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日曜礼拝・英語通訳付
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正義・公正・公平
(箴言 2:1-9)
永原アンディ
箴言を読むシリーズ、今日から2章に入ってゆきます。ここではまた父が子に語りかける形で勧めがなされています。今日は何を神様に教えていただけるでしょうか?期待して聞いてゆきましょう。5節まで読みましょう。
1. 隠された宝を求めるように神様の思いを求める (1-5)
1 子よ、もし私の言葉を受け入れ私の戒めをあなたの内に納め
2 知恵に耳を傾け英知に心を向けるなら
3 さらに分別に呼びかけ英知に向かって声を上げ
4 銀を求めるようにそれを尋ね隠された宝を求めるようにそれを探すなら
5 その時、あなたは主を畏れることを見極め神の知識を見いだすだろう。
神様の思いをもっと知りたいと思わない人はいないでしょう。それなのに,実際に神様の思いをよく知っている人はそう多くはありません。このことは人と比べるような事柄ではありません。聖書についての知識の量とも関係ありません。大学院レベルの神学を修めた牧師が,皆さんより神様の思いをよく知っているわけではありません。
神様の思いを知ることについて、よく言えば私たちは無限の伸び代があります。 悪く言えば、私たちは皆、神様の思いについてほとんどわかっていないということです。
神様の私たちへの願いは、ただ私たちがもっと神様の思いを知ることなのです。この部分には、そのために私たちがすべきことが記されています。1,2節に、父の言葉を受け入れ、戒めを心に納めること、語られる言葉に関心を持つことが勧められています。1章を読んだ時に、箴言における“父”とは肉親の父に限らないとお話ししました。 私たちは、これを誰かを通して教えられると考えれば良いと思います。私たちは誰からでも、その人を通して神様の思いを知ることができる可能性があるのです。今聞いているような、聖書の話もその一つですが、聖書以外の本からも、ミニチャーチの中での会話からも神様の思いを聞くことができるのです。
3,4節に目を移すとそこには、私たちの積極的で、真剣で、熱心で、忍耐強く求め続ける態度が必要であることが記されています。誰かに教えられたり、本などで学ぶだけでは、それは決して得られないということです。一生を神学の学びに費やしたとしても、この姿勢がなければ不可能なのです。
私たちは神様の思いをどのような機会に得ることができるのでしょうか?3節に「分別に呼びかけ英知に向かって声を上げ」とあります。どうやって呼びかけ、声を上げたら良いのでしょうか?答えは礼拝です。
先月、皆さんにお話しした時に、いつもより10分も多く時間をかけて、礼拝の大切さをお話ししました。余計なことに煩わされずフォーカスを神様から離さないでくださいとお願いしたのは、それが、その人と神様の関係を保つ鍵だからです。
ユアチャーチがそのような礼拝を提供できなければ、どんなに楽しく、親しみの持てるコミュニティだとしても教会としては無価値だということです。それで、礼拝を邪魔するプログラムやイベントは持たないとお話ししました。
私たちが何よりも礼拝を大切にするのは、神様との関係を保つたった一つの必要不可欠のことだからです。ただしそれは、日曜日の朝の礼拝に限りません。皆が毎週ここに来て礼拝すべきですと律法的に言っているのではありません。 礼拝はどこででも、誰とでも、一人でもできることです。大切なのは礼拝を献げる頻度でも、長さでも、場所でもなく、神様に向かって声を上げ、呼びかけ、目を上げ、耳を澄ますことです。
皆さんは、銀を求めるように、隠された宝を求めるような熱心さで礼拝しているでしょうか?モーセは、イスラエルの民がやがて聞き従うことを忘れ、神様に背を向ける時が来ることを知っていたようです。申命記はこのように記録しています。
しかし、その場所から、あなたの神、主を探し求め、心を尽くし、魂を尽くして主を求めるならば、あなたは主を見いだすことができる。(申命記 4:29)
この「しかし」は「国を追われ、寄留している異教の地にあっても」という意味です。私たちがどのような状況に置かれていても、たとえそれが自分の引き起こした困難な状況であっても、心を尽くし、魂を尽くして主を求めるならば主を見いだすことができるのです。
