主が嫌われる7つのもの

Illustrated by Milo Winter (1886-1956), Public domain, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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主が嫌われる7つのもの

(箴言 6:1-19)

永原アンディ

 箴言のシリーズ、今日は6章の前半を読んでゆきます。初めに5節まで読みましょう。

1. 人間関係の限界 (1-5)

1 子よ、もし友の保証人となってよその者に手を打って誓い
2 あなたが自分の口から出た言葉によって罠にかかり自分の口から出た言葉によって捕らえられたなら
3 子よ、その時にはこうして自らを救い出せ。あなたは友の手中に落ちたのだから気弱にならず、友にうるさく求めよ。
4 あなたの目に眠りをまぶたにまどろみを与えるな。
5 狩人の手から逃れるガゼルのようにその手から逃れる鳥のように、自らを救い出せ。

 誰かの連帯保証人になったために全財産を失うという話は、今でもよく聞くものです。それは箴言の書かれた時代でも同じだったようです。それが借金であれば、借りた本人が返さなければ、保証人が肩代わりしなければならず、それができなければ保証人が罪に問われることになります。

 ポイントは、だから保証人になるべきではないということではありません。 それでは、社会の経済が成立しません。

 書かれていることは、誰かの保証人になるなら慎重になるべきで、もし騙されたことがわかった時には、諦めずにしつこく求めよというアドヴァイスです。 以前の新共同訳聖書はこの箇所についてユニークな訳を採用していました。

「命は友人の手中にあるのだから行って足を踏みならし、友人を責め立てよ。」 

 しかしその程度のアドヴァイスなら、箴言=神様からの知恵の言葉とはいえないほど常識的です。

 では、私たちはこの部分からどのような神様の知恵を得ることができるでしょうか。それはどれほど信頼のおける人間関係であっても、裏切られることがあるということです。裏切ってしまう方から見れば、決してこの人を失望させたくないと思っていたとしても、自分にはどうすることもできない状況で、不本意にもその人の期待を裏切らざるを得ないことが起こるということです。

 それは宗教的な言い方をすれば「人は人を救うことができない」ということです。全く救いのない話です。人間不信になるしかないのでしょうか?

 2000年前、この箴言を産んだイスラエル社会に現れたイエスは、今日の教えを真っ向から否定する行動をとった方でした。イエスは、最も当てにならない人々の保証人となったのです。

 神様に背を向けた結果、返すあてもない、罪という神様に対して払いきれない負債を抱えた私たちのことです。もっと正確にに言えば、死に値する罪を肩代わりして、十字架の死の苦しみを受けられました。十字架から逃れる努力は一切なさいませんでした。

 人々を教え始めてから十字架にかけられるまでの約3年間のイエスの教えを、短い言葉で要約するなら「私に従いなさい」でありそれは「愛しなさい」ということです。しかし、それが私たちにとって非常に困難で、私たちがご自身のようにはできないこともよくご存知だったはずです。

 イエスはそんな私たちを自分の体、教会とされました。その実態が人間の集合である教会が欠陥だらけなことは明らかです。それでも、私たちは神様の体としての役割を果たすこと、神様の期待に応えることができます。それは、私たちが自分たちの限界を知っていて、それでもなお互いに赦し合おうとすること、寛容であろうとすることによって可能です。

 たとえ、その人自身が無力であっても、その人の連帯保証人がイエスであることによって信頼関係は成り立ちます。借りたものが返ってこない、約束したことが守られない。それは必ずしも、全てをその相手のせいにはできません。自分が相手の立場であっても同じことです。

 しかしイエスがその人の連帯保証人であるからには、イエスは別の形で私たちの受けた損失を補充してくれるばかりでなく、私たちの必要を溢れるばかりの恵みで満たしてくださいます。

2. 悪を遠ざけ勤勉であること (6-15)

6 怠け者よ、蟻のところに行け。その道を見て、知恵を得よ。
7 蟻には指揮官もなく役人も支配者もいない。
8 夏の間に食物を蓄えても刈り入れ時にもなお食糧を集める。
9 怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。
10 しばらく眠り、しばらくまどろみしばらく腕を組み、また横になる。
11 すると、貧しさは盗人のように乏しさは盾を持つ者のようにやって来る。
12 ならず者は悪をもたらす輩偽りを言い歩く。
13 目くばせし、足で合図し指で指図する。
14 心に偽りを持ち、悪を耕し絶えずいさかいを引き起こす。
15 それゆえ、彼には突然災いが襲いたちまち砕かれるが、彼を癒やす者はない。

 ここに勤勉の大切さと悪を遠ざけることとが対照的に挙げられています。それはここでいう勤勉を善とし、怠惰を悪につながるものであることを示しています。

 ここでいう悪とは、自分で努力して何かを手に入れるのではなく、不正な手段で、人が努力して得たものを盗むような仕方で、正当な努力なしで得ようとする意志です。しかし一方、善に結びつかない勤勉さ、努力もあります。周到な計画を立て、何年間も準備をして貴重な絵画を美術館から盗み出すと言った映画を見たことがあるでしょうか?また悪が、支配する人々に求める勤勉さもあります。

 かつて軍人が権力を持っていた日本では、若者に国のために自分の命を差し出すことが美徳とされ、贅沢は敵だと教え、「欲しがりません勝つまでは」と言わせていたのです。あの戦争が終わったのは80年前です。国土が焼け野原になって、戦争はしないと誓って半世紀で日本は国際社会に受け入れられるだけではなく、さまざまな分野で世界全体に貢献できる国となりました。

