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私たちに仕えてくださった神様
(ヨハネによる福音書13:1-20)
池田真理
今日はヨハネによる福音書のシリーズの続きで、13章1-20節を読んでいきます。前回お話ししたのですが、前回読んだ箇所まででイエス様の公の活動の記録は終わりで、今日の箇所からは弟子たちとの親密な関係性の中でイエス様が教えられたことの記録が始まります。今日の箇所を含めて、新約聖書全体でも特に印象深いイエス様の言葉が続いています。今日の箇所は、イエス様が弟子たちの足を洗う場面です。長いのですが、1回で読むことにしました。前半はイエス様が私たちに仕えてくださったことについて、後半は私たちが互いに仕え合うことについて、知ることができます。これはユアチャーチのメンバーのカヴェナントにも通じるのですが、イエス様が私たちに仕えてくださったので私たちは互いに仕え合うことができるということが分かります。イエス様が私たちをどのように愛してくださっているのかを知ることによって、私たちも互いに愛し合うことができるようになるとも言えます。それでは早速最初の5節を読んでいきましょう。
A. イエス様が私たちに仕えてくださった
1. 自分を低めることを厭わない愛(1-5)
1 過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。2 夕食のときであった。既に悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。3 イエスは、父がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4 夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻かれた。5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
1節の言葉は印象的だと思います。イエス様は別れの時が近いことを悟って、弟子たちのことを「愛して、最後まで愛し抜かれた」とあります。この一文は、今日の箇所だけではなく、この13章から17章まで続くイエス様の弟子たちに対する言葉の全てを集約するものです。イエス様は弟子たちを心から愛していたので、その結果として、彼らの足を洗い始めました。
イエス様の時代、宴会に行く前には体を洗い、食事の席に着く前に足を洗う習慣がありました。裕福な家では、ゲストの足を洗うのは奴隷の役割でした。イエス様はその役割を引き受けたということです。ただ、この場面は食事の最中なので、イエス様が弟子たちの足を洗い始めたのは、必要に迫られてではなく、イエス様がしたくてなさったことです。
イエス様は、汚いことでも、人から見下されることでも、弟子たちのためならやってあげたいと思われました。弟子たちのためなら、人からどう思われようと、自分が汚れようと、気にしませんでした。相手のために自分を低めることを厭わないこと、それが本当の愛であるということを、イエス様は自らの行動で示されました。
続きを読んでいきましょう。6節から10節前半までです。
2. 私たちと個人的な関わりを持つために (6-10a)
6 シモン・ペトロのところに来られると、ペトロは、「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と言った。7 イエスは答えて、「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」と言われた。8 ペトロが、「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」とお答えになった。9 シモン・ペトロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。
ペトロは、イエス様をとても尊敬していたので、イエス様に自分の足を洗わせるなんてとんでもないと思ったようです。それは当然の反応だと思います。でも、イエス様は意外なことを言われました。「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」と。
このやりとりから、イエス様が弟子たちの足を洗ったのには深い意味があったことが分かります。イエス様は、私たちの罪を洗い清めようとされていました。弟子たちの足を洗うという行為は、それ自体がイエス様の謙虚さと深い愛を示していますが、それ以上に、イエス様が私たち全ての罪を贖うために自らの命を捧げられることを象徴しています。イエス様は、私たちの罪を赦して、一人ひとりと個人的な信頼関係を築くことを望まれ、それを実現するために十字架で死なれました。
イエス様が死なれたのは自分のためだったと受け入れる人は、イエス様が自分の罪を洗ってくださったと分かります。でも、そうでなければ、イエス様とは何の関わりもありません。だから、イエス様はペトロに、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」と言われました。
弟子たち一人ひとりの足を洗って回ったイエス様は、私たち一人ひとりのこともよく知っておられ、それぞれの罪を洗い清めてくださる方です。そして、一人ひとりの人生に関わり、一対一の関係の中で信頼を深めていくことを望まれています。
このように、イエス様は私たちに仕えてくださいました。私たちは、自分が神様に仕えようとする前に、神様ご自身であるイエス様が私たちに仕えてくださったのだという事実を、忘れてはいけません。王の身分にある方が僕のようになられ、主人であるべき方が奴隷のようになられたということ、そのような方がイエス様であるということを、いつも心に留めていましょう。
それでは、このイエス様に倣って私たちが互いに仕え合うということについて、今日の箇所の後半を読んで考えてきましょう。まず10節後半から15節です。
B. 私たちが互いに仕え合うということ
1. イエス様の模範に従って(10b-15)
あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」11 イエスは、ご自分を裏切ろうとしている者が誰であるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。12 こうしてイエスは弟子たちの足を洗うと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。13 あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。私はそうである。14 それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。15 私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。
おそらく、弟子たちにとって、特にペトロのような熱い人にとって、師であり主であるイエス様に仕えることは光栄なことで、イエス様の足を洗うことも苦にはならなかったと思います。それは私たちも同じで、私たちも自分の尊敬する人になら喜んで自分を捧げて仕えることができます。