神様は5節にここまでの結論として、お話ししてきたほどの熱心さで求めて得られるのは、本当に主を畏れること、神様の知識を見出すことだとしるされています。
後半では、得られた事柄が何のために必要なのかが記されています。読んでゆきましょう。
2. 正義・公正・公平: 神様が私たちに求められる価値観 (6-9)
6 まさしく、主が知恵を授け主の口から知識と英知が出る。
7 主は正しい人には良い考えを完全な道を歩む人には盾を備える。
8 裁きの道筋に従い忠実な人の道を守るために。
9 その時、あなたは見極められるようになる正義と公正と公平が幸いに至る唯一の道のりであることを。
主は良い考えを、私たちを守る盾を与えてくれます。それらが私たちの道を守ってくれるのです。しかしそれは私たちの自分勝手な道ではありません。「裁きの道筋に従い忠実に歩む道」です。それが、神様が私たちに求めておられる道です。これをもっとわかりやすく言い表したのが最後の節です。それは「正義と公正と公平の道」です。
福音は個人の魂の救いの問題であって社会の救いではないと言う人がいます。 それは間違っています。イエスの関心は個人の救いにとどまりません。個人の魂の救いの先に社会の救いがあるのです。イエスは、救われてイエスに従う者が社会を変えること、神の国の実現を目指して自分の役割を果たすことをもとめておられます。
言い換えるなら、 イエスに救われその体の一部とされた人々がこの社会を救うのです。個人の魂が救われれば天国に帰れるのだから、この世界での正義、公正、公平を求めるべきではないというなら、福音はマルクスの批判したアヘンのような宗教だということになってしまいます。そうであったなら、当時のイスラエルの権力者や宗教指導者にとって都合の良い宗教として重宝され、イエスは十字架につけられることもなかったでしょう。しかしイエスは個人の魂の救いだけを与える方ではありません。福音書にはイエスが示された正義、公正、公平で満たされています。
私たちが神様に期待されている歩みを知る方法は、私たちの主であるイエスに聞くことです。そこで、福音の記録されている、神様が私たちに求めている正義、公正、公平について、イエスご自身の言葉や行動から確認してゆきたいと思います。
イエスは、彼の人として生きた2000年前のイスラエルの社会が正義が行われていない社会であることを意識されていました。イエスに先立って、バプテスマのヨハネがそのことを強く非難したことをイエスは支持されました。しかしそれは、結局、ヨハネも、イエスも、そしてイエスに従った多くの人が殺されることになってしまうような社会でした。
マタイによる福音書の第5章には、有名な、「山の上で語られたイエスの教え」が記されています。その中で、正義に関して二つのことが語られています。
6 義に飢え渇く人々は、幸いであるその人たちは満たされる。
10 義のために迫害された人々は、幸いである天の国はその人たちのものである
この箇所のように、日本語の聖書では多くの箇所で「正義」ではなく「義」という言葉が使われています。正義が行われることのない社会で苦しむ弱い立場の人々をイエスは憐れみ、友となり、彼らのために命を惜しまなかったのです。この箇所には公正と公平が正義と並べて書かれてありますが、公正も公平も正義によって実現するものであり、正義の中に含まれる概念です。公正は正しく裁く、判断することです。公平は人を正しく平等に扱うことです。イエスは力ある者に公正を求め、ご自身は人々を公平に扱われました。
今日は一つの例だけを取り上げますが、イエスが公平や公正を重んじられる方であることは福音書の多くのエピソードから知ることができます。イエスは、のちに使徒と呼ばれるようになる十二人の中心的な弟子たちを選ばれました。その人選は当時のイスラエル社会の中では異質の公平性を持っていたと言えます。イエスが選んだ弟子たちは、常識的に見ればとんでもない連中でした。宗教的素養も教養もない人々であり、無名の人々でした。中でも、その極め付けは収税人でした。彼らはローマから税の取り立てを請け負って、自分の取り分を上乗せして同胞から納税させていた人々でお金持ちでしたが、ローマの手先と人々から嫌われ、宗教的には付き合ってはいけない罪人とされていた人です。ルカによる福音書5:27-32を読んでみましょう。
