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日曜礼拝・英語通訳付
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命の木に身を寄せて
(箴言3:13-20)
永原アンディ
今日は箴言を読む週です。今日は3:13-20です。まず16節までを読みましょう。
1. 幸いをもたらすのは富ではなく知恵 (13-16)
13 幸いな者とは知恵を見いだした人英知にあずかった人。
14 そのもうけは銀による利得にまさりその収穫は金にまさる。
15 知恵は真珠よりも貴くどのような財宝もこれに並びえない。
16 知恵の右の手には長寿左の手には富と誉れがある。
先週の火曜日に一人の元大統領が亡くなりました。ウルグアイのホセ・ムヒカさんです。ムヒカさんは「世界で一番貧しい大統領」と呼ばれていました。在任中も公邸には住まず、公用車も使わず、友達にもらった1987年製の水色のビートルを自ら運転していました。大統領になっても、その給料のほとんどは寄付してしまい、自身は質素な暮らしを変えることはなかったそうです。
確かに財産とか収入という点で言えば「世界で一番貧しい大統領」でした。しかし、神様の目には「世界で一番豊かな大統領」であったと思います。
彼は自身の貧しさについて問われ、「『貧しい人』とは、限りない欲を持ち、いくらあっても満足しない人。自分は満足していて質素ではあるけれど貧困してはいない」と答えています。また「貧困はモノの問題ではなく心の問題であって、一番深刻な貧困は孤独だ」とも言っていました。彼は現代の貪欲な資本主義が、貧困や富の偏在をもたらしていることを訴え続けきました。
2016年に来日された時に、大学生たちに向かってそれらのことを語っただけではなく、最も大切なのは「愛」ですと語っていたのが印象的でした。
ムヒカさんは、「知恵を見出した幸いな人」の好例です。物事の本質、本当の価値を知っていたので、虚しい富の誘惑に囚われず、豊かな人生を送られました。
皆さんは16節の「知恵の右の手には長寿、左の手には富と誉れがある。」の真の意味を理解されているでしょうか。ここで言われているのは、時間的な長寿、物質的な富、人々から得る名声ではないのです。箴言は、神様の知恵を求めることを熱心に勧めますが、それはアンチエイジング、蓄財、名声を与えてくれるものではありません。しかし、この勘違いは前回お話した「繁栄の神学」として、キリスト教会の中にも深刻なほどに入り込んでしまっています。
それでは知恵はどのような意味で、長寿、富、誉をもたらすというのでしょうか。 それは、あなたと神様との関係における長寿、富、誉です。神様との関係においては、何年生きるか?も、いくら持っているか?も、どれほど人々に知られ、尊敬されるか?も全く意味はありません。大切なのは、このシリーズを通して何度も繰り返したきたように「神様との健康な関係」を保つことです。そして神様との健康な関係を保つために必要なことは、ただ神様に信頼をおき、神様と共に日々を生きることなのです。しかしそれは、単に心の持ち方といった抽象的なことではありません。
2. 私たちの命の木 (17-20)
17 知恵の道は友愛の道その旅路はいずれも平安。
18 知恵は、それをつかむ人にとって命の木。知恵を保つ人は幸いである。
19 主は知恵によって地の基を据え英知によって天を定められた。
20 主の知識によって深淵は分かたれ雲は露を滴らせる。
先週紹介された、命についてのイエスの言葉を覚えていますか?ヨハネによる福音書12章の言葉です。
25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。26 私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいるところに、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
ここから私たちは 「この世で自分の命を憎む」とは、自分を信頼するよりも神様を信頼するということだと学びました。そしてそれは抽象的なことではなく、人格的な関係を持つこと、つまりイエスに従い、イエスと共に歩むということだと確認しました。