でも、ここでイエス様が求めたのは、私たちが互いの足を洗い合うことです。それは時には、尊敬するに値しない人に仕えることを意味します。お互いの弱さや悪いところを知っている相手に仕えるということは、相手を許す寛大さと自分を低める謙虚さを必要とします。それは、まさにイエス様が私たちのためにしてくださったことです。
イエス様が私たちのために死なれたのは、神様のことを忘れて裏切り、互いに傷つけ合っている私たちの罪を赦すためでした。イエス様にとって、私たちは大切な神様の子供でしたが、尊敬に値する存在ではありません。むしろ、神様を苦しめ悲しませる存在です。ですから、イエス様が私たちを見捨てずに愛し続けてくださったのは、ただただイエス様の憐れみの大きさによります。
イエス様は、「私が示した模範に従いなさい」と言われました。でも、イエス様のような寛大さと謙虚さを、私たちが自分の力で一瞬で手に入れられるわけがありません。それでも、イエス様は私たちを変えることができます。イエス様が十字架でしてくださったことの大きさを私たちが自分の生活の中で繰り返し確かめることによって、私たちはわずかずつでもイエス様に似た者となれるはずです。私たちが変わらないとしたら、それは私たちが傲慢だからです。
最後の16-20節を読んでいきましょう。
2. 仕え合う努力を続けること(16-20)
16 よくよく言っておく。僕は主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない。17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。18 私は、あなたがた皆について、こう言っているのではない。私は、自分が選んだ者を知っている。しかし、『私のパンを食べている者が、私を足蹴にした』という聖書の言葉は実現しなければならない。19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『私はある』ということを、あなたがたが信じるためである。20 よくよく言っておく。私の遣わす者を受け入れる人は、私を受け入れ、私を受け入れる人は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」
実は、今日の箇所で私はここまで説明を省いてきたのですが、イエス様はユダが裏切ることを知っていたということが繰り返し言われています。ユダも、イエス様が選んだ弟子の一人でした。イエス様は、ユダが自分を裏切ることを知りながら、ユダの足も洗ったはずです。ユダの裏切りも、全て神様の許しの中で起こることで、イエス様はユダのことを嘆いても、見放していたわけではなかったと思います。また、積極的にイエス様を殺す計画に参加したのはユダだけでしたが、他の弟子たちも逮捕されたイエス様を見捨てて逃げたという意味では、弟子たちは全員イエス様を裏切ったと言えます。イエス様は、そんな彼らを確かに選んで、ご自分の働きを担わせて世界に送り出そうとされていました。
「僕は主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない」というイエス様の言葉は、私たちとイエス様の関係をよく表しています。私たちは、イエス様にまさることは決してなく、イエス様の代わりには決してなれません。それでも、イエス様が私たちを選ばれて、愛を教えてくださったことは事実です。イエス様は、私たちの弱さも用いて、私たちの周りの人にご自分の愛を伝えてくださいます。イエス様の今日最後の言葉、「私の遣わす者を受け入れる人は、私を受け入れ、私を受け入れる人は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」という言葉は、私たちが互いに許し合って受け入れ合う時に、神様の愛はそこにあるということを示していると思います。私たちが互いに裏切ったり、傷つけ合ったりしてしまうことがなくなることはないかもしれません。それでも、許し合い、仕え合う努力を続けるかどうかが問われています。
弟子たちの足を洗って回ったイエス様の姿を思い起こす時、私たちは誰の前でも謙虚にならずにはいられないはずです。私たちは、それぞれが具体的な状況の中で、互いに足を洗い合うとは何を意味するのか、問い続けて、実践することが求められています。
(祈り)主イエス様、あなたは私たちの汚さも弱さも全てご存じです。そして、その中にこそ来て下さり、癒して赦して下さいます。どうか、今あなたの前にありのままで出ていきますから、どうぞあなたの光で私たちの心を照らしてください。変わるべきところを教えてください。誰かに対して傲慢になっていることがあれば、教えてください。あなたが私たちのために命を捧げてくださったように、私たちも人に自分を捧げることができるように、あなたの霊で私たちを満たしてください。私たちはあなたの代わりにはなれませんが、一緒にあなたに助けを求めることができるように、導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
イエス様は、逮捕される直前の食事の席で、弟子たち一人ひとりの足を洗って回りました。それは、イエス様が私たちの仕える主でありながら私たちに仕える僕になってくださったことを象徴しており、イエス様の私たちに対する愛を表しています。弟子たちは全員イエス様を裏切りましたが、イエス様はその全てを知った上で、十字架に架かられ、彼らを赦しました。そのイエス様の愛は私たち全てに注がれています。それは、イエス様が私たちを赦してくださったように私たちも互いに許し合うためで、私たちが不完全でも互いに仕え合う努力を続けるためです。
話し合いのために
1. 8節「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」とは?
2. 私たちが互いに足を洗い合うとは具体的にどういうことでしょうか?
子どもたち(保護者)のために
「イエス様は弟子たちの足を洗った」というエピソードを、絵本なども使って、ぜひそのまま子ども達に話してください。イエス様は自ら上着を脱いで、手拭いを巻いて、弟子たちの足元に跪いて、手をぬらして弟子たちの足を洗いました。
「そのころの人たちのはき物といえば、くつじゃなくてサンダルだった。それ自体はべつにおかしくないけれど、そのころみんなが行き来していた道が問題だった。今みたいにコンクリートやアスファルトでかためた道じゃないからほこりだらけだし、人間だけじゃなく牛や馬も通るから、その後の道はどうなるか、そうぞうがつくよね。どんなに気をつけていても、知らない間にいろんなものをふんで歩いて、いつのまにか足はきたなくなるだけじゃなくて、くさくもなる。だから、外から帰ってきたらどうしたってあらわないといけない。でも、あんまりうれしい仕事じゃない。いったいだれがそんなにきたない、くさい足をすすんであらうなんて言うだろう。だから足をあらうのは、たいてい、一番身分のひくいしもべの役目だった。」(サリー・ロイドジョーンズ作・廣橋麻子訳「ジーザス・バイブルストーリー」p.287)