その後、イエスは出て行き、レビと言う徴税人が収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人たちやほかの人々が大勢いて、一緒に食卓に着いていた。ファリサイ派の人々やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに文句をつけて言った。「なぜ、あなたがたは、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか。」 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
イエスの公平は、リベラルを通り越して過激な公平でした。当時の権力者、宗教家、教養人には受け入れ難いほどのものだったということです。イエスは当時の宗教的失格者、社会的弱者、負け組のために来て、その仲間になったのです。
先々週のメッセージを憶えていますか?その通りに「汚れている人など存在しない」と主張されたのです。宗教家や権力者たちが何と言おうと、全ての人は平等で公平に扱われることが神様の意思であることを言葉でも行いでも表されたのです。
しかし、当時それをはっきりと主張するすることは、現代よりもはるかに難しいことでした。「罪人」とは、律法を守らない、守れない人、不道徳で不品行な人として、当時の社会ではラベリングされた人々です。収税人とともに娼婦、泥棒、高利貸し、ギャンブラー、十分の一献金をしない者、異邦人といった人々がそう見なされていました。親しく食事を共にするほど、「罪人」たちを愛されたイエスのことを憎み、社会から抹殺してしまいたいという人々の敵意が十字架の出来事を起こしました。
イエスは彼らが、正義を実践する彼を十字架につけるであろうことをよくご存知でしたが、あえてそこから逃れようとはなさらなかったのです。そして「罪人の友」として苦しみ、息を引き取られたのです。死に至るまでイエスの公平は貫かれました。このイエスを神様はよみがえらせたのです。それが私たちがもうすぐ迎えようとしているイースターの出来事です。
わたしは主イエスの復活は、彼自身が表された過激なほどの公平が勝利することの証拠だと信じています。公正という面から見るなら、イエスの求める公正は、当時の政治家たちや宗教家たちには全く見られなかったということです。
そこでイエスは彼らを厳しく糾弾し、一歩も妥協しようとはなさいませんでした。
イエスは今私たちが生きている世界を見てどう思われるでしょうか?私は、これも先々週のメッセージで聞いたマルコによる福音書の言葉ですが、「深く憐れまれる(あるいは激しく憤られる)」に違いないと思うのです。それほどに、正義、公平、公正は踏みにじられていると感じます。
しかも、クリスチャンを自認する人々までもがそれに加担しているありさまです。しかし希望はあります。よみがえられたイエスが今も私たちと共に歩んでいてくださるからです。
皆さんは、そんな名ばかりのクリスチャンのようにではなく、イエスに従う者としてイエスと共にこの正義と公平と公正の道を歩み続けてください。
(祈り) 神様、今週もあなたを礼拝することから、この週を始めることのできる恵みをありがとうございます。
どうぞ、あなたの知恵を私たちに悟らせてください。
私たちの思うこと、行うこと、口にすることをあなたからくる知恵によって正しいものとしてください。
あなたと共に、正義と公正と公平の道を歩み続けることができるように導いてください。
感謝して、期待して主イエスキリストの名によって祈ります。
要約
神様の意思を知ることは簡単なことではありません。隠された宝を求めるような熱心さで求めるなければ得ることはできません。それは心を尽くし、魂を尽くして捧げる礼拝なしに実現しません。神様が私たちに、神様の意思を知ることを求められるのは、キリストの体の一部とされた私たちを、神様の正義を世にもたらすために用いようとされているからです。お手本はイエスです。彼が示した正義、公正、公平は今も変わらず私たちの歩むべき道です。
話し合いのために
1. どうしたら神様の知恵を受け取ることができますか?
2. イエスの求める正義とはどのようなものですか?
子どもたち(保護者)のために
良い考えは神様から来ること、そのために礼拝し祈るのだということを伝え、それらをすることを勧めてください。また正義、公平、公正について一般論から話し合ってから、では神様の求める正しさとはどのようなものかと問いかけて考えさせてみてください。