 しかしこの10年で、この国の平和を守る決意はどこかに行ってしまったかのように私には思えます。今で言う「日本人ファースト」がかつて国を滅ぼしたことが忘れ去られようとしています。もっともそれはこの国だけではありません。あらゆる大陸で、もう一度、大きな戦争を招くような価値観が広がりつつあると思います。

 しかしそれは、すべての人をご自身の似姿としてつくられ、協力してこの世界を良いものとして保つことを望む神様の意思に背くものです。勤勉も、自己犠牲も人に対するものであるなら、それは神様を敵とする悪に加担するものであることになるかもしれません。その点をよく見極めなければ、私たちの勤勉がある人々を苦しめることになるでしょう。

 私たちに求められているのは、神様の意思に対する勤勉さです。

 

3. 主が嫌われる7つのもの (16-19)

16 主の憎むものが六つ心からいとうものが七つある。
17 高ぶる目偽りを語る舌無実の人の血を流す手
18 悪だくみを耕す心急いで悪に走る足
19 虚偽を語る偽りの証人兄弟の間に争いを引き起こす者。

 この今日のテキストの最後の部分には、神様の嫌われるものが具体的に7つ列挙されています。それらは12−14節に出てきた悪い者の様子と重なっています。最後の二つを除いては、私たちの持つ体の部分として表現されています。

 それは、私たちの体がどれほど悪の誘惑に弱いかをよく表しています。 高慢になり人を見下すこと、嘘をついて不当な利益を得ようとしたり自分の責任を回避しようとすること、それらが自分にはありませんと言う人は偽善者です。

 しかし、無実の人の血を流す手なんて、さすがにそれは自分の手ではないと皆さんは言うでしょう。もちろん、おそらく私たちが直接手を下すことはないでしょう。しかし世界中で無実の人の血が流されています。この責任は手を下す人だけにあるわけではありません。それが独裁者の暴挙だとしても、それを許し、加担する人がいました。社会がそのような主の嫌うことを許容するのです。

 広島と長崎に投下された多くの無実の人々の血を流した原爆の投下の責任は誰にあると思いますか?ボタンを押した人にですか?B29の機長にですか?司令官?大統領?アメリカ人?そうではないと私は思います。

 みなさんは、日本も原爆を持とうとする意思があったことをご存知でしょうか?マンハッタン計画と呼ばれたアメリカの原爆開発計画よりも前に、日本の計画は始まっていました。単に、資金力、開発力が劣っていたので完成させることができなかっただけです。もし、日本が先に作っていれば、どこかの国で同じ悲劇を起こしていたでしょう。

広島の原爆記念碑の「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」(Let all the souls here rest in peace, For we shall not repeat the evil) と言う文の主語は、日本語では省略されていますが「私たち」です。これを書いたのは、自らが被爆者であり日本人である広島大学の雑賀忠義(さいがただよし)教授です。つまり、この過ちの責任はすべての人間にあるということです。

私たちはそれぞれの属する国の主権者です。今日はこの国の国政選挙の投票日です。自分の国が無実の人の血を流すことに加担しないように選挙で私たちの1票を行使しましょう。

 キリスト者であるならイエスの意思を聞いて、それに最も相応しい政党、候補者に投票するのです。キリスト者と自称する人の中にも右から左まで、どの党や候補者がイエスの意思に近いか、その意見はバラバラです。だからこそ、私たちが神様から求められていることは日頃からイエスの言葉に接すること、その教えに従って行動しようとする勤勉さです。

(祈り)イエス様、あなた今日もが箴言を通して語りかけてくださったことをありがとうございます。
 互いに愛し合うことがあなたなしには不可能な私たちだいということを教えてくださってありがとうございます。
 互いにとっての連帯保証人であるあなたを信頼して、私たちが愛し合い、赦し合うことができるように助けてください。
 あなたの意思を求めて熱心に聞く者とさせてください。
 無実の者が苦しむことについて、私たち一人ひとりにできることを教え、行う力を与えてください。
 今週もあなたに従って歩み続けることができるよう導いてください。
 感謝して、期待して、私たちの主、イエス・キリストの名前によって祈ります。


要約

どんなに大切に思っている人をさえ、失望させてしまうことのある私たちに「互いに愛し合いなさい」と命じるイエスは、それを他人ごとのように言っているわけではありません。イエスの十字架の苦しみは、信頼に応えることのできない私たちであることを承知した上で保証人となり、私たちの受けるべき罰を引き受けた結果の出来事でした。その復活によって、イエスは彼に従うことが死と悪に打ち勝つ道であることを示され、私たちの歩みを今も導いてくださいます。 

話し合いのために

1. イエスはどのような意味で私たちの保証人なのでしょうか?

2. どうしたら主が嫌われることから離れて生きられるでしょうか?

子どもたち(保護者)のために


16-19節を読み聞かせて、子どもの年齢に合わせて解説して、悪から遠ざかることを教えてください。また、遠く離れた国々の人々の苦しみや悲しみも、実は私たちの態度とは無関係ではないこと、私たちにもできることがあることを教えてください。例えば、戦場となっている地域や貧困に苦しむ地域の子供達のために祈ること。また、大人になる働くようになったら寄付をしたり、ボランティアをしたりすることなどで力になれることを伝えてください。