳が変遷してきたもう一つの理由は、ハンセン病患者に対する差別の歴史と関係しています。日本語の「らい病」も英語の leprosy も今では差別用語で、ハンセン病という病名が一般的です。日本語の聖書では、ずっと「らい病」という言葉が使われていましたが、元患者たちからの批判が高まり、それに応える形で1996年に初めて「重い皮膚病」という訳が採用されました。それはちょうど、ハンセン病患者に対する非人道的な隔離政策の根拠とされてきた法律(らい予防法)がようやく廃止された年でした。英語の聖書で今でもleprosyやleperという翻訳が使われているのは、それらがギリシャ語の「レプラ」から直接派生した言葉だからと思いますが、それらは差別用語である上に、お伝えした通り、ハンセン病はレプラの一部でしかないので、良い翻訳とは思えません。
 今日の箇所に戻ると、この人の病気はハンセン病だったかもしれないし、違う病気だった可能性もあります。どちらにしても、病気を「汚れ」として恐れられ、旧約聖書の規定に従って、共同体の外で孤独と貧困のうちに生活することを強制されていました。
 この人は私たちに大切なことをたくさん教えてくれています。
 まず、この人はイエス様に近づくために、自分を不当に扱うルールを破る勇気を持っていました。先ほどお話ししたように、旧約聖書の規定では汚れた人は汚れていない人に近づくことをそもそも許されておらず、近づく際には「私は汚れた者です」と叫び続けて、汚れていない人が逃げられるようにしなければいけませんでした。でも、この人はその禁を破って、イエス様のそばまで行っています。
 人間が作った社会のルールは、神様の思いとはかけ離れていることがよくあります。ハンセン病の元患者さんたちが差別的な法律を廃止させようと行動を起こしたことは、自分たちが人として生きる当然の権利を取り戻すためでした。ある元患者さんがこう話していたのを聞いたことがあります。「誰も私たちの人権を守ってくれないなら、自分たちで行動を起こすしかないでしょう」と。そのように行動を起こした人々の大変な闘いのおかげで、この世界は少しずつより良いものに変えられてきました。
 私たちがこの箇所から学ぶべきことは他にもあります。この人がイエス様に願っている内容に注目してください。この人は「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言っています。「私の病気を癒してください」ではありません。これは、この人の望みが、厳密に言うと、病気が癒やされること自体よりも、自分が汚れていないということが証明されて、一般社会に戻れることだったからです。病気や障害を持つ人は、病気や障害そのものを持つ大変さと同時に、それらによって社会的に孤立することによっても苦しまなければいけないことが多くあります。この人も同じで、この人はイエス様に「あなたは清い」と宣言してもらうことを望んでいました。
 でも、この人の言葉はとても控えめです。「お望みならば、私を清くすることがおできになります」という言葉は、この人がイエス様には自分を清める力があると信じている一方で、その力を使うかどうかの判断をイエス様に委ねていることを示しています。法を破ってイエス様に近づく勇気を持っていた彼が、なぜこのように控えめな願い方をしたのでしょうか?それはおそらく、イエス様は祭司ではなく、清めの宣言をする権限を持たないことをこの人は十分知っていたからです。イエス様に清めの宣言をしてくれるよう求めることは、祭司以外に認められていないことをイエス様にさせることで、イエス様にも法を破らせることになります。この人は、そのような危険を犯すかどうか、イエス様ご自身が決められるように配慮したのだと思われます。
 私たちは、イエス様に何を願っても良いのですが、この人のイエス様に対する態度に学ぶべきものがあると思います。イエス様を信頼しながら、イエス様が私たちの願いに応えてくださることだけを求めるのではなく、イエス様に判断を委ねることです。「私の願いではなく、あなたの願いが叶いますように」という祈りです。それは、どんなに私たちの願いが正当なものだとしても、私たちには見えていない神様の計画があり、たとえ私たちの願いが叶わなくても、その計画はいつも良いものなのだという確信に基づくものです。