それは、まだイエスが地上に存在しなかった箴言の書かれた時代に即して言うなら、「神様の知恵である命の木に身を寄せて生きる」ということです。 「命の木」は、最初の書、創世記に3回、この箴言に4回、そして最後の書、黙示録に4回で出てくるだけの聖書の中でもそう多く用いられていない表現です。ここ以外の聖書の箇所として、創世記のエデンの園の中央に「善悪を知る知識の木」とともに植えられた「命の木」を思い起こす人は多いと思います。
この創世記3章のエピソードについての解釈は様々で今日取り上げる時間はありませんが、神様だけが持つ全知全能と神様だけが与えることのできる永遠の命の、何にも比べられない重要性が象徴されているエピソードであることは間違いありません。そして、2本の木が象徴する神様の知恵と命、そしてそれらを軽視した人間の罪ふかさこそ、聖書の一貫した中心テーマなのです。
人を創造した神様は、私たち人間を自らに似たものと創られ、神様の創造物の全てを“良く”管理しなさいと私たちに命じられました。しかし、エデンの園、神様の創造の中心の、さらにその中心に置かれた二本の木が象徴する命と知だけは、人が管理することのできない神様の直轄事項だったのだと私は想像しています。人間は最初からその戒めを軽んじ、自分で管理できるものと自惚れ続けているのではないでしょうか。
命の事柄、知恵の事柄について私たちは、コントロールする者としてではなく、聞き従う者として接するという、全く異なるアプローチをする必要があるのです。
改めて問いたいと思います。皆さんにとって命の木とは何でしょうか。
イエスがご自身を木にたとえて、私たちとの関係を話された言葉を覚えていますか。それは、ヨハネによる福音書15章に記されています。1-4節を読みます。
「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。
創世記によれば、私たちが管理する対象ではなく、従うべき存在である「命の木」。
箴言によれば「神様の知恵」である「命の木」。
それは、ヨハネによる福音書によれば、イエスご自身なのです。
私たちは雨宿りをするように困難を避けるためだけにイエスを信じているのではありません。ましてや繁栄の神学を謳う牧師たちのように、自分の商売のためにこの木を切り売りしているような者でもありません。
私たちが、真の「命の木」であるイエスに身を寄せるということは、彼を利用して不幸を避けようとすることでも、自分の利得のために利用することでもなく、命の木の枝葉となって命の木の実を結ぶことなのです。
私たちの結ぶ実が、財産や名声でないことは、ムヒカ大統領も教えてくれました。それは愛の実です。この実を食べた者は、愛を知り、神を知り、新しい命を生きることができるのです。
ただしこの実は到底美味しいとは思えないので、食べる事を躊躇する者は多いのです。先に紹介した先週聞いたイエスの言葉を思い出してください。この実をたべるということは、自分の欲望に従いたい、自己中心に生きたい、愛するよりも愛されたい自分を捨てることだからです。神様のように知恵ある者となれる、魅力的な「善悪を知る知識の実」とは正反対だからです。
この犠牲を私たちのために先に払ってくれたのが、私たちの主、イエス・キリストです。そう考えると十字架もまた命の木ということができます。あなたも命の木に身を寄せて新しい命を得て、平安な人生の旅路を歩んでください。
(祈り) 神様、あなたが真の命の木、イエスとして私たちに出会ってくださった恵みを心から感謝します。
私たちが本当の命を得るために、本当の富を得るために、十字架の上で命を差し出して下さいました。
わたしたちがあなたから離れずに、あなたに相応しい実を実らせることができるように必要な霊的な栄養を豊かに与えて下さい。
私たちがあなたの枝として、もっと強く、もっと大きく、もっと多くの実を結ぶことができるように成長させて下さい。
イエスキリストの名前によってお祈りします。
要約
私たちが、真の「命の木」であるイエスに身を寄せるということは、彼を利用して不幸を避けようとすることでも、自分の利得のために利用することでもなく、この命の木の枝葉となって、命の木の実を結ぶことなのです。私たちの結ぶこの実は、食べた者が愛を知り、神を知り、新しい命を生きることができる愛の実です。
話し合いのために
1. 聖書が教える長寿、富、誉とは何を指していますか?
2. 命の木とは何ですか?
子どもたち(保護者)のために
ムヒカ大統領の話をしてあげて下さい。そしてイエスと共に歩むことこそ最も豊かなことである事を伝えて下さい。ムヒカさんの言葉は絵本を含めいくつか出版されています。