イエスと日常を生きる

Юрий Д.К., CC BY 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/4.0>, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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イエスと日常を生きる

(マタイによる福音書 28:8-10, ヨハネによる福音書 21:20-23)

永原アンディ

 イースターの朝です。人々は「イースターおめでとう」と言い合いますが、何がそんなにおめでたいのでしょうか?それは、イースターの出来事が、十字架につけられたイエスがよみがえられ、あなたの人生の伴侶となってくださっていることの根拠だからです。

 皆さんはイエスがあなたの人生を共に歩んでいてくださることを実感していますか?今朝は、皆さんに「私はイエスと共に歩んでいる」ということを実感していただくために二つのことをお話しします。初めにマタイによる福音書28:8-10を読んでみましょう。

1. 「ガリラヤで会おう」とイエスは言われた (マタイによる福音書28:8-10)

8 女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」

 女たちがイエスの墓を訪ねると、そこにはイエスの亡骸はありませんでした。女たちはそこにいた天使から、ガリラヤに行って復活したイエスに会うように弟子たちに伝えなさいと告げられます。そして弟子たちのところに急いでいるときにイエスは現れて、こう言ったのです。

 今日は特に10節のイエスの言葉に注目したいと思います。

「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」

 ガリラヤはイエスや弟子たちの地元です。エルサレムから北上して約150キロ、今なら車で2時間ほどですが、当時は数日かけて徒歩で移動しました。ガリラヤ地方の中心はガリラヤ湖です。イエスはなぜ、弟子たちとガリラヤで会おうとされたのでしょう?

 一つにはイエスご自身がそのことを預言されていたからでしょう。それは弟子たちと共に最後の食事をし世界で最初の聖餐式を行った後、祈るためにオリーブ山に向かっている時に弟子たちに呼びかけられた言葉です。

「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

しかしなぜ“ガリラヤ”だったのでしょう。

 エルサレムは政治的にも宗教的にもイスラエルの中心地でした。ガリラヤは辺境です。キリスト教会は弟子たちによってエルサレムで始まりました。なぜ復活されたイエスは、その前にわざわざ遠く離れたガリラヤで弟子たちと再会しようと思われたのでしょうか?

 一つにはイエスの宣教の始まりの地で、弟子たちに彼らの信仰の原点を確認させるためだったのだと思います。

 しかし、今日心に留めておきたいことはガリラヤ地方は弟子たちにとって日常の場であったということです。

 エルサレムは彼らがイエスと共に宣教の時を過ごした最後の場所で、十字架と復活という私たちにとって決定的なことが起きた場所ですが、イエスはそこを聖地化することを望まれなかったのだと思います。イエスは弟子たちの宣教が日常の中で行われることを望まれたのだと思うのです。

 ヨハネによる福音書21章によると、弟子たちはやはりイエスの伝えた言葉に従って一旦ティベリア湖(ガリラヤ湖の別名)に戻っていたことがわかります。

そして、彼らにとってイエスに出逢う前の日常であった漁にさえ出ていたのです。その時、かつてイエスに出会い、そして彼について行こうと決心した出来事と同じことが起きたのです。皆さんは覚えていらっしゃいますか?

 それは、全く魚がかからなかったのにイエスに従った時に多くの魚が網にかかったという出来事です。弟子たちはイエスが目に見えていようと、いまいと自分たちの日々の歩みの中で共にいてくださることを実感したのです。

 イエスと出会う時、イエスと共に過ごす時は特別な“ある日”ではなく、私たちは日常をイエスと共に生きているのです。確かに私たちは日曜日を特別な時として大切にしていますが、この時だけがイエスと共に過ごす時とするなら、イエスと共に生きているという実感を得ることは難しいことでしょう。 共に捧げる日曜の礼拝、一人で日々捧げる個人的な礼拝の時に限らず、何をしている時でも折にふれてイエスに聞き、イエスに語りかける習慣をもってください。

 イエスは特別な時だけではなく、むしろ、みなさんの日常の中で共にあゆんでいてくださることが実感していただけると思います。

2. あなたは私に従いなさい (ヨハネによる福音書21:20-23)