2. イエス様は病者の体だけでなく心も癒された

 さて、でも実際には、イエス様はこの人の期待をはるかに超える形でこの人の願いに応えられました。イエス様はこの人の体も心も癒され、社会的にも回復させられました。41-42節をもう一度読みます。

41 イエスが深く憐れんで(憤られた?)、手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、42 たちまち規定の病は去り、その人は清くなった。

 41節の冒頭部分も翻訳が分かれる言葉です。日本語では「イエスは深く憐れんで」とありますが、英語では「イエスは憤られた」と訳されています。これは、最古の聖書の中で「深く憐れむ」という意味の動詞を使っているものと「憤る」という意味の動詞を使っているものが両方あるからです。この場面でイエス様が憤ったというのは少し不自然なので、おそらくそれが元々使われていた言葉なのではないかと言われています。そうだとすると、イエス様は何に対して憤られたのでしょうか?それは、この病者が社会から排除されて、孤独と貧困の中で生きることを強制されていた状況に対してだと思います。この人は病気に苦しんでいるだけで、神様の大切な子どものひとりであることには変わりないのに、汚れた者として差別されていることに、イエス様は憤られたのだと思います。

 そして、次にイエス様がしたことは、病の人自身もその場にいた誰も予想していなかったことでした。イエス様は「手を差し伸べてその人に触れた」とあります。そんなことをしたら汚れが移ると考えられていました。イエス様ご自身も汚れた者とみなされて、社会から排除されることになるはずでした。でもイエス様は、この人がまだ病人であるうちからこの人に直接触れて、「あなたは汚れてなどいない、あなたは大切な人だ」と伝えたのです。

 さらに、イエス様の言葉はとても明確でした。「私は望む。清くなれ」と言われました。それは、言い換えるなら、こんなふうな言葉だと思います。「あなたの苦しみは神様の望みではない。あなたが味わってきた孤独と貧困は神様の意志ではない。」

 そして、その言葉の通り、この人の病気は癒やされました。それは、単に健康な体の回復ではなく、神様に愛されている者としての自覚の回復であり、社会の一員としての身分の回復でした。

 さらにイエス様は、この人に「祭司に体を見せ、モーセが定めた物を清めのために献げて、人々に証明しなさい」と告げます。これは、この人が本当に社会復帰できるためのイエス様の配慮です。イエス様ご自身には人が汚れるという概念自体がなく、清めの儀式というのも不要なものですが、この人が社会で認められるためには社会の規定に従う必要があることをイエス様は知っていました。

 このようにしてイエス様は、この人を汚れから解放し、本来のあるべき姿を取り戻させました。汚れている人など存在しないのだということを、超自然的な力で証明されたのでした。

B. 超自然的な癒しよりも重要なもの


 でも、イエス様はこのことを誰にも言ってはいけないと、この人に厳しく注意したとあります。43節と44節の冒頭をもう一度読みます。

43 イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせ、44 こう言われた。「誰にも、何も話さないように気をつけなさい。

43節の「厳しく戒める」という動詞はとても強い意味の言葉で、「怒りで鼻を鳴らす」とも訳されます。なぜイエス様はそんなに厳しくこの人を戒めたのでしょうか?長年苦しんできた病気を癒やされた人が喜ぶのは当然で、人に言いふらしたくなるのも当然ですが、なぜイエス様はそれを秘密にするよう求めたのでしょうか?それは、この人がイエス様の戒めを破って言いふらした結果、イエス様の行動が制限されてしまったという結末に関係しています。
 人々は、イエス様の超自然的な力に熱狂しました。そして、イエス様の噂が広まるにつれて、病気の癒しを求める人々だけでなく、イエス様に軍事的・政治的リーダーとなることを期待する人々も現れました。それは結局、イエス様がどんな方であるのかということを考えずに、イエス様の力を自分に都合のいい目的のために利用しようとしていただけです。それは、イエス様の目的とはかけ離れていました。
 ハンセン病は、1947年には治療薬が開発されて、治る病気になりました。医学的にも、ハンセン病は極めて感染力が低く、遺伝性もないということが明らかになりました。でも、今日最初の方でも少し触れましたが、日本ではハンセン病患者さんたちの隔離政策が1996年まで続きました。患者さんと言っても、もう病気は治っている元患者さんたちです。そして、隔離政策が終わっても、元患者さんの多くは故郷に帰ることなく、療養所での生活を続けなければいけませんでした。治療薬が開発され、病気は治り、科学的に感染力も遺伝性もほとんどないと証明されたにも関わらず、ハンセン病に対する差別と偏見は根強かったからです。
 ある元患者さんがこう話しているのを聞きました。細かい言葉は違うかもしれませんが、大体このような主旨の言葉でした。「法律が廃止されて、国との裁判にも勝った。これで長い闘いが終わったと思った。でも、ほとんどの元患者は故郷に帰れなかった。親族から、『今さら帰ってきてもらっても困る。もうあなたは死んだことにして、籍を抜いて抜いてほしい』と言われた人もいた。」
 イエス様は、ご自分の超自然的な力による病気の癒しが、この世界が抱える根本的な深刻な問題の解決にはならないと、よく分かっていらしたのだと思います。イエス様が望んでいたのは、病気や障害があってもなくても、誰もが差別されることなく、人として大切にされる世界の実現です。汚れている人など誰もいないということ、神様は全ての人を分け隔てなく愛しておられるということを、私たち一人ひとりが確信して、無意識の差別に気が付き、自らの過ちを正していくことこそが、イエス様の望みです。ハンセン病の元患者さんたちも、社会を変えるためには一人ひとりの心を動かすしかないという信念を持ち、そのために自らの辛い体験を語り続けてくれています。超自然的な力も、法律の廃止も、人の心に根付く偏見を取り除くには不十分なのです。

 私たちは、自分とは異質な「未知」のものに対する警戒感から、無意識のうちに不当な差別をしていることが多くあります。未知の病だけでなく、未知の文化、未知の人種、未知の宗教など、様々なものが差別の理由になりえます。イエス様は、当時の掟を破る危険を冒して病者を癒し、汚れている人など存在しないのだということを行動で示されました。私たちに必要なのは、未知のものを理解しようとする姿勢と、未知のものを差別したくなる自分の傾向を認め、それを神様の愛によって変えていただくことです。

(祈り) 主イエス様、どうぞ私たちの心を調べてください。自分とは異質な特定の誰かやグループのことを、あなたが私たちのことを愛しているのと全く同じように愛されているということを、私たちは分かっているでしょうか?どうぞ私たちの心を導いて、あなたから見て間違いがあるなら教えて正してください。分かり合えないと感じる人たちに対して、理解しようとする姿勢を与えてください。誰もがあなたの愛しておられる人です。私たちも愛することができますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約

<キャシー・ブラック著「癒しの説教学−障害者と相互依存の神学」を読むシリーズ第7回>未知の病に対する恐怖はどの時代も共通で、病人を不当に隔離する過ちが繰り返されてきました。病だけでなく、未知の文化、未知の人種、未知の宗教など、私たちは自分とは異質な「未知」のものに対する警戒感から、無意識のうちに不当な差別をしていることが多くあります。イエス様は、当時の掟を破る危険を冒して病者を癒し、汚れている人など存在しないのだということを行動で示されました。重要なのは、超自然的な力で差別の原因を取り除くよりも、他人を差別したくなる私たちの心が神様の愛によって変えられることです。

話し合いのために
  1. 誰かに対して「近寄りたくない」と感じたことがありますか?
  2. イエス様はなぜ自分のことを隠しておこうとされたのでしょうか?
子どもたちと保護者の皆さんのために

誰かが「汚い」とか「臭い」とかいう話題は子どもたちの間でもあると思います。汚いものや臭いものには近づきたくないのは誰でも同じですし、身を守るために必要なこともあります。でも、それが「誰か」(人)である場合は違います。その人が本当に汚くて臭かったとしても神様はその人のことも大切にしておられることを忘れてはいけないということを、子どもたちと話してみてください。もしできたら、ハンセン病者の隔離政策のことについて話してください。