 イエスは、日常に戻り不漁でがっかりしていた弟子たちに向かって「船の右側に網を打ちなさい、そうすれば捕れるはずだ」と岸辺から語りかけ、結果はイエスの言われた通りになりました。イエスは、声をかけたのがイエスだと気付き喜んで戻ってくる弟子たちを、朝食の準備までして迎えました。

 この楽しい朝食会の後で、もう一つの私たちにとっても重要な会話があったことをこの福音書は記録しています。

イエスはこの食事の後で、イエスが十字架につけられた時に3回も「私はイエスとは関係ない」と言ってしまったシモン・ペトロに3回「わたしを愛するか?」と問いました。ペトロが自分の弱さ、罪深さを痛感しながら、イエスへの愛を告白すると、イエスはペトロに「私の羊を飼いなさい/私に従いなさい」といわれました。イエスがペトロを赦し、彼にご自身の教会を委ねた会話です。

 しかし、ペトロにはもう一つ知るべきことがありました。20節から読んでみます。

20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子が付いて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸元に寄りかかったまま、「主よ、あなたを裏切るのは誰ですか」と言った人である。
21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
22 イエスは言われた。「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。」
23 それで、この弟子は死なないという噂がきょうだいたちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「私の来るときまで、彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

 ペトロは若い弟子ヨハネにあまり良い感情を持っていなかったのです。確かにイエスは自分を愛していてくれ、あなたが教会を始めなさいと言ってくださいましたが、彼にはイエスが自分以上にヨハネを愛していると感じていたからです。ここに記されているような、イエスに対するヨハネの愛情表現も彼は気に入らなかったのでしょう。イエスは極端な比喩までしてペトロを諌めています。「私が誰かに何を与えようが、あなたには関係ありません。“あなた”は私に従いなさい。」

 これはペトロだけだはなく、人のことが気になるすべての人に向けられたイエスの言葉です。イエスが自分に最良のものを与えてくださると信じているなら、他の人が何を与えられようと、イエスの言う通り、自分には関係ないことであるはずです。

 私たちが人と比べて考えたくなるのは、自分を主としてしまっているからです。それは私たちの誰もがもつ自己中心的な罪の現れに他なりません。悪魔はその弱みに付け込んで、イエスと私たちに関係、イエスを信じるもの同士の関係を壊すのが望みです。

 私たちはただ、「“あなた”は私に従いなさい。」 と言う主の声を日々聞きながら、イエスと共に日常生活を生きてゆきましょう。

(祈り) 主イエス様、あなたが死に打ち勝ち、よみがえられて、日々の生活の中を私たちと共に歩んでくださっていることをありがとうございます。
どうか私たちをあなたともっと親しく語り合う者とさせてください。
あなたから多くの恵みをいただきながら、他の人々のことが気になってしまう者です。
ただあなたの大きな恵みを驚き喜んで日々を歩む者とさせてください。
永遠にあなたと共に歩み続けることができるように導き、お守りください。
イエス・キリストの名前によって祈ります。


要約

よみがえられたイエスは、その体は目には見えず、その声は耳にとどかなくても、私たちの中に生きておられます。このイエスを信頼し、彼に従って彼と共に人生を歩むことが信仰です。それは単に父、子、聖霊が神様だと信じることではありません。イエスは、他でもないあなたに呼びかけておられます。「”あなたは”私に従いなさい。」

話し合いのために

1. イエスは今どこにいますか?

2. 私たちにとってガリラヤとは何を意味しますか?

子どもたち(保護者)のために

 ヨハネによる福音書21:20-23から、イエスは私たち一人ひとりに、「私に従いなさい」と呼びかけておられることを伝えてください。イエスはありのままの一人一人を愛しておられること、人と比べる必要のないこと伝えましょう。
 また、イエスや彼の弟子たちが生涯のほとんどを過ごしたガリラヤ地方、ガリラヤ湖について(ウィキペディアやGoogleマップなどで)一緒に調べてみてください